はじまりの夜
騎士団本部の静まり返った廊下を、蓮はゆっくりと歩いていた。
この夜の静けさが、やけに胸に堪えた。
目指す先は、スミレの部屋。
騎士団員として彼女が暮らしているその場所に、これまで一度も足を踏み入れたことがなかったのが不思議に思えるほど、今はただ──会いたかった。
(……スミレの部屋……)
その事実だけで、なぜか胸の奥がざわつく。
焦がれるような、だけど、踏み込むのを躊躇うような、複雑な心地だった。
廊下の奥まった一角、静かな扉の前で、蓮は足を止めた。
深く息を吸い、そっとノックをする。
「……スミレ、いるか?」
……返事はない。
(寝てるのか……? でも、もし……)
どこか心配が拭えず、蓮は迷いながらドアノブに手を伸ばした。
静かに、でも確かに扉は──開いた。
カチャリ。
(……開いてる……?)
中に一歩踏み入れた瞬間、ふわりと花の香りが鼻をかすめた。
甘くて、柔らかくて、あたたかい。
スミレそのもののような、包み込むような香りだった。
それだけで、心臓がドクンと跳ねる。
安心と緊張がせめぎ合うような、言いようのない熱が喉の奥にこみあげた。
「……スミレ?」
小さく呼びかけながら、ゆっくりと目を馴染ませる。
そして、視界の奥──ベッドに横たわるスミレを見つけた。
彼女は眠っているわけではなかった。
天井を静かに見つめていた。まるで、遥か遠くを見つめているように。
その眼差しは、深く、静かで、そしてどこか痛々しかった。
「……蓮、来て」
かすれるような声が、部屋の空気を震わせる。
蓮の足が自然と動いた。
彼女に呼ばれた、それだけで、胸がきしむほど高鳴った。
ベッドの傍に腰を下ろし、自然と膝をついた。
彼女の白い手に、そっと触れる。
柔らかくて、少し冷たい。けれど、その温度が今はたまらなく愛おしい。
「……スミレ」
名前を呼ぶ声が、自分でも驚くほど震えていた。
彼女の手を、両手で包み込むようにして握る。
すると、スミレは蓮の目を見つめながら、指を絡めるようにして握り返してきた。
「……蓮、もっと……近くにきて」
その言葉に、蓮の心は揺れた。
思考が追いつかない。けれど、抗う理由もなかった。
彼女の瞳が、揺れていた。
静かな光に見えて、その奥には、隠しきれない不安と、何かを託すような切実さが滲んでいた。
自分に寄りかかろうとしてくれている。その小さな頼りに、どうして応えずにいられるだろうか。
もう、彼女から逃げたくないと思った。
この目を、もう二度と曇らせたくないと、心から思った。
触れたいという欲望ではなく、彼女を包み込みたいという、まるで祈りのような感情が、胸の奥で膨らんでいく。
いま彼女に伝えなければ、きっと後悔する。
いつも隣にいたのに、何ひとつ言えなかったあの日々のように。
心の中にしまいこんでいた想いを、もう隠してはいけない気がした。
彼女の不安を拭うために、彼女の孤独を癒すために、言葉が必要だった。
きれいじゃなくてもいい、不器用でも、真っ直ぐに──。
蓮は、隣に身を滑らせた。
肩と肩がそっと触れる。
彼女の体温が、ほんのりと伝わってきた。
そのぬくもりが、迷いをひとつ、またひとつと溶かしていく。
やがて、蓮はゆっくりと口を開いた。
「……スミレ」
再び名を呼ぶ声が、かすれる。
喉が締めつけられるようで、言葉にならなかった。
けれど、どうしても伝えたかった。
「……好きだ。スミレ、俺……好きなんだ」
絞り出すようにして告げる。
想いが強すぎて、声にならないほどだった。
「今、言うのは……本当に、おかしいかもしれない。
でも……でも、もう……我慢できない。俺、ずっと、ずっと……」
呼吸が乱れ、胸が痛むほど締めつけられる。
「出会った時から、スミレが気になってた。名前が違っても、記憶が混ざっても、スミレがどんな姿でも、どんな名前でも、変わらなかった。俺の気持ちは……最初から、ずっと……スミレだけだった」
目の奥が熱くなる。
彼女の手を握る手も震えていた。
「スミレが苦しんでるときは、代わってあげたいと思った。
泣いてるときは、誰よりも先にその涙を止めたかった。
