五大悪魔 後編
会議室には、再び深い沈黙が落ちていた。
先ほどまでの緊迫が嘘のように、誰もがただ──ラミアという存在に圧倒されていた。
ミネルの中から現れた彼女は、今や確かな実体を持ってそこに立っている。
その姿は異形でありながらも、どこか圧倒的な母性を感じさせるものだった。
ホクトが、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
その動きに、空気がかすかに震えた。
瞳には耐えるような静けさが宿り、その奥に、深い覚悟がにじんでいる。
「……聞いてくれ」
低く、だが澱みのない声が、場を断ち切った。
「これは……俺たち五人の、そしてこの世界の“始まりの罪”の話だ」
その言葉を受けるように、ラミアが静かに口を開く。
「我が血は……呪いである」
重く、冷たく、そして哀しみに満ちた声だった。
「遥か昔。世界の境界《狭間》に、“歪み”が生じ始めた。我はそれに気づいておった。このままでは、世界が壊れる。……ならば、我が血で、歪みを正せぬかと考えた」
誰も動かない。誰も言葉を挟まない。
その場にいる全員が、ただ静かに──世界の“根”に触れる声を聴いていた。
「だが後天的に血を分け与えれば、魂は耐えきれぬ。肉体も、精神も、崩れてゆく。何度試みようとも……結果は同じだった。だからこそ、我は選んだのだ。“宿して”生まれる子を」
ホクトが、視線を前に向ける。そして、言葉を引き継いだ。
「……お前は五人の“父”を選び、五人の子を産んだ。そして産まれた俺たちは……ラミアの血を継いだ、“後継者”だ」
誰かが、小さく息を呑む。
ラミアは続ける。
「我が子らは優れておった。だが、最初に壊れたのは──ガオスじゃ」
その名に、場の空気が変わった。
ローレが、唇を引き結ぶ。
「……俺たちは、英雄と呼ばれていた。けど、ガオスの暴走とともに、すべては崩れた」
「そして俺も、暴走した。家族を失ったあの日、そして……この間も」
ミネルの名前は出さずとも、痛みが伝わった。
「もう、“英雄”じゃない。“悪魔”と呼ばれた。……そうだろ、ホクト」
ホクトは一度、ラミアを見る。
ラミアはただ、静かに頷いた。
「五人の子らは、わらわの信念と理想を宿していた。だが、同時に……血の業を宿しておった」
「……五大悪魔とは、わらわ自身の過ち──五つの原罪なのじゃ」
その瞬間。
「ふざけんなよ……!!」
怒声が会議室を貫く。
タオだった。
握り締めた拳が震えていた。
「実験だったってのかよ……! 俺の親父は、お前の血のせいで、暴走して、ホクトに殺されたんだぞ!」
「希望だ? 理想だ? ふざけんな……!」
誰もが、言葉を失う。
タオの言葉が、蓮の胸に鋭く突き刺さる。
目の端で、スミレが黙って拳を握るのが見えた。
「……俺たちは監視されてたってことかよ」
ホクトは視線を伏せ、苦く呟いた。
「……そうだ。俺は、お前たちのそばにいた。暴走が起きぬよう、目を離さぬように」
重たい沈黙が会議室を包む。
ラミアは最後の力を振り絞るように、静かに言葉を紡いだ。
「……この血の結末を終わらせるのは、お前たち自身じゃ」
声がかすれ、揺れ始める。
「そして──悪魔の影を滅ぼし、狭間の歪みを正すのも、そなたたちの使命」
銀灰の髪がゆらりと揺れ、彼女の輪郭が淡く滲んでいく。
同時に、スミレとリリスに支えられたミネルの身体が、小さく痙攣した。
うっすらと開かれていた瞳が虚ろに震え、誰かを映しているようで、何も映していない。
「この世界を救う鍵は、すべてそなたたちの手にある。
だからこそ、己の運命を受け入れ、歩み続けるのじゃ──期待しておるぞ、我が子らよ」
ラミアの身体は、ふわりと霧のようにほどけていく。
まるで空間そのものに溶けるかのように、静かに、静かに、消えていった。
その直後、ミネルの身体がびくりと震え、その胸に淡い光が──命の灯が戻るように、すっと染み込んでいく。
「……ミネル……!」
ローレが駆け寄る。
ミネルの瞳が、ゆっくりと瞬いた。
夢から醒めたようなその目は、もう誰かに乗っ取られたものではない。
「……私は……一体……?」
小さな声。確かな声。
彼女は、戻ってきた。
スミレとリリスがほっと息をつき、ミネルを優しく支えたまま抱き寄せる。
ホクトが彼女の様子を確かめ、静かに頷いた。
「……ラミアの気配が、完全に消えたな」
その時だった。
空気が、ざわりと揺れる。
誰かの記憶の奥をなぞるような奇妙な感覚が、場の全員を通り抜けた。
蓮は足元の床に違和感を覚えた。
床が、ほんのわずかに揺れている。
その瞬間だった。
まるで走馬灯のように、目の前に広がる光景が脳裏を満たす。
水に沈むような静けさのなか、あまりにも美しい海──その中央に、まるで夢のような都市が浮かんでいた。
透明な海に抱かれ、光を湛える幻想的な都。
架空の景色にしてはあまりに鮮烈で、しかし確かに“そこにある”と本能が告げていた。
「……見えたか?」
タオが、こめかみを押さえながら低く呟く。
スミレもまた、目を細めて口を開いた。
「……海の都……」
沈黙の中、ミネルがゆっくりと顔を上げる。
今度は、明らかに彼女自身の意志だった。
「……あれは、“世界の底”の入口。狭間の歪みに引き寄せられ……都市そのものが、歪みの中に呑まれ始めている。私の中に残ったラミアの記憶が、そう告げている……」
「世界の底……」
ホクトが低く繰り返す。
その表情は、遠い記憶を手繰るような静けさに満ちていた。
「……海底都市セラティス。
伝承の中にしか存在しなかったはずの、マーレ族の都……。
だが今、現実に姿を現した。ラミアの記憶、そしてこの世界を救う鍵が──そこにある」
その言葉に、ローレが口元をわずかに引き締める。
「……なら、決まりだな。俺たちが次に向かうべき場所が」
窓の外で、風が変わった。
微かに、潮の匂いが混じっている。
遠ざかっていたはずの海が、まるで呼吸をするように、静かに──だが確実に──近づいてくる気配がした。
誰も言葉を足さなかった。
ただ、それぞれの胸に広がるざわめきを抱えたまま、
彼らは静かに、次なる旅路を見据えていた。




