馬車に揺られて
海底都市セラティス──
それは、伝承の中でしか語られてこなかった、架空界でももっとも幻に近い都市。
今やその存在を信じる者など、ごくわずかだ。けれど、あの一瞬。
ミネルに宿ったラミアの記憶。
全員が垣間見た、水に浮かぶ光景。
そして、ラミアの言葉──。
それらは確かに、南を指し示していた。
会議室の空気を、タオの低い声が破る。
「海底都市セラティス、か。……本当に、たどり着けるのかよ?」
テーブル越しに腕を組んだ彼の声には、半ば疑いと、半ば戸惑いが滲んでいた。
伝承によれば、セラティスはネイトエールから遥か南、深海の底に存在するという。
「……簡単にはいかないだろうな」
ホクトが静かに答える。淡々とした口調だが、その眼差しには覚悟が宿っていた。
「だが、託された道があるとすれば──今はそこしかない」
そう言って、ホクトは懐からタバコを取り出す。火をつけようとした瞬間、ローレの手が伸びた。
「おいおい、女子もいるんだ。今くらい禁煙しろ」
ホクトは苦い顔をして、渋々タバコをしまい込む。
「……まあ、策がないわけじゃない」
ホクトは言葉を続けた。
「このネイトエールから南下した先に、“ラゼーラ”という港町がある。……かなり昔に耳にしただけだがな」
「ラゼーラ……?」
リリスが小さく首を傾げ、続いて美穂が言った。
「聞いたことない町ね。記録にも、地図にも載っていなかったはず」
「そこに、何か手がかりがあるんですか?」
蓮が前のめりで問うと、ホクトは肩をすくめて答えた。
「分からん。だが、セラティスの伝承で語られる“聖なる海”に最も近いとされているのが、その町だ。……何かあるかもしれん」
「ははん、つまり……行き当たりばったりってやつだな」
ローレが半笑いで片眉を上げる。
「だが、何も知らずに海に飛び込むよりは、いくらかマシだろう」
ホクトが苦笑を浮かべた。
こうして、一行は、地図にもほとんど記されていない“忘れられた港町ラゼーラ”を目指すこととなった。
かつて、海底と地上を繋ぐ“古の航路”が存在した──
そんな朧げな伝承の中に、唯一その名が残されていた町。
今はもう、その場所も存在も、誰の記憶からも消えかけている。
それでも、一行は信じていた。
……すべての鍵が、そこに眠っていると。
「で、ラゼーラまで……どうやって行く?」
ぽつりとタオが漏らす。
「地図にすら載ってない町だろ? しかも、“世界の底”に通じる場所だ。転移や飛行魔法はリスクが高すぎる」
スミレが静かに頷いた。
「狭間の歪みが空間にまで影響してる以上、安全なのは──陸路ね」
「つまり、馬車だな」
ホクトが即答した。
「静かに進めるし、魔力の揺らぎも抑えられる。足は遅いが……確実だ」
「じゃあ、馬車二台用意するか」
ローレが地図を睨みながら言う。
「全員一台じゃ無理があるし、分けて動いた方が何かと融通も利く」
「馬車、あるんですか……?」
蓮が少し驚いたように訊くと、ホクトが呆れたように言った。
「……王都だぞ? 馬車の一つや二つ、あるに決まっている」
蓮は目を瞬かせた。これまでの任務での旅は、基本的に徒歩。
毎度筋肉痛で死にかけていた記憶が蘇る。
「ど、どうして今まで使わなかったんだよ!」
憤る蓮に、ホクトはきっぱりと答えた。
「体力作りだ」
……何も言い返せなかった。
「蓮、スミレ、タオ、リリスの四人で一台。もう一台は、美穂、ローレ、ミネル、そして俺が乗る」
ホクトの指示に、ローレがニヤリと笑う。
「ナイス分け方だな。若いのは若いので勝手にやってろってこった」
「私も若いんだけど」
美穂がむっとした顔で言い返す。
ローレの口元がピクリと上がる。
「ああん? 魔力の匂いで分かるんだよ。てめえ、俺らの世代だろ?
