五大悪魔 前編
翌朝。
蓮の身体には、甘く、柔らかい倦怠感が残っていた。
鉛のように重たい四肢。けれどその重さすら、愛おしかった。
昨夜のすべてが、まだ肌に、胸に、残っている。
隣には、布団にくるまって静かに眠るスミレの姿。
その寝顔を見つめるだけで、胸がじんわりと熱くなる。
「ん……蓮……?」
視線を感じたのか、スミレがゆっくりと瞼を開いた。
その瞳がまっすぐ蓮を見つめる。
奥深くて、どこか寂しげで、それでもやわらかく笑っている。
──あの日と同じ瞳だった。初めて出会った、あの朝の。
蓮はスミレの髪を優しく撫でる。
そしてそっと、唇を重ねた。
二人は、ふと目を見合わせて、照れたように笑った。
「覚えてる? 初めてスミレに会って、城下町の家に泊めてもらった日のこと」
蓮の問いかけに、スミレは蓮の胸に顔をうずめながら、小さく笑う。
「ええ、覚えてるわ。あの朝も、あなたが見つめて起こしてくれたのよね?」
「……そうだったっけ。でも、あのときからずっと……スミレに触れたかったんだ」
「ふふっ……触れてもよかったのに」
「初対面でそんなことしたら、ぶっ飛ばされるだろ……」
二人の笑い声が、朝の静けさに溶けていく。
やがてスミレは、目を伏せてぽつりと呟いた。
「今思えば、あのときからずっと……私はあなたに救いを求めてたのかもしれないわ」
言葉の端に、切なさがにじむ。
「ずっと、寂しかった。誰かに寄り添ってほしかった。……こうして、あなたと目を覚ます朝が、ただそれだけのことが……どれだけ恋しかったか」
そう言って、スミレは蓮の背に腕を回す。
ぎゅっと抱きしめるその腕が、震えていた。
「蓮……私を救ってくれて、ありがとう。本当の私を、探してくれて……愛してくれて、ありがとう」
蓮は、こみ上げる涙をどうにかこらえながら、そっと彼女の額に口づけた。
しばらく、ただ寄り添う時間が流れた。
「……そろそろ、騎士団本部に向かわないといけないわね」
スミレがぽつりと言う。
けれど、蓮はまだ腕を緩めなかった。
ああ、嫌だな。
このまま、時間が止まってくれたらいいのに──
そんな想いを胸にしまい、蓮はようやく、スミレの身体から腕を外した。
スミレはそっと身体を起こし、ベッドに腰かける。
足元に置かれた衣服の中から、淡い色の下着を手に取った。
肩紐に腕を通したあと、蓮に背を向けて言う。
「蓮……留めてくれる?」
「ん」
短く返事をして、蓮は背後に手を伸ばした。
下着の留め具をそっと留めると、自然と指が彼女の背中をすべっていく。
白くて滑らかな肌。
しかし、その中心に刻まれた、二本の大きな痕が目に入る。
──翼を、もがれた跡。
妖精としての証を奪われた、痛ましい痕跡。
それでも彼女は、生きて、ここにいる。
蓮は、彼女の背にそっと額をあずけ、そして唇を押し当てた。
「……蓮、くすぐったい」
「ごめん。でも……もうちょっとだけ、こうしてたい」
蓮はスミレの腰に腕を回し、そっと抱きしめる。
小さくて、か弱くて、けれど強い──
そんな彼女の背を、胸を、腕の中で確かめるように。
心の奥で、叫びそうな想いがあった。
──行かないで。
まだ、そばにいてくれ。
けれどそれを言葉にしないまま、蓮はただ、彼女の温もりを抱きしめた。そしてキュッと唇を噛んだ。
***
ーー会議を始める。
ホクトの低く響く声とともに、ネイト騎士団の正式な会議が始まった。
場を包むのは、重く張り詰めた空気。誰一人、無駄な言葉を発しない。
蓮は、テーブルを囲む仲間たちを見渡した。
並ぶのはネイト騎士団の主要メンバー、そしてローレ。
全員が揃った正式な会議は、どこかいつもと違っていた。
胸の奥で、言葉にならない不安が膨らんでいく。
ほんの今朝まで、スミレのぬくもりがそこにあった。
指先の感触、優しい声、匂い。すべてが身体に染みついている。
だけど今は、それをしまい込む時だった。
ここから先が、本当の戦いになる。
「アウライアでの事案は、すでに解決に向かっている。伝令鳥もじきに復活するだろう――問題は次だ」
ホクトの声が、静寂を断ち切った。
その鋭い視線が、出席者一人ひとりをなぞっていく。
「今までお前たちには、サタンの抑制と五大悪魔の調査を任せてきた。……それも、もう終わる。
残る五大悪魔は、俺とローレだけだ」
その言葉に、かすかな安堵が空気に混ざった。
けれど蓮はすぐに違和感を覚える。
空気は、軽くならなかった。
むしろ、沈黙が深くなる。まるで、何かを飲み込んでしまいそうな重さ。
「だが――それでも世界は治まっていない」
