第82話 溺れるように
今日はバイトが無かったので湊が晩飯の買い物に行くはずだったが「そんなボロボロの人に買いに行かせる訳にはいきません」との事で、一足先に家に帰らされた。
何もせずボーっとしていると先程の非難の言葉を思い出してしまいそうで、彼女の代わりに家事をする。
そうして無心であれこれと行っていると、玄関の扉が開く音がした。
「……何してるんですか?」
「家事」
不機嫌さを隠そうともしない声が聞こえてきたので、短く応える。
少しでも愛梨の助けになればと思ったのだが、盛大に溜息を吐かれた。
「そんなの私に任せてくださいよ」
「早く帰ってきたんだから、手伝った方が良いだろ?」
「……あのですねぇ、傷心の人は大人しくしてください」
余程呆れたのか、愛梨がじっとりとした目で湊を睨む。
家事くらい何も問題は無いのでやらせて欲しいと口を開こうとすると――
「お願いですから、疲れてる時はゆっくりしてください。ね?」
「……分かったよ」
湊を心から案じるような目で見つめられれば、これ以上我が儘を言う訳にもいかなくなる。
家事を任せ、居間で思考を止めてぼんやりしているうちにいい匂いが漂ってきた。
どんなに気が滅入っていても腹は減るようだ。
晩飯を摂り、湊が風呂から上がると既に布団が敷かれていた。
随分早い時間に寝る準備をしたなと思ったが、これはおそらく膝枕される流れだろうなと考え直す。
今されれば溺れてしまうだろうなと思っていると、愛梨が口を開いた。
「湊さん、寝る準備をお願いします」
「まだ寝るには早いだろ。……あまり俺から言いたくは無いけど、膝枕じゃないのか?」
「いいえ、違いますよ。とりあえず準備です」
「分かったよ」
寝る時間でも無いのに準備をし、布団を敷いたにも関わらず膝枕では無いと言う。
こうなると湊にはサッパリ分からないので、大人しく歯を磨いたり等の準備を終えた。
「さて、ご飯も食べてお風呂にも入り、準備も終えましたので寝ましょうか」
「眠くないんだが」
「寝 ま し ょ う か」
「ハイ」
有無を言わせないような迫力のある笑みを向けられ、反論の言葉が出てこなかった。
仕方が無いので大人しく布団に入ると、柔らかい声が掛かる。
「湊さん、もうちょっと下に移動してください」
「これでいいか?」
「はい、次にこっちを向いてください」
「何だ、愛梨も眠れないのか? まあいいや、ゆっくり話でも――」
「えい」
あれこれと指示を出されたので大人しく従い、愛梨の方を向いた瞬間に頭を抱えられた。
顔が柔らかいものに包まれて何も見えなくなり、息をすると愛梨特有の甘い匂いが胸に吸い込まれる。
まさかこんな事をされるとは思っておらず完全に固まっていると、彼女が労わるような手つきで湊の頭を撫で始めた。
「お疲れ様でした、よく頑張りましたね。いつかはこんな事が起きるとは思ってましたが、それを貴方は耐えてくれました。なので、今は何も考えずに癒されてくださいね」
湊を溶かすような優しい声が心に沁み込んできた。
何か言わなければと思うのだが、なぜか言葉が口から出てこない。
ジッとしていると、愛梨が再び囁いてくる。
「辛くていいんです、苦しくていいんですよ。その度に私がこうして貴方を支えますから」
「……ごめんな」
情けなくて、申し訳なくて。ようやく口にすることが出来た言葉は謝罪だ。
これまでは一度たりとも直接悪意をぶつけられる事など無かったが、それがこんなにも心を抉るものだとは思わなかった。
「何を謝ってるんですか。支えると言ったでしょう? 何も気にしなくて良いんですよ、いっぱい甘えてくださいね。……いえ、甘えて欲しいです」
先程までは必死に耐えていたが、こう甘やかされると弱気な心を隠せなくなる。
普段であれば愛梨の胸に顔を埋めるなどやってはいけない事だが、今は有難い。こんな顔を見られずに済むのだから。
柔らかな声が、甘い匂いが、優しい手つきが湊を包み込む。目から何かが溢れてきた。
「ホントにごめん。こんな弱くて、情けなくて。迷惑ばっかり掛けてる」
「もう。湊さんは気を遣い過ぎです。なので、何も考えられないようにしてあげますね……。ぎゅー、です」
