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【完結】狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第6章 機械仕掛けの記憶と罪
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狭間 再来

 世界が、誰かの記憶の中へと溶け込んだようだった。


 草の色は褪せ、空は晴れているのに、陽の光が届かない。空気が重く、音の響きすらわずかに歪んでいる。

 目に映るすべてが、ほんの少しずつ“現実”からずれていた。


「……ここは」


 蓮は無意識に足を前に出した。

 足元の土の感触は確かにある。風も吹いている――だが、何かが決定的に違っていた。


(間違いない……スミレと出会った、あの時の“狭間”だ。でも……これは、もっと深い)


 まさか、再び訪れることになるとは思わなかった。


 だが、理由はわかっていた。


 ──ラミア。


 あの女が姿を現した瞬間から、世界の“何か”が動き出していた。

 視界の隅で、もやのような黒い“歪み”が静かに揺れている。


(これが……ラミアの言っていた“歪み”)


 そのとき。


「……蓮……?」


 声がした。

 ハッとして振り返る。


「蓮、ここってーー」


 スミレの不安げな顔。

 彼女はまだ戸惑っているようだったが、蓮を見るとそっと頷いた。


「ここ……狭間、よね」

 スミレの声がわずかに震える。

「あの時と、同じ匂いがする……でも、それ以上に……なにか……」


「うん、間違いない。でも……前より深い気がする。ラミアが関係してるんだ、きっと」


 静寂の中、風が通り抜ける。


 タオとリリスも顔を見合わせると息を呑んだ。


「ここが狭間ってことは……」

 タオが口を開いた。

「蓮、お前、もしかしたら……今なら帰れるんじゃねぇか?」


 タオの言葉に、スミレがはっと蓮を見た。

 リリスも、黙ったまま視線を投げかける。


「……」


 蓮は何も言わず、周囲を見渡した。

 地面はまだらに色を失い、木々の形は歪みかけている。

 ここが“世界と世界の狭間”であることは、もはや疑いようもなかった。


 (……帰れるのか? 今なら――)


