第72話 試練と甘やかし
夏休みが明けて数日が経ち、今のところ湊と愛梨の外での接触といえば昼食の時くらいだ。
だが、それだけの時間があれば夏休みの時の噂が広まってしまう。
偶に会話するクラスメイトは湊に対してほぼいつも通りになっているが、他はそうでもない。より視線がきつくなっているのを実感する。
そうして放課後、湊が予想していた事態が起こった。
「ここ、九条君のクラスだよね? 彼はいるかな?」
今日はバイトが無いので愛梨の代わりに買い物をしようと席を立った瞬間、聞き覚えの無い声が湊を呼んだ。
教室の入り口を見ると、これこそ爽やかなイケメンと言えるような男子生徒が見えた。
湊は一年生の時のよく話した人や、今のクラスメイトの顔はしっかりと覚えている。
だが、今回は聞いた事の無い声だし、その顔も見た事が無い。完全に初対面だろう。
その男子生徒とクラスメイトの会話を遠くから聞く限り同じ学年のようだ。
そして、クラスメイトが湊を手招きしている。
呼ばれたからには無視する訳にもいかないので、鞄を持って入口に行く。
「俺が九条だ、よろしく」
「俺は谷口、よろしく。少し話したい事があるんだけどいいかい?」
「それは構わないけど、ここで話すか?」
「いや、ちょっと移動しようか」
お互いに笑顔で軽く自己紹介を済ませて移動する。
そうして谷口の後ろをついていき、人気の無い校舎裏に着いた。
それまでに湊達とすれ違う人の会話を聞く限り、相当人気のある人のようだ。
ただ、にこやかに挨拶をする人もいれば、ひそひそとこちらを見て会話する人もいた。
その光景を思い出して湊の心に不安が満ちる。
そんな湊の内心を知る由もなく、彼が爽やかな笑みを浮かべた。
「悪いね、こんな場所まで付き合わせて」
「いや、気にしないでくれ。あまり人に聞かせられない事なんだろ?」
人気の無い場所に来てまで話す事など、人に聞かれたくない事しか無い。
ある程度予想は出来ているものの、最悪の結果にはならないでくれと心の中で祈る。
「そうだね、じゃあ単刀直入に聞こうか。二ノ宮さんと友人というのは本当かい?」
「ああ、最近一緒に昼飯を食べてるし、そもそも前から知り合いだったからな」
「百瀬さんの伝手だね、それは俺も知っているよ。……六連君は百瀬さんの彼氏だから二ノ宮さんはある程度話せるとしても、なぜ君とは普通に話せるんだい?」
「俺に聞かれても困る。それは二ノ宮に聞いてくれ」
やはり聞きたい事というのは愛梨絡みではあったが、その質問には答える事は出来ない。
湊と愛梨の特殊な事情は当然ながら話せないし、それ以外となると、湊は彼女に対して変わった事など何もしていないのだから。
分からないとハッキリ言うと、彼は不思議そうに首を傾げた。
「分からないはずがないだろう? あんなにも仲良く会話できるんだから、きっと特別な何かがあるはずなんだ」
「俺は特別な事なんてしてない」
「じゃあ九条君と二ノ宮さんの間に共通の話題があるんだろう。それを教えてくれないか?」
「断る。話題は自分で見つけるものだろう。話したければ本人と話せばいい」
どうやら彼は湊を踏み台にして、愛梨と話すきっかけを掴もうとしているようだ。
そんな人に対して話す情報など無いし、どうしても彼女の気を引きたければ本人と会話すべきだ。
仮に彼の想いが本気であれば、愛梨にどれだけ冷たい対応をされてもめげないと思う。
だが正直なところ、湊とこういう話をした時点で脇から固めようとしているので本気とは言えない。
しっかり情報収集してから話す方が誠実だという人もいるかもしれないが、暗に「情報を渡せ」と言われているようで湊は共感出来ないのだ。
敵対するつもりは無いものの、そっけなく言うと彼は苦笑を浮かべた。
「そこをなんとか頼むよ。二ノ宮さんは殆ど男子と話さないから、少しでも情報が欲しいんだ」
「知りたいのなら二ノ宮に聞けばいいだろ。ハッキリ言うと、俺は二ノ宮について話すつもりは無い」
「……それは、話してしまえば君が二ノ宮さんの友人でいられなくなるからかい?」