ホクトの言葉が、その理由を告げる。
「“残り香”のような悪魔の影が、各地で確認されている」
「……影?」
思わず口をついて出た問いに、美穂がそっと頷いた。
「形はないの。でも、確かにそこに“いる”。
放っておけば誰かに取り憑いて、新たな災いを生むわ」
「つまり……五大悪魔を倒しても、終わってないってことか」
タオの深刻そうな声が響く。
「そうだ」
ホクトは短く、はっきりと言い切った。
「サタンは抑えられたが、その根本は完全には消えていない。それを正すには、もっと根源に近づく必要がある」
沈黙が深く、重く降りてくる。
「ラミアだな」
ローレの呟きに、ホクトが頷く。
「ああーーそれが、最後の鍵になるだろう」
ホクトのその言葉に、全員の意識が一点に集中した。
「で……その“最後の鍵”の居場所に、見当はついてんのか?」
ローレが問いかける。
唇の端に微かに緊張が走っているのが、蓮の位置からでも分かった。
ホクトがわずかに目を伏せ、低く答えた。
「残念だが……ラミアの住処は不特定に出現するうえに、境界がない。森に住処を置くこともあれば、廃墟のそばに置くこともあるーーいわば狭間に近い性質だな」
「つまり、おとぎ話の中に住んでるってわけか」
ローレが自嘲気味に呟いた瞬間だった。
「うむ……線はいいのう」
その声は、誰のものでもなかった。
蓮は反射的に隣を見る。
スミレは目を見開き、息をのんでいる。
誰も、喋っていない。今の声は――どこから?
不意に、ミネルの口元に目が留まった。
彼女の唇が、ほんのわずかに動いている。
「……ミネル?」
蓮がそう呟いたときには、もう空気が変わっていた。
重たい沈黙。
静かすぎる静寂。
皮膚の下の血が重くなるような、奇妙な“圧”。
誰も声を出せない。
剣に手を伸ばす者すらいない。いや、伸ばせない。
「久しいな……我が子どもたち。元気にしておったかい?」
ぞわり、と背筋に何かが這い上がる。
蓮は息を止めた。
ミネルの体が、ぐらりと揺れる。
そのまま、糸が切れた人形のように膝をつき、崩れ落ちた。
「ミネル!」
スミレとリリスが駆け寄る。だが、間に合わない。
血が逆流するような感覚に襲われる。
ミネルの足元から黒い“影”のようなものが溢れ出す。
そしてその影が、静かに形を成す。
現れたのは、一人の女だった。
銀灰の髪、異様なほど白い肌。
そして何より、その下半身──うねるような鱗に覆われた蛇の尾が、床を這っていた。
蓮は知っていた。この女を。
下半身が蛇で、銀灰の髪を持つ――あの時、あの森の家で出会った“悪魔”のような女。
ラミア。
場の全員が、息を呑んだ。
ただ一人――ローレだけを除いて。
ローレが立ち上がる。
怒りに燃える瞳をラミアに向け、叫ぶ。
「……てめぇ、いつから入り込んでいやがった!」
その怒声にも、ラミアは微笑むだけ。
けれどその微笑は、どこか哀しげでさえあった。
「ラミア……またお前から現れるとはな」
ホクトの低い声が空気を震わせる。
ラミアは、まるで懐かしむように首を傾げた。
「“母上”と呼べ、とあれほど言ったろう、ホクト」
蓮は、喉が詰まるような感覚に襲われた。
“母上”……?
聞き間違いかと思った。だが、誰も否定しない。
むしろ、ローレが苛立ちをあらわにホクトを睨みつける。
「……まさかとは思ってたが。てめぇ、本当に黙ってるつもりだったのか」
ホクトは、答えない。眉をわずかに動かし、目を伏せている。
ローレが一歩前に出る。
声には怒りと、皮肉と、どこか焦燥が入り混じっていた。
「もういいだろ、隠すな。ここにいる全員、もう聞くべきだ。五大悪魔の“真実”を」
ホクトは、何かを噛み殺すように唇を閉ざした。
蓮の心臓がどくどくと音を立てる。
嫌な予感が、頭の奥で警鐘のように鳴っていた。
「……父さん?」
蓮が呼びかけた。だがホクトは、返事をしない。
ただ、拳を握り締めたまま目を閉じて――そして、ゆっくりと口を開いた。
「……墓場まで持っていく。そう決めていた。けれど、もう……」
静寂。
ホクトは顔を上げる。
その瞳には、確かな覚悟が宿っていた。
「ラミアは……五大悪魔の生みの親。
俺とローレを含む、五人すべての“母親”だ」
刹那、時間が止まったようだった。
蓮の思考が、急激に混乱し始める。
母親……?
五大悪魔……?
ということは――
スミレも、タオも、そして俺も……?
蓮の視界がぐらりと歪んだ。
何かが崩れた音がした。
それが世界の“歯車”だったのか、自分自身の“常識”だったのか――
蓮には、もう分からなかった。
祝 蓮童貞卒業!