 たしかに、あのときと似た気配がある。全てが一緒というわけではなかった。


 けれど――


「……無理だ」


 蓮は、確信するように口を開いた。

 けれどその声には、ほんのわずかに震えが混じっていた。


「……俺には、まだ……やらなきゃいけないことがある。

 それに……快人や、はな美だって――」


 言いかけた瞬間だった。

 意識の奥に、強烈な“何か”が流れ込んでくる。


 ──映像。否、記憶か未来か。あるいは誰かの意志そのものか。


 気づけば、蓮の視界は別の世界に引きずられていた。

 身体がここにあるまま、意識だけが深く潜っていく。


「う……っ、なんだ、これ……」


 目の前に広がったのは、妖精国イシュタルの風景だった。

 快人とイリア、はな美たちが北区画で復興作業を行っている。

 笑い声が聞こえる。泥にまみれた手。額の汗。希望の匂い。


 けれど、その日常は突如として破壊された。

 空間が割れ、黒い“歪み”が地の底から吹き上がる。

 建物が崩れ、子供の泣き声がこだまする。


 災害でもなく、戦争でもなく――

 それは、蓮の知っている“現実”とは違う次元から押し寄せてくる。


「蓮……?」


 現実に引き戻されたのは、肩に触れた温もりだった。

 スミレの手が、そっと彼の肩に触れていた。


 蓮は静かに瞬きをし、ようやくスミレの顔を見た。


 夢の中から抜け出したように。

 けれど、心の奥に残った映像の痕跡は、あまりに鮮明だった。


「……今のは……」


 自分でもよく分からない。

 だが、たしかに“見てしまった”。

 “戻る”という選択肢が、遠ざかっていく感覚だけが残った。


「……俺は、今は帰らない」


 声は低く、しかし確かだった。

 迷いはある。恐れもある。

 けれどそれ以上に、今ここで目を逸らしてはいけないという直感が、蓮の胸を強く打っていた。


 スミレが、はっと息を呑んだ。

 その瞳がわずかに揺れる。

 口を開きかけて、けれど何も言わず、彼の顔をじっと見つめる。


「……なにが、見えたの?」


 声は静かだった。けれど、その奥には言い知れない感情が渦巻いている。


 蓮は目を伏せ、そして答える。


「よくわからない。でも、歪みが……現実を侵し始めてる。このまま俺が元の世界に戻っても、何も終わらない。……快人たちも、あのままじゃ……」


 次の瞬間。

 スミレがそっと、蓮を抱きしめた。


 言葉はなかった。

 ただ静かに、彼の胸に額を預ける。


 蓮は戸惑いながらも、スミレのぬくもりを受け止めた。

 不思議と、それだけで少し心が落ち着いた。

 怖さも、迷いも、完全に消えたわけじゃない。

 けれど――進めると思えた。


「大丈夫……離れないよ」


 ぽつりと漏れた蓮の声に、スミレはかすかに頷くだけだった。


「……とにかく、一度ここから出よう」


 ようやく口を開いたタオが、辺りを見回す。


「ホクトたちの馬車も見当たらねぇ。分断されてると考えるべきだ」

「このまま進んだら……何かに呑まれる気がする」


 スミレは覚悟するように蓮の身を離した。


「でも進むしかないわ。立ち止まってたら、いずれこの歪みに呑まれる」


 スミレの声ははっきりしていた。

 彼女もまた、この異常な世界の中で“何か”を感じ取っているようだった。


 蓮は深く息を吸い込むと、前を向いた。


「行こう。答えが、きっとこの先にある」


 彼らの背後で、ゆっくりと“記憶”のような風景が滲んで消えていった。



 ゆっくり、ゆっくりと森の中に踏み込む。

 しばらくは、草を踏む音と、誰かの呼吸だけが響いていた。

 蓮とスミレが先を歩き、タオとリリスがその背を追っていた。


 だが――その歩みが、ふいに途切れる。


「っ……は……」


 リリスが、ぴたりと足を止めた。


「リリス?」


 タオが振り向いた瞬間、その小柄な体がぐらつく。


「おい、リリス!」


 慌てて支えに入ると、リリスは額に手を当て、顔をしかめていた。

 息が浅く、指先が震えている。


「……誰かが……ずっと喋ってる……」

 リリスの声は掠れていた。

「頭の中で……止まらないの……誰の声かも、もう……わかんない……」


「……声? 誰のだ?」


「わかんない……でも、どこかで聞いたことある声……夢の中みたいな、遠い場所から呼ばれてるような……」


 リリスの目が揺れる。焦点が合っていない。

 蓮とスミレもすぐに駆け寄った。


「狭間の影響なの……? まさか、こんなに早く……」


 スミレが膝をついて、リリスの手を取る。

 けれどその手からは、魔力の流れが乱れているのが感じ取れた。まるで記憶そのものが干渉を受けているかのように。


「リリス、意識はっきりしてる?」


「う、ん……でも、……記憶が、ぐちゃぐちゃで……」


 そのとき。


 “ガサッ”


