第54話 湊の我が儘
墓参りを終わらせて家でゆっくりしていると、愛梨が布団を敷きだした。
まだ寝る時間には早いが、墓参りで疲れたのでもう眠たいのだろうか。
その割には欠伸もしていないし、眠そうな目もしていない。
「もう寝るのか?」
「いいえ、違いますよ。……準備できました、どうぞ、湊さん」
愛梨が柔らかく微笑みながら布団の上でぽんぽんと膝を叩く。
やりたい事は分かるのだが今までそんな事をした覚えは無いし、今それをする理由が分からない。唐突に何を言い出すのだろうか。
「……いや、何で?」
「私がやりたいからです。駄目ですか?」
「分かってるよな。それ、簡単にしていい事じゃないぞ?」
「当たり前です。誰にでもする訳ないじゃないですか」
心外だというように愛梨がムッとした顔になる。
いくら彼女が湊を一番信頼しているからといって、やって良い事と悪い事がある。
本気で注意すべきだろうと思って口を開こうとすると、愛梨がからかうように目を細めて、湊より先に言葉を放つ。
「もしかして、膝ではなく抱き締めた方がいいですか? するのは構いませんが、私と湊さんでは背の関係上座ったままでは出来ないので寝転ぶ事になりますね」
「違う、そうじゃない。愛梨、それは――」
「湊さん。私は冗談などではなく、きちんと理解して言っています。言われなくてもちゃんと分かってますよ」
「下手したら襲うんだぞ。いくら俺でも限界があるんだからな」
「はい、構いませんよ」
「構わないって……。自分を捨てるような事をするんじゃない」
「捨ててなんていませんよ。湊さんになら構わないと思ってるんです」
「な……」
湊が何を言っても愛梨は穏やかな微笑を浮かべたままだ。
これだけ長い間一緒に過ごしているのだ。その笑顔が貼り付けたものでもなく、無理して浮かべているものでもないのが分かってしまう。
好きな人にそう言われて落ち着ける人などいないと思う。愛梨が何を考えて言ったのか、全く分からない。
湊が動揺して何も言えずにいると、しびれを切らしたのか彼女がもう一度膝を叩く。
「ほら湊さん。ここ、来てください」
「……どうなっても知らんぞ」
「ふふ、どんな事されるんでしょうね。まあ、湊さんが恋人でもない人に対して手を出すような、不誠実な人では無いのなんて分かり切ってますけどね」
「当たり前だろ」
いくら好きな人でも、恋人でもないのに手を出す事などしない。
妙に蠱惑的な笑みも湊を一番信頼しているという証だろうし、実際に手を出すと愛梨が傷つきそうだ。
それに、この距離感が心地良く、万が一にでも崩れて欲しくないという気持ちもある。
湊の言葉に彼女は穏やかな笑みの中になぜか呆れを含んで、その表情を深くする。
「なら良いでしょう? そんな嘘が見え見えの脅しなんかせずに、おとなしく膝枕されてくださいよ」
「……分かったよ。それじゃあ失礼するぞ」
「はい」
念の為に確認を取って、愛梨の膝に横向きに頭を乗せる。
太股は女性らしく柔らかくて人の体温を感じる。寝心地という点で言うなら枕の方がいいのだろうが、愛梨の膝枕というのはどんな高級枕よりも価値が上だと思う。
そして風呂に入った後なので、愛梨の甘い匂いとボディーソープの匂いが合わさって男心をくすぐる匂いが心臓の鼓動を早める。
横を向いていると匂いが近すぎるので、鼓動が収まりそうにない。なので仰向けになったのだが、これはこれで困る。
愛梨のスタイルが良いのは分かっていたが、形の良い胸が下からハッキリ見える。素晴らしい光景と言ってもいいだろう。
じろじろ見るのは申し訳ないとは思うものの、横や下に顔を向ける訳にはいかない。
どうしようかと目線をさ迷わせていると、愛梨が慈愛を込めた笑みで湊を見下ろす。
「そんなに緊張しないで下さいよ、何も気にしなくていいですからね」
「こんなの初めてなんだから緊張するに決まってるだろ」
初めて、という言葉に愛梨は僅かに目を見開いて穏やかに笑う。
「ふふ、私が湊さんの初めてなんですね。嬉しい」
愛梨の言い方だと何かいけない事を想像してしまい、動揺して体が固まってしまう。それを見て微笑みながら彼女は湊の髪に触れてきた。
