狭間 再来
世界が、誰かの記憶の中へと溶け込んだようだった。
草の色は褪せ、空は晴れているのに、陽の光が届かない。空気が重く、音の響きすらわずかに歪んでいる。
目に映るすべてが、ほんの少しずつ“現実”からずれていた。
「……ここは」
蓮は無意識に足を前に出した。
足元の土の感触は確かにある。風も吹いている――だが、何かが決定的に違っていた。
(間違いない……スミレと出会った、あの時の“狭間”だ。でも……これは、もっと深い)
まさか、再び訪れることになるとは思わなかった。
だが、理由はわかっていた。
──ラミア。
あの女が姿を現した瞬間から、世界の“何か”が動き出していた。
視界の隅で、もやのような黒い“歪み”が静かに揺れている。
(これが……ラミアの言っていた“歪み”)
そのとき。
「……蓮……?」
声がした。
ハッとして振り返る。
「蓮、ここってーー」
スミレの不安げな顔。
彼女はまだ戸惑っているようだったが、蓮を見るとそっと頷いた。
「ここ……狭間、よね」
スミレの声がわずかに震える。
「あの時と、同じ匂いがする……でも、それ以上に……なにか……」
「うん、間違いない。でも……前より深い気がする。ラミアが関係してるんだ、きっと」
静寂の中、風が通り抜ける。
タオとリリスも顔を見合わせると息を呑んだ。
「ここが狭間ってことは……」
タオが口を開いた。
「蓮、お前、もしかしたら……今なら帰れるんじゃねぇか?」
タオの言葉に、スミレがはっと蓮を見た。
リリスも、黙ったまま視線を投げかける。
「……」
蓮は何も言わず、周囲を見渡した。
地面はまだらに色を失い、木々の形は歪みかけている。
ここが“世界と世界の狭間”であることは、もはや疑いようもなかった。
(……帰れるのか? 今なら――)
たしかに、あのときと似た気配がある。全てが一緒というわけではなかった。
けれど――
「……無理だ」
蓮は、確信するように口を開いた。
けれどその声には、ほんのわずかに震えが混じっていた。
「……俺には、まだ……やらなきゃいけないことがある。
それに……快人や、はな美だって――」
言いかけた瞬間だった。
意識の奥に、強烈な“何か”が流れ込んでくる。
──映像。否、記憶か未来か。あるいは誰かの意志そのものか。
気づけば、蓮の視界は別の世界に引きずられていた。
身体がここにあるまま、意識だけが深く潜っていく。
「う……っ、なんだ、これ……」
目の前に広がったのは、妖精国イシュタルの風景だった。
快人とイリア、はな美たちが北区画で復興作業を行っている。
笑い声が聞こえる。泥にまみれた手。額の汗。希望の匂い。
けれど、その日常は突如として破壊された。
空間が割れ、黒い“歪み”が地の底から吹き上がる。
建物が崩れ、子供の泣き声がこだまする。
災害でもなく、戦争でもなく――
それは、蓮の知っている“現実”とは違う次元から押し寄せてくる。
「蓮……?」
現実に引き戻されたのは、肩に触れた温もりだった。
スミレの手が、そっと彼の肩に触れていた。
蓮は静かに瞬きをし、ようやくスミレの顔を見た。
夢の中から抜け出したように。
けれど、心の奥に残った映像の痕跡は、あまりに鮮明だった。
「……今のは……」
自分でもよく分からない。
だが、たしかに“見てしまった”。
“戻る”という選択肢が、遠ざかっていく感覚だけが残った。
「……俺は、今は帰らない」
声は低く、しかし確かだった。
迷いはある。恐れもある。
けれどそれ以上に、今ここで目を逸らしてはいけないという直感が、蓮の胸を強く打っていた。
スミレが、はっと息を呑んだ。
その瞳がわずかに揺れる。
口を開きかけて、けれど何も言わず、彼の顔をじっと見つめる。
「……なにが、見えたの?」
声は静かだった。けれど、その奥には言い知れない感情が渦巻いている。
蓮は目を伏せ、そして答える。
「よくわからない。でも、歪みが……現実を侵し始めてる。このまま俺が元の世界に戻っても、何も終わらない。……快人たちも、あのままじゃ……」
次の瞬間。
スミレがそっと、蓮を抱きしめた。
言葉はなかった。
ただ静かに、彼の胸に額を預ける。
蓮は戸惑いながらも、スミレのぬくもりを受け止めた。
不思議と、それだけで少し心が落ち着いた。
怖さも、迷いも、完全に消えたわけじゃない。
けれど――進めると思えた。
「大丈夫……離れないよ」
ぽつりと漏れた蓮の声に、スミレはかすかに頷くだけだった。
「……とにかく、一度ここから出よう」
ようやく口を開いたタオが、辺りを見回す。
「ホクトたちの馬車も見当たらねぇ。分断されてると考えるべきだ」
「このまま進んだら……何かに呑まれる気がする」
スミレは覚悟するように蓮の身を離した。
