第86話 予想外の出来事
文化祭二日目が始まり、午前中の自由時間となった。
愛梨を迎えに行こうと喫茶店に向かったのだが――
「湊君、ホントにごめん! お客さんが多すぎて人手が足りないの、午前中は自由時間が取れそうにないかな……」
愛梨の代わりに百瀬が出てきて事情を説明してくれた。
言いたい事は教室の前に並ぶ長蛇の列を見れば分かる。
愛梨が居るのが何らかの形で広まったのだろう。その殆どが男性なので、彼女を一目見ようとしているのが丸分かりだ。
湊達の我が儘で喫茶店を困らせたくはないし、人手が必要なのも分かるが、気になった事がある。
「分かった。俺は良いんだが、愛梨は納得してるんだよな? 無理強いしてたらいくら百瀬でも怒るぞ」
「そんな事してないよ。納得してるかどうかは湊君が聞くのが一番早いと思うんだけど……。ちょっと待ってて」
そう言って百瀬は隣の教室に引っ込んでいった。
中であれこれ話している声が聞こえてくるが、何を言っているかは分からない。
暫くすると百瀬が戻ってきて、申し訳なさそうに顔を顰めながら手を合わせた。
「ごめんね湊君、どうしても男子の手を借りたいの。許可はもらってるから入って」
隣の教室はおそらく準備用のエリアであり、扉には『関係者、特に女子以外立ち入り禁止!』と書かれている。
ワザと大きめの声を出して説明したのは、大勢の人が居る中での湊が入る理由付けだろう。
であれば、変な目は向けられないはずだと判断して中に入った。
「おい百瀬、俺は関係者じゃないんだが入っていいのか?」
「いいの。さっきも言ったけど皆には許可取ったし、片付けもしてもらったから。代わりに静かにしてね?」
百瀬はいつにも増して真面目な表情であり、あまり余裕が無いのだろう。
信頼を裏切るつもりは無いので、こちらも真剣に頷いた。
「分かった」
「よし、じゃあ説明するよ。喫茶店は二クラス合同で行ってて、ここは女子更衣室なの」
「おま――」
一応予想はしていたが、本当に女子更衣室だとは思わなかった。
なんのつもりだと声を荒げようとした瞬間、百瀬から静止の声が掛かる。
「静かにしてって言ったでしょ? ここから離れる訳にはいかないし、かといって他に場所も無いんだから仕方ないの。それで、今から少しだけ愛梨との時間を作るから湊君が確かめて。あと、湊君を入れる許可を取ったとはいえ、周りの物に触れたら後で二クラスの女子全員からお仕置きだからね」
「……分かった。手間かけさせて悪いな」
強引に湊達の時間を作ってくれたのだ。問題を起こす訳にはいかない。
そんな無茶をしてくれたことに謝ると、百瀬が首を横に振った。
「ううん、湊君と愛梨の時間を邪魔したのはこっちだから気にしないで。それと一応見張りをするから手短に頼むよ?」
「分かってる」
「じゃあ愛梨を呼んでくるね」
「ああ、頼んだ」
百瀬は湊が頷いたのを確認してから更衣室を出て行く。入れ替わりで、ウェイトレス姿をした愛梨がすぐに入ってきた。
一般的なモノトーン調のものと言いたいが、若干メイド服寄りになっている。
おそらく愛梨はそこら辺の事情に詳しく無いので、騙されたのだろう。
多少フリルが付いた服は派手過ぎず清楚であり、彼女の雰囲気にとても良く似合っている。この姿を見れただけで眼福なので、愛梨を騙した人達を責める気にはならない。
彼女が男性客に引っ張りだこになっているのを想像すると黒い感情が芽生えるが、文句を言う訳にはいかないので心の中で留めておく。
「似合ってるぞ、可愛いな」
「ありがとうございます。それとすみません、約束を守れません……」
醜い感情の代わりに心から褒めると愛梨はへにゃりと微笑んでお礼を言うが、すぐに申し訳なさそうに眉を下げた。
やはり一緒に過ごせない事を気に病んでいるのだろう。なので、何も気にしなくて良いというように頭を撫でる。
「いや、気にすんな。それより大丈夫か? 無理してないか?」
「大丈夫ですよ、頑張れます」
頭を撫でられたことで愛梨の顔が穏やかになる。だが、その言葉と表情からは無理をしている事が読み取れてしまった。
湊が確認してもこうなのだ。おそらく何を言っても彼女は意思を曲げないだろう。