優しく、慈しむようにさわさわと撫でられると、くすぐったさはあるものの気持ち良さの方が圧倒的に感じる。
愛梨は実に楽しそうに触れるが、男の髪など楽しい要素は皆無だろう。
「……そんなに楽しいのか?」
「はい、いつもと逆ですので新鮮で楽しいです。それに湊さんの髪は触り心地が良いですから、いつまでも触っていられますよ」
「特にケアなんてしてないがな。触り心地って言うなら愛梨の髪の方が良い」
「ありがとうございます。でも今は私が触る番ですよ」
愛梨は決して乱暴に触る事は無い。慣れてきたのか、梳くようにしたり、手の平全体で撫でるようにするなど変化させてくる。
暫く何も言わずに彼女のやりたいようにさせていたが、どうしてこんな事をしたのかがやはり気になってしまう。
先程は『私がやりたいから』と言っていたが、どう考えてもやりたいからといってする行為では無いだろう。
「……なあ愛梨、何でこんな事をしたんだ? いままで膝枕なんてしてなかっただろ?」
「そうですねぇ。湊さんを労いたかったからです」
愛梨は先程のように誤魔化す事は無く、正直に打ち明けてくれた。
ただ、湊は労われるような事など何もしていない。どちらかというと墓参りに付き合ってくれた愛梨こそ労われるべきだろう。
「何で俺なんだよ」
「頑張った、という言葉は湊さんを軽く扱ってしまうようであまり言いたくはありませんが、今まで本当に良く頑張りましたね」
「頑張った?」
「はい。父と母を喪い、義母とはうまくいってないんでしょう? 湊さんは独りでよく頑張りました」
「父さんが他界したのは中学生の頃だ、そこまできてしまえば独りでも何も問題無いだろ。それに一真達がいた」
「紫織さん達を低く見るつもりはありませんが、いくら幼馴染がいたとはいえ、湊さんが独りになる瞬間は必ずあるでしょう。独りというのは辛いものなんですよ、私にはよく分かります。……でも、私の孤独を湊さんが救ってくれました。一緒に住んでいるから当たり前だろ、と貴方は思うでしょうけど、私には父の件がありますから。私の心に寄り添ってくれたのは湊さんだけだったんですよ」
嬉しそうに顔を綻ばせて愛梨は湊を撫で続ける。
周りに頼れる人が居なかった愛梨と湊の状況は違っているが、確かに彼女は孤独をよく知っている人だ。
湊自身彼女とは似た者同士と思ってしまった事もあり、その言葉を否定できない。
「ですから、今度は私の番です。六連先輩や紫織さんはいますが、私だって貴方の傍にいて、こうして触れているんですよ。独りじゃないんですからね。貴方が私を救ってくれたように、私だって貴方の力になりたいんです」
父とべったりと触れ合っていた訳ではないし、一真達とは仲が良いものの、昔みたいにくっついている訳でもない。
湊に一番近い人というくくりなら愛梨が一番近いだろう。
その愛梨の膝と手の温もりは湊の心にするりと入りこんできて、離れたくないと思えるくらいに心地いい。
「愛梨はもう十分力になってくれてるよ」
「それでもです。もっとですよ、もっと頼ってください、もっと甘えてください。いつも私が甘えてばかりですから、こんな時くらいは逆の立場でもいいじゃないですか」
多分一度甘えてしまえば際限なく甘えてしまうだろう。だが、愛梨の言う通り今日くらいはいいのかもしれない。
普段ならこんな風に思う事は無いが、愛梨の温かさが湊の心を溶かす。
「なら、ちょっとだけ愚痴、いいか?」
「はい、ちょっとなんて言わずに吐き出しちゃってくださいよ」
許可はもらえたものの、恥ずかしくて、情けなくて腕で顔を覆って愛梨から見えなくする。
みっともない顔を見られたくなどない。
「父さんは本当にできた人だったんだ。一真も百瀬も俺には勿体無いくらいの奴らでさ、あの人との関係も最初は上手くいってたんだ」
忙しくも湊にさまざまな事を教えてくれた父は当然ながら尊敬している。
一真は元々顔立ちは整っていたが、中学に入ってから背が伸びてイケメンと言っていいくらいの成長をした。
百瀬もそれまで湊や一真と肩を並べて遊んでいたが、同じく中学に上がってから急に女の子らしくなった。