「でも進むしかないわ。立ち止まってたら、いずれこの歪みに呑まれる」
スミレの声ははっきりしていた。
彼女もまた、この異常な世界の中で“何か”を感じ取っているようだった。
蓮は深く息を吸い込むと、前を向いた。
「行こう。答えが、きっとこの先にある」
彼らの背後で、ゆっくりと“記憶”のような風景が滲んで消えていった。
ゆっくり、ゆっくりと森の中に踏み込む。
しばらくは、草を踏む音と、誰かの呼吸だけが響いていた。
蓮とスミレが先を歩き、タオとリリスがその背を追っていた。
だが――その歩みが、ふいに途切れる。
「っ……は……」
リリスが、ぴたりと足を止めた。
「リリス?」
タオが振り向いた瞬間、その小柄な体がぐらつく。
「おい、リリス!」
慌てて支えに入ると、リリスは額に手を当て、顔をしかめていた。
息が浅く、指先が震えている。
「……誰かが……ずっと喋ってる……」
リリスの声は掠れていた。
「頭の中で……止まらないの……誰の声かも、もう……わかんない……」
「……声? 誰のだ?」
「わかんない……でも、どこかで聞いたことある声……夢の中みたいな、遠い場所から呼ばれてるような……」
リリスの目が揺れる。焦点が合っていない。
蓮とスミレもすぐに駆け寄った。
「狭間の影響なの……? まさか、こんなに早く……」
スミレが膝をついて、リリスの手を取る。
けれどその手からは、魔力の流れが乱れているのが感じ取れた。まるで記憶そのものが干渉を受けているかのように。
「リリス、意識はっきりしてる?」
「う、ん……でも、……記憶が、ぐちゃぐちゃで……」
そのとき。
“ガサッ”
近くの茂みが風もないのに揺れた。空間がかすかに軋む。
「……また歪みが強くなってる」
蓮が立ち上がり、あたりを見渡す。森の奥がにじみ、まるで“記憶の断片”が押し寄せてくるような感覚。
そして――リリスが小さくつぶやく。
「……ごめん……ここにいたら、あたし……ダメになる……」
タオの肩がびくりと跳ねた。
「……おい、待て、リリス!おい!」
だがリリスはもう、答えなかった。まるで夢を見るように、タオの腕の中で瞼を閉じていた。
蓮は口を固く結び、前を見据える。
「……このまま進むしかない。歪みの中心を見つけて、何が起きてるのか確かめないと」
「……ああ。だが気をつけろよ。もう、ただの“狭間”じゃねえ」
タオはリリスの体を優しく背負い直す。
森の奥へ進むにつれ、空間の歪みは目に見えて強くなっていった。
踏みしめたはずの道が、気づけば消えている。
さっきまであった木々の高さや配置も変わっていて、風の音さえ別物だった。
まるで、世界そのものが意識を持ち、少しずつ姿を変えているかのようだった。
「……それにしても、ここが“狭間”ってやつか」
タオが、低く呟いた。
「随分と不気味な場所だな。お前たちはこんなとこで出会ったんだろ? よく戻ってこられたな」
蓮は少しだけ息を吐いて答える。
「どうやって抜けたのかは、当時は分からなかった。でも、今なら……分かる。たぶん“ラミアの家”だ」
「家?」
「ああ。あいつの家を境に、空間の歪みが閉じてた気がする。
スミレと最初に出会った時も、イシュタルからの帰り道も……あの家を抜けて、森の外に出られた」
「ってことは、今回もそいつがどこかに……?」
タオの言葉に、蓮は首を横に振りながらも、歩みは止めなかった。
「わからない。今回の歪みは、前とは違う。
あのときより深く、濃くて……なんというか、戻れないものになってる気がするんだ」
タオは、意識を失ったリリスを背負い直し、後ろを振り返る。
スミレはそのすぐ後ろを静かに歩いていた。誰もが、言葉を慎重に選んでいた。
この空間では、言葉ひとつが引き金になるような不安定さが漂っている。
「……なあ、おい」
タオが、ふと立ち止まった。
「ここ……さっきも通らなかったか?」
蓮も思わず足を止め、あたりを見渡す。
確かに、見覚えのある木や岩の並びがある。
「同じ場所をぐるぐる回ってるみてぇだな……」
タオの声に、無意識に皆の呼吸が詰まる。
「……似てるけど、匂いが違う」
スミレが呟いた。
「風の流れも、さっきとは微妙に違う。……それに、この“重さ”。きっと空間ごと、ずれてるの」
言葉に確信はない。
けれど彼女の声には、確実に“何かを感じ取っている”響きがあった。
蓮の足がふと止まる。
前方、霧の向こう。
誰かが立っていた。
「……!」
とっさに蓮は剣に手をかける。
霧が少しずつ晴れていく。
そこにいたのは――
「……こんなところで迷子かよ。随分と間の悪い連中だな」
低く、どこか嘲るような声。
現れたのは、黒いフードを被った男だった。
だが、その目だけが異様に鋭く光っていた。空気が凍りつく。
タオの喉がひくりと鳴る。
「っ……誰だ?」