 近くの茂みが風もないのに揺れた。空間がかすかに軋む。


「……また歪みが強くなってる」


 蓮が立ち上がり、あたりを見渡す。森の奥がにじみ、まるで“記憶の断片”が押し寄せてくるような感覚。


 そして――リリスが小さくつぶやく。


「……ごめん……ここにいたら、あたし……ダメになる……」


 タオの肩がびくりと跳ねた。


「……おい、待て、リリス!おい!」


 だがリリスはもう、答えなかった。まるで夢を見るように、タオの腕の中で瞼を閉じていた。


 蓮は口を固く結び、前を見据える。


「……このまま進むしかない。歪みの中心を見つけて、何が起きてるのか確かめないと」


「……ああ。だが気をつけろよ。もう、ただの“狭間”じゃねえ」


 タオはリリスの体を優しく背負い直す。


 森の奥へ進むにつれ、空間の歪みは目に見えて強くなっていった。

 踏みしめたはずの道が、気づけば消えている。

 さっきまであった木々の高さや配置も変わっていて、風の音さえ別物だった。

 まるで、世界そのものが意識を持ち、少しずつ姿を変えているかのようだった。


「……それにしても、ここが“狭間”ってやつか」

 タオが、低く呟いた。

「随分と不気味な場所だな。お前たちはこんなとこで出会ったんだろ? よく戻ってこられたな」


 蓮は少しだけ息を吐いて答える。


「どうやって抜けたのかは、当時は分からなかった。でも、今なら……分かる。たぶん“ラミアの家”だ」


「家?」


「ああ。あいつの家を境に、空間の歪みが閉じてた気がする。

 スミレと最初に出会った時も、イシュタルからの帰り道も……あの家を抜けて、森の外に出られた」


「ってことは、今回もそいつがどこかに……?」


 タオの言葉に、蓮は首を横に振りながらも、歩みは止めなかった。


「わからない。今回の歪みは、前とは違う。

 あのときより深く、濃くて……なんというか、戻れないものになってる気がするんだ」


 タオは、意識を失ったリリスを背負い直し、後ろを振り返る。

 スミレはそのすぐ後ろを静かに歩いていた。誰もが、言葉を慎重に選んでいた。


 この空間では、言葉ひとつが引き金になるような不安定さが漂っている。


「……なあ、おい」

 タオが、ふと立ち止まった。

「ここ……さっきも通らなかったか?」


 蓮も思わず足を止め、あたりを見渡す。

 確かに、見覚えのある木や岩の並びがある。


「同じ場所をぐるぐる回ってるみてぇだな……」

 タオの声に、無意識に皆の呼吸が詰まる。


「……似てるけど、匂いが違う」

 スミレが呟いた。

「風の流れも、さっきとは微妙に違う。……それに、この“重さ”。きっと空間ごと、ずれてるの」


 言葉に確信はない。

 けれど彼女の声には、確実に“何かを感じ取っている”響きがあった。



 蓮の足がふと止まる。


 前方、霧の向こう。

 誰かが立っていた。


「……!」


 とっさに蓮は剣に手をかける。


 霧が少しずつ晴れていく。


 そこにいたのは――


「……こんなところで迷子かよ。随分と間の悪い連中だな」


 低く、どこか嘲るような声。

 現れたのは、黒いフードを被った男だった。

 だが、その目だけが異様に鋭く光っていた。空気が凍りつく。


 タオの喉がひくりと鳴る。

「っ……誰だ?」


 タオが険しい声で呟いた。


 男は黒い外套をまとい、片腕に“何か”を抱えている。

 ゆらりと、まるでこちらを待ち受けていたかのように、立っていた。


「まって……あれ……ミネルじゃない?」


 スミレが、目を見開く。


 そう――男が抱えていたのは、ぐったりと力を失ったミネルだった。


 彼女は意識を失っているようで、顔色も悪い。

 その姿に、スミレが思わず駆け出しかける。


「ミネル……っ!」


「待て、スミレ!」


 蓮がすぐに彼女の手を掴んで止めた。

 男の表情が、僅かに歪んだ笑みを浮かべたからだ。


「……誰だ、お前」


 蓮が問う。


 男はまっすぐ蓮たちを見つめ、軽く顎を上げた。

 その目には、どこか深い闇と、妙な確信が宿っていた。


亜矢翔(あやと)。……君たちは初対面か。人間界で“人外の進化”を研究していた、ただの研究者だよ。少し前までは……千尋と一緒に」


 その名に、蓮たちは一瞬きょとんとし、次いでスミレの目が見開かれる。


「千尋……?」


 男は優しく、腕の中のミネル――いや、千尋の顔を見下ろした。


「彼女と僕は、かつての仲間だった。同じ夢を見ていた。……未知なる存在の可能性、世界を救うための進化。それが暴走に変わったとしても……僕は、彼女を手放したことはなかった」