だが、湊だけは普通だった。顔立ちは特徴が無く、普通に背が伸びただけの男子中学生。
そんな平凡な見た目の湊と一緒に居てくれる、明るく誰が見ても美男美女の一真と百瀬。
そんなもの、劣等感を感じずにはいられない。
一真達が付き合い出してからは以前のようにべったりと遊ぶことは減ったが、こんな湊でもあの二人は結果的に離れずにいてくれる。
そして、最初は義母との関係は上手くいっていた。拗れ始めたのは父が亡くなってからだ。
その理由を聞けず、どうやって距離を詰めればいいか分からず、結局関係が冷え込んでしまった。
「俺が、俺だけが皆と違う。父さんのように素晴らしい人じゃないし、一真達のように顔が良くも明るくもない。義母とも結局関係が拗れてしまった」
醜い内心を包み隠さず言葉にすると、頭を撫でられる感覚を覚えた。
湊の心を労わるような優しい言葉が聞こえてくる。
「でも、私には優しくしてくれました。力になってくれましたよ」
「取り得の無い俺に出来る事なんてそれくらいしかないからな。自分を殺してまでやってた訳じゃないけど、俺と一緒に居てくれる人には気を遣わなければならないと思ってるだけだ」
結局のところ湊に出来るのはそれだけしかない。
積極的に他者と関わったところで湊の見た目は受けが良くないだろうし、自分の全てを捧げてまで見ず知らずの他人に尽くすつもりは無い。
だから、湊のような平々凡々とした人と一緒に居てくれるような人に対して優しくすることだけが、湊が返せることだと思う。
何も間違いは言っていないはずだが、愛梨の声が悲しみの色を帯びる。
「そんな事言わないでください。湊さんは素晴らしい人です」
「それは一番最初に愛梨に優しくしたのが俺だっただけの話だろ。気を遣うだけしか能の無い人を素晴らしい人なんて言わないでくれ」
次々と弱音が口から零れだしていく。
本来ならば愛梨とこうしていられるというのは有り得ないことだ、奇跡と言ってもいいだろう。
湊よりもっと性格の良い人なんていくらでもいると思うし、顔が良い人なんて沢山いる。たまたま湊が近くにいただけの話だ。
自分で言っていて悲しくなってしまう。どんなに好きでも釣り合わないのだから。
改めて自分が恵まれている事を自覚して落ち込んでいると、愛梨が湊の手を顔から引き剥がす。
本来なら彼女の力で湊の腕を退けることなどできないのだが、不思議と抵抗する気は起きなかった。
幻滅されているだろうなと思っていたが、愛梨は少し悲しそうに眉を寄せているものの、笑みを崩してはいない。
「それでも、私は湊さんに救われたんです。優しくて、温かくて、気を遣わなければと思ってしまう貴方に本当に救われたんですよ。……花火大会の夜のお返しをしますね。私の一番大切な人を、気を遣うだけしか能のない人だなんて馬鹿にしないでください」
湊を包み込むような柔らかい言葉が心に沁み込んでくる。胸が温かくも、苦しくもなり、視界がぼやけて彼女の顔が見えなくなってしまった。
顔を背けようとするものの、愛梨に手を抑えられているので顔を隠す事が出来ない。
強引に手を振りほどこうと思ったところで、彼女が湊の頭を抱き込むようにしてお腹側に引き寄せた。
視界が愛梨の服で埋め尽くされて何も見えなくなる。伝わる温もりでどうしようもなく彼女の存在を身近に感じてしまった。
「確かに湊さんの顔は万人が見てかっこいいとは言えないでしょう。でも、顔が全てではありません。貴方が温かい人だというのを知っています。とても、とても優しい人だというのを知っています。そんな人を独りになんてしてあげませんからね」
「……なら、今だけ我が儘を言っていいか?」
「はい、いいですよ」
「もう少しだけ、こうしていてくれ」
湊の言葉を聞いて、愛梨が頭を撫でるのを再開する。本当に心地よくて、どこまでも溺れてしまいそうだ。
「もちろん。貴方が望むならいつでも、いくらでも、です」
愛梨の温かさを感じて、湊の目から涙が零れていく。
それを止めることはせず、少しだけ、ほんの少しだけ、湊は涙を流した。




