第56話 穏やかで平凡な一日
墓参りに行ってから数日経ち、特に予定の無い一日が始まる。
最近ではほぼ毎日となっている、朝起きた時に片腕の感覚が無いことにはもう慣れた。
ただ、流石にこうして血が止まっているのは体に悪いかもしれない。
何とか対策をしなければとは思うが、かといって露骨にいつもと違う事をすると愛梨に気付かれてしまうだろう。
どうしたものかと考えながらも、気持ち良さそうに寝ている愛梨の頭を撫でる。
頭を撫でられる感覚に慣れたのか、本当に軽くするだけだと彼女が起きる事は無くなった。
むしろ起きている時とは違い、気持ち良さそうに気の抜けた笑みを見せてくれるので湊の密かな楽しみになっている。
そして、梳くように撫でると彼女は一度目を開ける。
「……んぅ?」
「おはよう、愛梨」
「おぁよぅごじゃいましゅ……」
濡れた美しい碧色が湊を見た瞬間にとろけ、舌足らずの幼い声で挨拶をする。
この時の愛梨の碧眼を見るのが湊の楽しみのもう一つだ。
女性の寝起きの顔を見るのはマナー違反だとは思うが、起きている時とは違う蕩け切った彼女はいつまでも見ていられるくらい魅力的だ。
とはいえ、相変わらずこの時の彼女は殆ど意識が無いようで、すぐに目を伏せて湊の胸に顔を埋める。
「もう一回寝るか?」
「ぁい、おやしゅみなしゃい……」
ほぼ聞こえていないだろう湊の言葉に愛梨は一応の返事をして再び寝息を立てる。
腕枕されているのを彼女が知ったらどうなるか分からないので、今度は撫でる事はせずジッとしておく。
夏休みの間は生活リズムが崩れないよう、きちんと朝に起きるようにはしているが、今日も今日とて朝飯を作るのが遅くなるだろうなと思いつつ体温を分け合った。
遅めの朝食を食べ終え、いつものように別々の事をする。
大体がゲームだが、愛梨の方は最近始めた読書をする事もある。それ以外となると夏休みの課題くらいだ。
二人共課題はコツコツやるタイプなので、夏休みの終わりに慌てる心配は無いし、今日まででかなり進んでいる。おそらく後半は殆ど勉強せずに済むだろう。
また、読書に関しては今以上に本棚を増やせず、新しい本を置くスペースが無いし、お金を使いたくないとの事で、湊がスマホで読んだ電子書籍を愛梨も読んでいる。
思いきりサブカルチャーに寄ったものが大半であり、彼女の趣味に合うかは分からなかったが、抵抗は無いのか一度勧めてからは結構な頻度でスマホを貸せとねだられている。
最初貸す時は愛梨が『本当に大丈夫ですか?』と心配そうに聞いてきたものの、スマホを貸す事に抵抗は無いし、見られて困る物など入っていないので今では割とあっさりとした対応だ。
問題があるのはゲームや読書中の愛梨との距離が近い事だ。すぐ傍にいるだけでなく、背中をくっつけることもある。今も背中をくっつけながら読書している。
「愛梨、ちょっと背中から離れてくれ。集中するから」
「はーい」
一応今日のように湊が真剣にやる時は、注意するとのんびりとした声を出しながらあっさり退いてくれるので特に問題になっていない。
それに態度に出てしまっているのか、集中する時以外で少し離れて欲しいな、と思うと声を掛ける前に背中や傍から離れることが多い。
そうしてくっついたり、離れたりしているうちに時間は過ぎていく。
「しばらくぶりのマッサージはどうですか?」
「気持ちいいよ、ありがとな」
最近マッサージをしていないからと晩飯後に愛梨が言ってきたのでやってもらっている。
別に体が疲れている訳ではないのだが、気持ち良すぎるので遠慮はしなかった。
愛梨もスキンシップとしてなのか、上機嫌にマッサージをしてくれる。
「湊さん、終わったら頭を撫でていいですか?」
愛梨がマッサージ中にそんな事を言い出してきた。確か二回目のマッサージの時に湊の頭を撫でていたようだが、あの時は湊が起きた瞬間に止めていた。
後はこの前の墓参りの日に湊を慰めるためにしてくれた時くらいだ。
魅力的な異性にしてもらいたいという欲望はあるものの、湊の方から言うのは負けな気がするので投げやりに対応する。
「……好きにしろ」
「はぁい、好きにしますね。その体勢で大丈夫ですか?」
「この体勢以外に何があるんだよ」