であれば、今出来る事は愛梨の心に寄り添う事だ。
「……全く、仕方ないな」
「湊、さん?」
あまり強くすると服に皺が付くので、やんわりと愛梨を抱きしめる。
彼女は一瞬何をされたのか分からなかったのか硬直していたが、おずおずと湊の胸に顔を埋めた。
「愛梨がなんで無理をするのかは聞かない。けど、心配してる人がいる事を忘れないでくれ」
「ありがとう、ございます。……大した事では無いんですよ。私はあまり人付き合いが良くないので、これくらいは頑張らなければ貴方の隣に立てないと思ったんです」
湊と一緒に居る為に頑張ろうとしてくれるのは嬉しいが、愛梨は今まで自分を殺してきたのだ。ここで元に戻って欲しくは無い。
「だからって一人で頑張らなくてもいいんだ。無理をして壊れるくらいなら俺を頼ってくれよ」
「……では、甘えさせてくれませんか?」
「お安い御用だ。遠慮なく甘えてくれ」
そう伝えると愛梨が胸に頬を擦り付けてきた。
せめてこの瞬間だけは全てを忘れて癒されて欲しい。労わるように頭を撫で続けると、彼女は気持ち良さそうな声を漏らす。
「んぅ……。湊さんから抱き締めてくれたのは久しぶりですねぇ」
「そう言えばそうだったか。最近は結構くっついてるから、いまいちよく分からないな」
確か湊から抱き締めたのは花火大会の時だけだったはずだ。それ以外となると全て愛梨が甘えてきてくれた。
もう殆ど毎日触れ合っているので、傍に居る事が当たり前になっている。
愛梨もそれを良く分かっているのだろう。柔らかい笑い声が聞こえてきた。
「ふふ、そうですね、いつも一緒でした。それはこれからもですよ」
「ああ、分かってるさ」
愛梨が前に進もうとしているのだ。やはり彼女の行動を止めるべきでは無い。
代わりに言い聞かせるように思いを伝える。
「何度でも言うぞ、お前を心配してる人が居るんだ、それを忘れないでくれ。そして、その上で愛梨が出来る事を、したいと思った事をすればいい。応援してるぞ」
「はい、ありがとうございます。元気出ました」
そう言って愛梨は湊の胸から離れた。
彼女の顔は生気に満ちており、家に居る時のような明るい微笑みを浮かべている。
「じゃあ頑張ってきます。午後は一緒に回りましょうね」
「もちろんだ。行ってこい」
湊が励ましの言葉と送ると、愛梨は笑顔でホールに向かって行った。
いつまでも女子更衣室に居ては駄目なので、扉を開けると百瀬と目が合った。
言っていた通り見張りをしてくれていたのだろう。お礼を言おうとしたのだが、彼女が気まずそうな顔で頬をうっすらと赤く染めている。
ただ周囲を警戒するだけなのになぜそんな事になっているのかと考えると、すぐに原因が思い浮かんだ。
「なあ百瀬。もしかして見てたか?」
「……ごめん。いくら湊君と愛梨を信用してるとは言っても長話されたら困るから、念の為に確認してたの。それに多少話すだけだし、まさかあんな事をするなんて思わないじゃん……」
どうやら見張りをしていた最中に湊達のやりとりを見ていたらしい。
文句を言おうとしたが場所を提供してくれたのは百瀬であり、その言い分も分かる。なので軽く注意するだけにしておく。
「……客引きしてこい。愛梨が働いてるんだ、サボりは許さんぞ」
「その前に、折角だからうちの喫茶店に入っていかない?」
「は?」
百瀬がニヤニヤした笑顔でこの場にそぐわない事を言った。
思わず真顔で返事をすると、ポンポンと肩を叩かれる。
「愛梨と一緒に行動出来ないから時間空くでしょ? だったらうちのクラスに寄ってもいいと思うんだけど」
「人が多すぎるから愛梨が無理して仕事してるんだろ。そこに更に仕事増やしてどうすんだ」
愛梨が忙しすぎて文化祭をまわれないのに、その原因である喫茶店に入って冷やかすなど流石に人が悪すぎる。
どういうつもりだと睨むと、百瀬の笑顔が引き攣った。
「人が多すぎて短めの滞在時間に設定してるから、回転率は良いんだよ。それにこの多さなら一人も二人も変わらないって」
「……確かにそうだが」
「愛梨に注文聞いてもらいたくない?」
「それは是非ともお願いしたい。したい、けど、なぁ……」