それとも何か? 若い連中に混ざって舐められたいとでも?」
「舐めないで」
ビリビリと火花の飛ぶようなやり取りに、リリスが小さく笑った。
「……若手チームとベテランチームってことね」
タオがむすっとした顔で何か言いかけたが、蓮に肩を叩かれて口をつぐんだ。
「まあ、旅の空気がちょっとは和むかもね」
スミレは黙っていたが、どこか楽しそうに目を細めていた。
こうして──
セラティスを目指す、静かで確かな旅路が、いま始まろうとしていた。
***
馬車の車輪が、ざらついた地面をゆっくりと転がっていく。
昼を過ぎたばかりの空は高く澄んでいるというのに、車内にはどこか重たい沈黙が漂っていた。
「リリス、よく寝れるよなあ……」
蓮がぽつりと漏らすように言う。
空気をやわらげようとして、けれどどこか所在なげな声音だった。
「疲れてるのよ、最近ずっと任務続きだったし……」
スミレが静かに答える。
視線の先には、揺れる車内で窓にもたれながら眠るリリスの姿があった。
その寝息は穏やかで、まるで別世界の空気を吸っているかのように安らかだった。
……だが、残された三人──蓮、スミレ、タオの間には、言葉にしづらい空気が流れていた。
タオがふと視線を逸らし、しばらく沈黙してから、ぽつりと口を開いた。
「……なんつーか。まだ、実感わかねぇんだよな」
その声は乾いていて、少しだけ投げやりだった。
「俺たち三人とも……ラミアの血が流れてる。……血縁者ってやつか。冗談きついぜ、マジで」
誰にも向けられていないその言葉に、蓮もスミレも黙ったまま耳を傾けた。
馬車の軋みだけが、静かに響いている。
「おかしいとは思ってたんだよ。
五大悪魔の誰かが親? そんな都合よく集まるわけねーってさ。
でも……違った。最初から全部“仕組まれてた”。ラミアの、あいつの……手のひらの上だったってわけだ」
タオは視線を外の景色に向けた。
どこまでも続く風景が、ただ遠くへ遠くへと流れていく。
進む馬車の振動が、まるで過去や感情までも揺さぶっていくかのようだった。
「……タオ」
蓮が、そっと声をかける。
「罠でも、運命でも。……それでも俺は、お前と出会えてよかったって思ってる。
選ばされたんじゃなくて、俺が“選んで”出会ったって、そう信じたいんだ」
タオは黙ったまま、風に髪をなぶられながら佇んでいる。
その横顔を見つめながら、スミレが柔らかく言葉を重ねた。
「私も……正直、動揺してるわ。でも、それで私たちの関係が変わるとは思ってない。
血に縛られない絆だって、あるでしょう?」
タオはゆっくりと振り返り、少しだけ眉を上げて、小さく笑った。
「……お前ら、ほんと放っとけねぇな。……ちゃんとついてこいよ。置いてくぞ?」
蓮がくすっと笑う。
タオの背は、兄のようで、弟のようで──どこか、頼もしかった。
そのとき、リリスが身じろぎをした。
やがてゆっくりと起き上がり、眉間にしわを寄せて頭を押さえる。
「うぅ……なんか、頭が割れそう……」
突然の呻きに、三人が一斉に振り返った。
「おい、リリス、大丈夫か?」
タオが思わず身を乗り出し、リリスの肩を支える。
彼女は顔をしかめながら、ふらりと前かがみになった。
「……え、三人とも平気なの?」
リリスは不思議そうに問いかける。
確かに空気の妙な重さや気配はあったが、蓮たち三人には体調の異変は感じられなかった。
顔を見合わせて、揃って小さく頷く。
「……やっぱ、ラミアの血ってやつが関係してんのか?」
タオが低く唸る。
「空気がざらついてんの、分かるし。進めば進むほど景色がゆがんでる。……俺でも感じるくらいだ、リリスの方がヤバいかもな」
「兎の五感は鋭いのよ……ずっと誰かの声が聞こえてたの。知らない“音”も……。
これ、絶対に普通じゃない……この先には、何かがある」
その言葉に、スミレが思いつめたように呟いた。
「……セラティスが近づいているのかもしれない。
狭間の歪みと繋がって……何かが呼んでる」
その瞬間だった。
馬車の下──地面が、かすかに波打った。
「……!」
蓮の視界に、突如として鮮烈な映像が焼きつく。
水底のように静かで、どこまでも澄んだ蒼。
そのなかに浮かぶように佇む、美しく幻想的な都市。
それは夢か、記憶か、あるいは──誰かの記録か。
だが、確かにそこに在ると、本能が叫んでいた。