「研究のために、ミネルを連れ回してるってことかよ……!」


 タオが苛立ちを隠さず吠える。


「違う……違うさ。彼女は、ただの被検体なんかじゃない。……僕の、大切な“半身”だった」


 その声には、確かに“愛情”があった。

 けれど、それが正しいかどうかは、別の話だった。


 そのとき。


 ミネルのまぶたが、ゆっくりと開かれる。


「……ん、……あ……」


 青い瞳がゆらりと揺れ、亜矢翔を映す。


「……あ……や……と……?」


 彼女の声はかすれていたが、確かにその名を呼んだ。

 亜矢翔の目に、一瞬だけ人間らしい光が宿る。


「そうだ……僕だ、千尋。ようやく……会えた……!」


 ミネルは、彼を見つめながらゆっくりと身を起こす。

 しばしの静寂のあと、彼女は囁いた。


「記録にはある……あなたと共に、過ごしていた時間。共に研究して、笑って、悩んで……あなたの傍で、“葉月千尋”として過ごした時間が」


 亜矢翔の呼吸が止まる。

 そして次の瞬間、ミネルの瞳がすっと鋭く細められた。


「でも……私はもう、“葉月千尋”ではない」


「……やめてくれ、そんな言い方をしないでくれ。記憶がなくてもいい……構わない。僕は君を連れ戻す。君が……君がいないと、僕は……!」


 ミネルは彼の腕から静かに離れ、ゆっくりと立ち上がる。


「あなたのために、私は生きていない。

 私は、“私”の意志でこの場に立っている。

 私には……守りたい仲間がいるから」


「違う、違う違う……!」


 亜矢翔の声が震え、次第に歪んでいく。


「君は……あの頃の千尋に戻れるんだ。僕と一緒なら……僕が、全部元通りにしてやる! 記憶も、身体も、世界だって……!」


 蓮が剣を抜き、スミレが魔力を集束する。


「来るな。これ以上近づいたら、容赦しない」

 蓮が言い切る。


 そのとき――亜矢翔の背後から、黒い“影”がうごめき始める。


 狭間の闇。それはまるで彼の心の奥底から溢れ出たように、じゅう……と空間を蝕み始めた。


「千尋……! 戻ってこい、頼む!君だけは、僕を……!」


 ミネルの声が、静かに彼を断ち切った。


「……あなたを“信じていた”千尋は、もういない。

 あなたが今、見ているのは――私、“ミネル”です」


 その瞳には、かつての情がかすかに残っていた。

 けれど、その奥には――どこまでも静かで、迷いのない決意の光が宿っていた。


 彼女は一歩前へ進み、剣を構えた。


「ちひ……ろ……ああああぁぁぁ千尋! 目を覚ませ! 俺はっ、俺はお前を助けに来たんだッ!!」


 亜矢翔の叫びは、懇願から絶叫へと変わる。

 声が震え、感情の制御が崩壊していく。


 その背後から、黒い霧が溢れ出す。

 まるで彼の執念に呼応するように、狭間の影が空間を侵食していく。


 次の瞬間――剣閃が、霧を切り裂いた。


 ミネルの斬撃と、亜矢翔の放った黒き影がぶつかり合い、

 世界が軋むような音を立てて震えた。


 爆ぜる魔力。ゆがむ空間。

 過去と現在が激突し、空気が悲鳴を上げる。


「……下がれッ!」


 ミネルの声が鋼のように響いた。

 だが蓮も、すでに剣を抜き放ち、その場から一歩も動かなかった。

 その背後で、スミレが魔力を高め、呪詠を紡ぎ始めている。


「タオ、お前はリリスを!」


 振り返らずに放った蓮の声に、タオが舌打ちしながらうなずいた。

 彼の腕の中でぐったりとしたリリスの気配が、いっそう危うさを増している。

 前方では、かつて“同志”だった者同士が、今や敵として剣を交えている。


 交錯する記憶、断ち切られる絆。


 この場所は、ただの戦場ではない――

 過去と現在の、決別の場だった。


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