「以前したように膝枕はどうですか?」
「……駄目だ。女の子が無防備な事をするな」
今膝枕をされたら本当に愛梨に溺れて溶かされてしまうだろう。
なけなしの抵抗として注意するものの彼女は全く動じず、それどころか湊の内心を見抜いてやんわりと笑われた。
「ふふ、嫌とは言わないんですねぇ。分かりましたよ」
反応するだけでもからかわれるのが分かっている。なので無言を貫いていると、細い指が湊の頭に触れた。
愛梨の甘くて良い匂いのする枕に顔を埋め、頭を撫でられるだけでたまらない。
興奮するにはするが、安らぐという気持ちの方が大きく、次第に眠くなってくる。
「おやすみなさい、湊さん」
顔を見ることすらせずに湊が寝てしまうことを見抜かれてしまった。
完全に抵抗を諦め、気持ち良さに身を委ねる。
甘く、蕩けるような声は湊の体と心を溶かしていき、眠りの沼に沈めていく。
寝る時間になって布団に入ったのだが、愛梨のマッサージ後に寝かされた所為で眠気が全く無い。
どうやら今日はゆっくりしていたので愛梨も疲れておらず、眠れないのか片手で湊の背中を指でなぞって遊んでいる。
暫く好きなようにさせていたが、彼女が『こっちをむいて』とずっとなぞり続けてくるので、今回だけだと言い聞かせて愛梨の方を向く。
「……今だけだぞ」
「分かってますよ」
朝と違い闇の中ではあるが、暗さに慣れた湊の目はハッキリと愛梨の姿を映し出す。
腕枕をしている時ほど近い訳ではないが、一つの布団に二人なのでどうしても近い距離にいることになる。
「湊さん、腕を借りていいですか?」
「まあ構わないが、ほら」
「ありがとうございます」
変な事はしないだろうと片手を差し出すと、愛梨は湊の手を引き寄せて自らの頬に当てた。
そのまますりすりと頬擦りする。
「この前も頬っぺたに触れてくれましたけど、気持ち良いですね」
「……愛梨がそれで満足するなら好きにしてくれ」
「はい、では使わせてもらいますね」
注意しようかとも思ったが、差し出したのは湊なのでそれは出来無いと口を噤んだ。
代わりに彼女の言葉には一切応えずに、指の力を抜いて好きなようにさせる。
あまり頬に触れることは無かったが、ふやけた笑顔をしているので頬を撫でられるのが好きなのだろうか。
「嫌だったら応えなくてもいいんだが、俺が頬を触っても良いのか?」
「私、嫌だなんて一度も言った覚えは無いんですが。むしろ気持ち良くて好きです」
「……そうか」
無防備な笑顔で好きと言われて動揺してしまい、簡素な返事しか出来なかった。
最近では頭を撫でる事に続いて頬に触れる事すら当たり前になっている。
だが、愛梨の方から求めてくれる事も多いので、触れ合いの一つとして気にしたら負けなのかもしれない。
とはいえ、真っ暗闇のかなり近い距離で蕩けた笑みをされ続けると湊の精神力が持たないので、程々にして愛梨に背を向ける。
すると、くすくすと小さい笑い声が聞こえてきた。
悪意こそこもってないものの、からかわれた気がして少しだけもやもやとした気持ちになってしまう。
「……笑うなよ」
「ごめんなさい、湊さんが照れるのが可愛くて」
「馬鹿にしてないか?」
「いいえ、全然」
墓参りの時から愛梨に可愛いと言われる時が増えた。
微妙に嬉しく無いのでぶっきらぼうに咎めるのだが、全く意に介していない。
「……湊さん、ありがとうございます」
「急にどうした?」
実際のところそこまで嫌に思っておらず、注意しても無駄なのでそれ以上特に反応する事は無かったが、唐突に愛梨がお礼を言ってきた。
今日は特に何もしていないので感謝される理由が分からない。
疑問に思って尋ねると、湊の背中にとん、と軽く頭を当てて愛梨が言葉を紡ぐ。
「とっても穏やかな一日でした。こんな日がずっと続けばいいと思えるくらいに」
「愛梨が欲しいものだもんな」
「はい、私が望んで、願って、貴方がくれたものです。本当にありがとうございます、湊さん」
「……」
愛梨の感謝の言葉に何と言えばいいか分からず、無言になってしまった。
返事を期待していなかったのか、笑うような息遣いが聞こえたが無視する。
穏やかな彼女の声が聴けるこんな日々がずっと続いて欲しいと思いながら、訪れた眠気に身を委ねた。