そう言って愛梨は湊を強く抱き寄せた。
形の良い胸に顔がより押し付けられたことで息苦しくなる。
けれど彼女の匂いが濃くなって、温かい存在を更に身近に感じてしまい。全く離れようとは思えず身を委ねた。
暫くされるがままだったが、ずっと抱き寄せるのは疲れるのか、彼女が力を緩める。
ほんの少しだけ距離が開いた事を寂しく感じてしまい、弱音が口から零れだす。
「……なんで俺はこんな見た目なんだ。他の人に言われるまでも無い。俺だって愛梨と一緒に居ても誰にも文句を言われないくらいの見た目になりたかったさ」
「前に言いましたよね? 見た目の釣り合いなんて何も気にしなくていいんですよ」
「けど、周りがそれを認めない。今日だってそうだ、俺はあいつらと何も変わらない。ただ運良く愛梨と同居出来ただけだ」
「そうかもしれません。ですが、それを貴方が気に病む事ではないでしょう? それに、はっきり言うと貴方以外の人との同居は上手くいかなかったと思いますよ。湊さんでなければ、こんな私を受け入れることは出来なかったでしょうから」
「……そんなの分からないだろ。誰だって愛梨を気遣うはずだ」
湊が出来ることは他の誰だって出来るだろう。どんな人であれ同居人には気を遣うはずだ。
何も特別な事などしていないと愚痴を垂れると、愛梨は湊を胸から離し、目を合わせた。
こちらを見つめるアイスブルーの瞳は、暗闇の中でも穏やかな光を湛えているように見える。
「いいえ。貴方以外の人であれば過剰に接触してきたでしょうから、駄目でしたね。私の望む形で気遣ってくれたのは湊さんだけですよ」
「でも、それだけだ。……それだけなんだよ」
ちっぽけな事しか出来ないと呟くと、愛梨が慈しみの感情を帯びた笑みを浮かべた。
「それだけの行為で救われた人がいるんですよ? もっと自信を持ってくださいよ、貴方は他の誰にも出来ない事をやったんです。……何度でも言いましょう、『私の一番大切な人を、気を遣うだけしか能のない人だなんて馬鹿にしないでください』」
「それ、は……」
それは盆の墓参りの際に愛梨に言われた言葉だ。
あの時も湊は気遣う事しか出来ないと弱音を吐いた。
そして、彼女に心を溶かされたのだ。
(こんなにも俺を認めてくれる人が居るんだ、折れる訳にはいかない)
湊の心に火が灯った。悪感情に負けてはいけないと真っ直ぐに碧色の瞳を見つめる。
「ありがとな、元気出た」
ようやく立ち直る事が出来たので、愛梨に心からの感謝を伝えた。
すると彼女は満面の笑みを浮かべ、再び湊を抱き寄せる。
「では、そんな湊さんにご褒美です。好きなだけ堪能してくださいね」
「……じゃあ、今日だけ」
負けはしないと改めて誓ったものの、傷ついたのは変わらない。
であれば、自分に正直になってもいいだろうと、愛梨に身を委ねた。
彼女は湊を癒すように頭を撫でつつ、甘い声を発する。
「私はここに、貴方の傍に居ますからね」
ずぶずぶと沈んでいくような感じはするものの、もはや抜け出す事は出来ないし、その気も無い。
湊を駄目にする大切な存在を離したくなくて、温かい体に抱き着いてしまう。
そんな態度が珍しいのだろう、くすくすと穏やかな笑い声が聞こえた。
「今日は甘えたさんですね」
「……そういう気分なんだ」
この温もりが何か一つでも違っていれば得られなかったなど、想像しただけで寒気がする。
急に寂しくなってしまい、大きめで柔らかいものに頭を押し付けると、ぽんぽんと撫でられた。
「ふふ、よしよし」
愛梨にどろどろに溶かされていると、いつもより早い時間だが眠気が襲ってきた。
彼女もそれを理解したのだろう。撫でるのは続けたまま、幼い子供を寝かしつけるように片方の手を湊の背中に当て、とんとんと軽く、ゆっくり叩いてくる。
あやされているとは思うが、それが気持ち良すぎて浸ってしまい、はっきりしない思考で言葉を零す。
「愛梨……、俺、頑張るよ」
「はい」
「だからさ、はなれないで、ほしい」
「そんな事しませんよ」
「あり、が、と……」
「おやすみなさい。頑張り屋で優しい、私の大切なひと」
甘すぎる愛梨に溺れるように、睡魔に身を委ねた。