谷口の声が低くなる。表情が微笑を浮かべているものの、その奥の感情が見えてこない。
無難に済ますのであればここで愛梨について話すのが一番だが、湊の心は既に決まっている。
「その通りだ。友人を売るつもりは無い、それは二ノ宮を裏切る行為だからな」
「なるほど、良く分かったよ。因みに昼食の時に俺も一緒に食べるのは駄目かい?」
「俺はどっちでもいい。けど、二ノ宮や一真、百瀬にしっかり確認を取ってくれ。俺以外のやつが全員納得するなら構わない」
湊は決して四人でしか昼飯を食べないとは思っていない。全員が許可するならそれ以外の人が混ざってもいいと思っている。
だが「九条君がどっちでもいいと言ったから」と利用されるのは許せないので、しっかりと釘を刺した。
彼は一瞬だけ眉をピクリと動かしたが、微笑を崩さない。
「分かったよ、ありがとう。最後に一つ聞かせてくれ、君は自分の見た目をどう思ってる?」
微笑の奥で「お前の見た目は浮いている」と嗤われているような気がした。
けれど、今ではそれがどうしたと言える。平凡な湊でもいいと言ってくれた愛梨の為にも、卑屈になるのは駄目だ。
「普通、これに尽きるな。それが何か?」
「あれほど見た目が整っている人達と一緒に居て、気まずくならないのかい?」
「質問って一つなんじゃないのか? ……まあいいか、別に何も思わないな。あの三人が俺と一緒に居たくないと言ってる訳でも無いし。質問は終わりか?」
「ああ、もう十分だよ。時間を取らせて悪かったね、それじゃあ」
湊の動じない態度が面白くなかったのか、谷口が話を切り上げて横を通り過ぎる。
その瞬間、湊にすら聞こえるかどうかの小さい声が耳に届いた。
「……君がその見た目でどれだけ頑張れるか見物だね」
その冷たい声を聞いて、初めて愛梨の気持ちが分かった。
今まで悪意を受け続けた彼女とは方向性が違うし、そもそも直接的な言葉を言われた訳でも無い。
だが、覚悟していたとはいえその言葉が心に重くのしかかる。
(俺、愛梨の事を何も分かってなかったんだな。これは確かに疲れるなぁ……)
いずれこんな時が来るとは思っていた。
愛梨の隣にいるという事は、こういう状況に耐えられるか問われるのだと分かっていたし、彼女から悪意が降りかかるとも伝えられていた。
だが、たった一人に、それも遠回しに言われただけで傷ついてしまうということは、おそらく湊の覚悟が足りなかったのだろう。
愛梨の隣は誰にも譲るつもりは無い、けれど、言葉にされずとも面と向かって「お前は愛梨に相応しくない」と言われたのは堪えた。
彼が去っていったことで一人きりになる。
今までの愛梨の傷に比べたら今日の件などあってないようなものだ。
たったこれだけの事で彼女の世話になっていてはこの先が危ぶまれる。
であれば、これは湊一人で乗り越えなければいけない事だと自分に言い聞かせて、暫く校舎に寄りかかっていた。
「湊さん、今日変じゃないですか?」
いつものようにゆったりと過ごしていると、愛梨が心配そうに湊を見つめてきた。
あれから校舎裏で気持ちを切り替えたので変な態度など取っていないつもりだが、どこか違和感があるのかもしれない。
今回の事は湊一人で解決すべきなので、彼女に甘える訳にはいかないと表情を取り繕う。
「そうか? いつも通りなんだが」
「……湊さん、私は貴方と五ヵ月以上一緒に過ごしてるんですよ? 様子がおかしいことくらい分かります」
「何も無いぞ」
湊が愛梨の僅かな変化が分かるように、彼女もこちらのほんの少しの違和感を感じ取れてしまうのだろう。
だからといって白状するつもりは無く、湊が態度を変えないでいると、愛梨の顔が悲しみで歪んだ。
「嘘つき、湊さんは嘘つきです。……私に言えない事ですか?」
「……ああ、悪いな」
心配してくれる愛梨に何も言えない。その事実に胸が申し訳なさで一杯になる。
顔を俯けていると、湊の両手を小さくて柔らかいものが包み込んだ。