タオが険しい声で呟いた。
男は黒い外套をまとい、片腕に“何か”を抱えている。
ゆらりと、まるでこちらを待ち受けていたかのように、立っていた。
「まって……あれ……ミネルじゃない?」
スミレが、目を見開く。
そう――男が抱えていたのは、ぐったりと力を失ったミネルだった。
彼女は意識を失っているようで、顔色も悪い。
その姿に、スミレが思わず駆け出しかける。
「ミネル……っ!」
「待て、スミレ!」
蓮がすぐに彼女の手を掴んで止めた。
男の表情が、僅かに歪んだ笑みを浮かべたからだ。
「……誰だ、お前」
蓮が問う。
男はまっすぐ蓮たちを見つめ、軽く顎を上げた。
その目には、どこか深い闇と、妙な確信が宿っていた。
「亜矢翔。……君たちは初対面か。人間界で“人外の進化”を研究していた、ただの研究者だよ。少し前までは……千尋と一緒に」
その名に、蓮たちは一瞬きょとんとし、次いでスミレの目が見開かれる。
「千尋……?」
男は優しく、腕の中のミネル――いや、千尋の顔を見下ろした。
「彼女と僕は、かつての仲間だった。同じ夢を見ていた。……未知なる存在の可能性、世界を救うための進化。それが暴走に変わったとしても……僕は、彼女を手放したことはなかった」
「研究のために、ミネルを連れ回してるってことかよ……!」
タオが苛立ちを隠さず吠える。
「違う……違うさ。彼女は、ただの被検体なんかじゃない。……僕の、大切な“半身”だった」
その声には、確かに“愛情”があった。
けれど、それが正しいかどうかは、別の話だった。
そのとき。
ミネルのまぶたが、ゆっくりと開かれる。
「……ん、……あ……」
青い瞳がゆらりと揺れ、亜矢翔を映す。
「……あ……や……と……?」
彼女の声はかすれていたが、確かにその名を呼んだ。
亜矢翔の目に、一瞬だけ人間らしい光が宿る。
「そうだ……僕だ、千尋。ようやく……会えた……!」
ミネルは、彼を見つめながらゆっくりと身を起こす。
しばしの静寂のあと、彼女は囁いた。
「記録にはある……あなたと共に、過ごしていた時間。共に研究して、笑って、悩んで……あなたの傍で、“葉月千尋”として過ごした時間が」
亜矢翔の呼吸が止まる。
そして次の瞬間、ミネルの瞳がすっと鋭く細められた。
「でも……私はもう、“葉月千尋”ではない」
「……やめてくれ、そんな言い方をしないでくれ。記憶がなくてもいい……構わない。僕は君を連れ戻す。君が……君がいないと、僕は……!」
ミネルは彼の腕から静かに離れ、ゆっくりと立ち上がる。
「あなたのために、私は生きていない。
私は、“私”の意志でこの場に立っている。
私には……守りたい仲間がいるから」
「違う、違う違う……!」
亜矢翔の声が震え、次第に歪んでいく。
「君は……あの頃の千尋に戻れるんだ。僕と一緒なら……僕が、全部元通りにしてやる! 記憶も、身体も、世界だって……!」
蓮が剣を抜き、スミレが魔力を集束する。
「来るな。これ以上近づいたら、容赦しない」
蓮が言い切る。
そのとき――亜矢翔の背後から、黒い“影”がうごめき始める。
狭間の闇。それはまるで彼の心の奥底から溢れ出たように、じゅう……と空間を蝕み始めた。
「千尋……! 戻ってこい、頼む!君だけは、僕を……!」
ミネルの声が、静かに彼を断ち切った。
「……あなたを“信じていた”千尋は、もういない。
あなたが今、見ているのは――私、“ミネル”です」
その瞳には、かつての情がかすかに残っていた。
けれど、その奥には――どこまでも静かで、迷いのない決意の光が宿っていた。
彼女は一歩前へ進み、剣を構えた。
「ちひ……ろ……ああああぁぁぁ千尋! 目を覚ませ! 俺はっ、俺はお前を助けに来たんだッ!!」
亜矢翔の叫びは、懇願から絶叫へと変わる。
声が震え、感情の制御が崩壊していく。
その背後から、黒い霧が溢れ出す。
まるで彼の執念に呼応するように、狭間の影が空間を侵食していく。
次の瞬間――剣閃が、霧を切り裂いた。
ミネルの斬撃と、亜矢翔の放った黒き影がぶつかり合い、
世界が軋むような音を立てて震えた。
爆ぜる魔力。ゆがむ空間。
過去と現在が激突し、空気が悲鳴を上げる。
「……下がれッ!」
ミネルの声が鋼のように響いた。
だが蓮も、すでに剣を抜き放ち、その場から一歩も動かなかった。
その背後で、スミレが魔力を高め、呪詠を紡ぎ始めている。
「タオ、お前はリリスを!」
振り返らずに放った蓮の声に、タオが舌打ちしながらうなずいた。
彼の腕の中でぐったりとしたリリスの気配が、いっそう危うさを増している。
前方では、かつて“同志”だった者同士が、今や敵として剣を交えている。
交錯する記憶、断ち切られる絆。
この場所は、ただの戦場ではない――
過去と現在の、決別の場だった。