嬉しそうに笑う顔を、毎日、隣で見ていたい。
スミレと……全部、共有したいんだ。嬉しいことも、悲しいことも、全部──」
息が詰まるほど、胸が熱い。
「だから……俺、スミレのそばにいたい。ずっと、これからも……離れたくない。
スミレ、お願いだ……もう、そんな顔……しないで……」
懇願のような言葉だった。
そのときだった。
スミレの瞳から、そっと一筋の涙がこぼれ落ちる。
それはまるで、永く張りつめた氷が、初めて溶けたように見えた。
蓮はその涙を指でそっと拭おうとして、触れられずにいた。
けれど、スミレの方からそっと顔を近づけてくる。
何も言わず、ただ、目を閉じて──
そっと唇を重ねた。
時間が止まったかのような、柔らかで、深い静寂の中。
音も、言葉も、すべてが要らなくなるほど、二人は強く結びついていた。
長くて、切実で、ようやくたどり着いた想いが、初めて、音を超えて通じ合った瞬間だった。
スミレの唇が、名残惜しげに蓮の唇からそっと離れた。
蓮の頬へ添えられた彼女の手が、指先が、わずかに震えていた。
その震えが、頬を伝い、皮膚を通して、蓮の胸の奥へと広がっていく。
スミレはまっすぐ蓮を見つめたまま、囁くように言った。
「蓮、私に……触れて」
その言葉は、求める声であると同時に、試す声だった。
愛情だけではない。恐れも、勇気も、すべてを込めた、たった一言。
蓮の呼吸が浅くなる。
迷いが、一瞬だけよぎる。
彼女の気持ちに応えたい。けれど、その先にあるものすべてを、受け止めきれるだろうかという不安が、刹那、胸をよぎった。
だがスミレは、待っていた。
目をそらさず、ただ蓮を見つめていた。
その眼差しには──恐れよりも、強い決意があった。
「……スミレ……」
蓮はゆっくりと手を伸ばした。
震える指先で、彼女の頬に触れる。
彼女の肌は、ひどくなめらかで、あたたかかった。
その温もりに、蓮の胸がぎゅっと締めつけられる。
彼女は、生きてここにいる。
たくさんの傷を負い、涙を流して、それでもここにいる選択を、選んでくれた──。
蓮は、そっと彼女の頬に両手を添え、額を寄せた。
鼻先が触れるほどの距離で、声にならない想いが溢れ出す。
「俺……スミレを、大切にしたい。スミレのすべてを、受け止めたい……」
スミレは微笑む。ほんの少し、けれど確かな安堵と喜びを込めた笑みだった。
そして、ゆっくりと自ら蓮の胸に身を預ける。
心臓の鼓動が重なり合い、温もりが呼吸と共に溶け合っていく。
蓮は、そっと腕を回してスミレを抱きしめた。
肩を包み、背中を撫で、頭を撫でる。
ずっと、こうしたかった。
これが現実なのか分からない。そんな錯覚に見えるほど、今胸の中にいる彼女の存在が儚くて美しい。蓮はもう一度、確かめるようにして彼女の名前を呼ぶ。
「……スミレ」
その言葉に、スミレの指が蓮の背中をきゅっと掴む。
まるで、もう二度と離さないと伝えるかのように。
「スミレ」
彼女の名を呼ぶたび、胸の奥で熱が弾けた。
呼ばずにはいられなかった。
その名を口にすることでしか、自分の感情があふれ出すのを止められなかった。
彼女がここにいてくれること。
手の中に確かに触れているということ。
それが、どれだけ──奇跡のようなことか。
もう一度、彼女の唇に自ら触れた。
今度は、自分から。
すぐに全身が震え、胸に押し寄せる熱と共に、涙がにじんだ。
「……好きだ、スミレ……」
途切れそうな声で、もう一度だけ言葉を紡ぐ。
伝えたくて、どうしようもなかった。
ただ好きだということだけで、心がいっぱいになった。
スミレの指が、ぎゅっと背中に食い込む。
その力が、彼女の想いのすべてを物語っていた。
──ありがとう。
蓮は、胸の中で、声にならない言葉を何度も繰り返した。
ありがとう。
生きていてくれて。
そばにいてくれて。
俺を、選んでくれて──。
互いの名を呼び合い、何度も口付けを交わす。
重ねた唇の温度が、ようやくふたりの心をひとつにしてくれる気がした。
そしてふたりは、ただ寄り添い、静かな時間を分け合った。
夜の空気が、ふたりをそっと包み込んでいた。