彼女にはこちらの事情がある程度分かってしまったのだろう。優しい声が聞こえてくる。
「湊さん、何度も言いますが、苦しむ時は一緒です。それを分かってください、お願いします」
「……分かってるさ」
「いいえ、貴方は何も分かってません。だからこうして抱え込んでいるんでしょう?」
「覚悟してたことだ、これくらい耐えてみせる。心配しないでくれ」
「ですから、それが間違いなんですよ。覚悟してるからといって傷つかない人はいません。耐えるという事は苦しんでるという事でしょう? その痛みを私に分けてくれませんか?」
「……悪い、見栄を張らせてくれ。これくらい出来なきゃ自信を持って愛梨の隣にいられないんだ」
たった一回言われただけで折れる訳にはいかないし、情けない男にはなりたくない。今回くらいはハリボテの見栄を張らせて欲しいと懇願した。
すると、愛梨は両手を湊の頬に当て、俯いていた顔を強引に上げさせた。
至近距離で湊を見つめる碧の瞳は慈しみの色を帯びている。
「分かりました、今回だけですよ」
「……ありがとう」
愛梨が納得の声を出しながら、すぐに頬から手を離して立ち上がり、お礼を言っている湊の後ろに回り込んだ。
湊の意志を汲んでくれた事に胸が温かくなるが、その行動に疑問を覚えた。
「――と言うと思いましたか? えい」
「な!?」
何をするのかと不安になった瞬間、可愛らしい掛け声と共に肩を掴まれて思いきり後ろに引っ張られる。
心の準備などしておらず、体勢を崩してしまったことで倒れると思ったが、湊の頭が何か柔らかい物に触れて、体が支えられた。
次に細い腕が首に絡まり、抜け出せないようにされる。苦しくは無く、頭は動くので周囲を見渡すと、すぐ上に愛梨の顔が見えた。
だが、この顔の近さは普通では無いし、背中に彼女の体が触れている感触がある。
であれば、湊の頭が触れているこのふんわりした物体は――
(これ、胸が当たってる、よな)
そう思考したところで、頭を振ってその答えを追い出そうとしたのだが、愛梨がその行動を咎める。
「湊さん、そんなに頭を動かされるとくすぐったいです」
「愛梨、離すんだ」
完全に愛梨にもたれかかる形になってしまい、彼女の大きめで形の良い胸に頭を押し付けている。
抜け出そうにも変な体勢になっており、腹筋と腕にあまり力を入れられない。
その上で離すまいと抱きしめられるので、より一層後頭部に魅力的な感触を感じてしまう。
甘やかすとはいえこれはやりすぎだろうと思って注意したが、首に絡まった腕が解ける気配は無い。
「湊さんが悪いんですからね。何が見栄を張らせてくれですか、そんな小さい事を言わずに黙って私に甘えればいいんです」
拗ねた声が頭上から掛かり、一段と胸に顔が押し付けられた。
動けばくすぐったいと注意され、動かずにいると胸の感触がハッキリと分かる。
どうしようもならないので、とりあえず会話での説得を試みなければと口を開く。
「小さい事って何だよ、何も問題は無いんだって」
「小さいじゃないですか、あとそれは嘘ですね、バレバレです。全く……。二人で苦しむって約束したのにそれを無視するんですよ? 貴方の苦しみは私の苦しみです、なので、これは分け合おうとしなかった貴方への罰です」
「罰っていうか、これは駄目だ」
罰どころの話では無い、ほぼご褒美になっている。
しかもこの状態で愛梨が頭を撫で始めたので、甘やかされすぎてどろどろに溶けてしまいそうだ。
そして、いくら注意しても止めないどころか、からかうようにくすりと笑われた。
「ええ、駄目でしょうね。ですから、駄目になってくださいね?」
湊を溺れさせようと、艶っぽく囁く声にゾクリと背筋が震えた。
このままでは戻れなくなるという恐怖を覚え、恥も外聞も無く頼み込む。
「分かった、俺が悪かったから離してくれ!」
「嫌です。これは嘘つきで強情な貴方へのお仕置きも兼ねてますので、私が満足するまで絶対に止めませんから」
「お願いだから!」
「だ、め、で、す」
そうしてかなりの時間、愛梨に甘やかされた。