正直なところ、愛梨のウェイトレス姿は先程の褒め言葉では足りないくらい似合っている。あざとさすら感じるが、それでも見惚れるくらいなのだ。
当然、そんな愛梨に注文を取ってもらいたいという欲望はあるが、どうしても気が進まない。
湊が乗り気でない反応をしていると、百瀬がパンと手を合わせて笑いかけてくる。
「じゃあ愛梨に湊君を入れて良いか聞いてみるよ、それで嫌がったら無しでいい?」
「まあ、それなら。無理強いはするなよ?」
「分かってるって! ちょっと待っててねー!」
百瀬が勢い良く戻っていく、いくらホールで注目を集めている愛梨でも少し話をする時間くらいはあるのだろう。
文句を言ったものの、愛梨に注文を取ってもらう事を想像すると胸を弾む。なんだかんだで楽しみにしていると、すぐに百瀬が帰ってきた。
「いいってさ。むしろ『一緒にまわれないのですから、それくらいさせてください』だって」
「じゃあ並ばせてもらうぞ」
「おっけー!」
「ねえ、僕も一緒に並んでいいかい?」
百瀬との会話が一段落しそうなところで話に入ってきたのは拓海だ。
湊と一緒のタイミングで休憩を行っていたが、まさか喫茶店に入りたいとは思わなかった。
というよりは別の目的があるのだろう、その予想はついている。
百瀬の方は急に出てきた男子にぱちぱちと瞼を瞬かせた。
おそらく初対面なので、ここは湊が間に入るべきだと口を開く。
「百瀬、こいつは同じクラスの上村拓海だ」
「よろしくね」
人好きのする笑顔を向けられて、百瀬はきょとんとした顔で頭を下げた。
「あ、どうも、百瀬紫織です」
「それで、湊と一緒に僕も並んでいいかい? 人がかなり多いけど」
「はい、二人くらいなら大丈夫です。それ以上となるとちょっと……」
いくら湊に融通を聞かせたからといって、際限なく増えるのは困るのだろう。
百瀬が申し訳なさそうに眉を下げると、分かっているというように拓海が頷く。
「いいよ。一真はお化け屋敷で頑張ってるから、これ以上一緒に喫茶店に入る人もいないしね」
「はあ……。一真を知ってるんですね」
「うん、一真と一緒に湊を応援してるんだ。いろいろと、ね」
拓海の含みのある笑顔に何か感じるところがあったのだろう。百瀬が悪い笑みを浮かべた。
「湊君と愛梨の事ですか?」
「そうそう。ああ、安心して。誰にも言うつもりは無いから。単にその光景を見たいのさ」
「……なるほど。どうやら私達似た者同士みたいですね」
「やっぱり君もそう思うかい? いやぁ、気が合うね」
「……なんで会ってすぐに意気投合してるんだ。その不気味な笑いを止めろ」
出会ってほんの僅かな間で仲が良くなっているのは良い事なのだが、その会話内容からは湊と愛梨のやりとりを見たいという欲望が駄々洩れだ。
拓海は百瀬と同じタイプの人であり波長が合うだろうなとは思っていたが、ここまでとは予想していなかった。
湊が話に割って入っても二人の会話は止まらない。
「上村先輩なら構いませんよ、ぜひ湊君と一緒に入ってください」
「名前でいいよ。それじゃあ遠慮なく並ばせてもらうね」
「でしたら拓海先輩と。それと、一応注意してくださいね、おそらく拓海先輩が予想しているものより数段上だと思うので」
「へぇ、それは楽しみだ」
「おい、当事者を放り出して盛り上がるな」
湊が何も許可していないにも関わらず、拓海と一緒に並ぶ事が決定している。
別に嫌ではないのだが、置いてけぼりを食らっているのはいただけない。
「じゃあそういう事でよろしくね。湊」
「……はぁ、まあいいか。変な事は言うなよ?」
晴れやかな笑顔で湊の文句をスルーしたので、忠告だけは聞いてもらう為に溜息を吐きつつ真剣な声色で言葉を放った。
拓海はその言葉に心外だとでも言うように苦笑する。
「分かってるって。僕のことはその辺の石ころと思って欲しいな」
「頼むぞ、ホント。……でだ。百瀬、お前はいい加減仕事に戻れ。怒られたいか?」
「……やば。湊君ホントにごめんねー!」
手回しをしてくれたとはいえ、ここまで人を引っ掻き回したのだから次は無いと百瀬を睨むと、彼女は謝罪をしつつ一目散に逃げていった。




