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魔法伯爵の娘  作者: 青柳朔
第三部
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第三章 帰郷(5)

 強さというものは必ずしも努力だけで得られると断言できるものでもない。

 生まれついた強者はやはり存在していて、そこには絶対的な壁がある。

 ガルという少年は、おそらくその壁を越えられるだけの才能があったのだろう――あるいは、生まれついての強者だったのか。ここ数日のガルとタシアンの稽古の様子を眺めながらアイザはそんなことを思った。

(動きが最初の頃と全然違う……)

 武術に関して素人であるアイザですら分かるほどその変化は目覚ましい。

「軸ぶれてるぞ、ほら脇が甘い!」

 タシアンも手加減は一切していないようで、容赦なくガルの弱点を指摘する。声を張りながら打ち合っているというのに、タシアンには疲れが見えないのも、やはり実力差としてはっきりと現れていた。

 昨夜は野宿だったので、アイザも少し離れただけの位置で見ることができる。それでも危ないから近づかないように、とタシアンからきつく言われているので一定距離を保っていた。

 時刻としては早朝だ。朝食もまだだというのによくやるものだと思う。

 昨夜の残りのスープを温めながらアイザは稽古が終わるのを待った。

 バケットを切って、その上にチーズを乗せる。火のそばに近づけて置けばチーズはほどよく溶けて美味しそうだ。

 アイザが朝食の準備を終えたところでタシアンが「今日はここまでだな」と稽古を切り上げる。おそらく朝食の用意が終わるを見計らっていたのだろう。

「腹減ったー!」

「おつかれ」

 駆け寄ってくるガルにタオルを差し出しながらアイザは苦笑する。

 結局、『事故ではない』キスのことはあれきり話題にもならない。ガルはいつもどおりだし、アイザもだんだん馬鹿らしくなってきて、次第に緊張もほぐれてしまった。

 だがやはり完全に今までどおりともいかず、無邪気にアイザのそばに腰を下ろすガルとわずかに距離を空けるのが癖になりつつあった。具体的にはルー一匹分の距離だ。

 ごく当たり前のように繋ぐことの多かった手も、少なくとも今はアイザからは繋げない。引き寄せられたあの一瞬、まざまざと意識させられたガルは少年なのだという一面を想起させるからだ。

「そろそろルテティアか……」

 雰囲気の変わり始めた周囲を見回してアイザが呟く。早ければ今日の夕刻、遅くとも明日にはルテティアの国内に入る。

 あれほどたくさんいた精霊たちは、ルテティアに近づけば近づくほど数を減らしていった。

「アイザ、もし体調に変化が起きたらすぐに教えなさい」

 ルーが朝食を食べているアイザを見上げて突然そんなことを言い出した。

 今更どうして、とアイザが不思議そうな顔をすると、ルーは再び口を開く。

「ノルダインは精霊が溢れるほどいるが、ルテティアは違う。そういった変化によって体調を崩す魔法使いも稀にいる」

「……そうなんだ?」

 魔法使いにとって当たり前に存在していたものが消え失せている。それはやはり、身体にも変調をきたすらしい。

「おまえは生まれも育ちもルテティアだが『魔法使い』としては学園で過ごした時間のほうが長いからな」

 まして、とルーは心配そうに声を落とした。

「おまえは精霊の影響を受けやすいようだから」

 人の枠を超えた高い魔力というのは、人を精霊に近づける。世界に名を残す魔法使いたちは総じてそういった人々で、アイザの魔力はそうした人々の中でも群を抜いている。

 そしてアイザは精霊が見えることで、より精霊からの影響を無自覚に受け続けているらしい。

「…….気をつけるよ」

 自分が魔法使いとしての知識を得るたびに感じる。

(父さんは、だからきっとわたしを魔法使いにしたくなかったんだろうな)

 アイザが魔法使いとして優秀であればあるほど、おそらく彼女は孤独になる。アイザほど特異な魔法使いはこの世界に数えるほどしかいない。

 精霊が見える、その点において既にアイザは普通ではない。

「そういえばちょっと前からルーが見えないけど、いるんだよな?」

 バケットをかじりながらガルが問いかけてきた。

 国境に近い森のなかに入ってからはルーは人に見えないように姿を消していたのだ。

 街中でも大きな犬か、それとも狼かと人々はルーに驚いていたが、森のなかにいると野生の狼だと勘違いされて、この間危うく猟銃で撃たれるところだったのだ。

 もちろん精霊であるルーはそんなことでは死なないのだが、万が一アイザに当たればたいへんだとルー自ら姿を消している。

 アイザは少し意識することで簡単にルーの姿が見えるので問題ないが、ガルの目には当然見えていない。

「普通にいるだろ、そこに」

 タシアンが何を言っているんだ、というように答える。

(あれ?)

 それはまるで、見えているかのような口ぶりだった。

「いやだって、気配はあるけど、見えないから」

 不思議そうなガルを見て、タシアンも何か悟るように小さく「……ああ、そういうことか」と呟いた。

「……タシアン、もしかして見えてる?」

 ガルは気配はわかる、という。

 だがタシアンの青い目は、はっきりとガルとアイザの間にいるルーを見た。

「見えるよ。……久々だと調整がうまくいかないな」

 アイザは驚いて持っていたバケットを膝の上に落とした。

 精霊を見ることができる人間、精霊の瞳を持つ人は、そう多くないのだと聞いている。

 なのにまさか、こんな身近にいるなんて考えもしなかった。

「タシアンも、精霊が……? もしかして学園長先生が貸してくれた眼鏡って」

「眼鏡? ……ああ、俺がマギヴィルに入学したばかりの頃に使っていたやつかもな」

 懐かしいという顔で答えるタシアンに、アイザは呆然とする。確かに学園長は、かつて精霊の瞳を持つ生徒がいたという口調だった。それがタシアンだったのだろう。

「兄妹なんだし、おかしな話でもないんじゃね?」

「そ、そういうところも似るのか……?」

 けろりとした顔のガルはぱくぱくと朝食を口の中へ詰め込んでいる。

「血の繋がりはあまり関係ないが……まぁ、体質だから似ることもあるだろう」

 ルーがぼそりと呟いたので、アイザはそんなものだろうかと思いながら、膝の上に落ちたバケットを拾って食べる。

 詳しく研究されたものでもない。あれこれ悩んだところで答えは出ないだろう。


「顔洗ってくる」

 朝食を食べ終えるとアイザはそう言って立ち上がった。近くには泉があった。

 稽古の間に行けば良いのだが、二人が稽古に集中しているのでアイザは極力見える距離から離れないように言われている。万が一アイザに何かあった時に気づくのが遅れるからだ。

「それなら俺もついていくよ、危ないから」

 過保護なガルはこんなことにもついて来ようとする。

「大丈夫だから、ルーもちゃんといるし」

 依然としてルーはガルの目には見えないままだが、今もしっかりアイザに寄り添っている。

「おまえはこっちを手伝え。アイザ、何かあったら声を上げろよ」

 片付けながら出立の準備をしているタシアンがガルを呼び止める。

「わかっているよ」

 顔を洗いに行くだけで何があるというのか、と苦笑しつつアイザはタオルを持って泉へと向かう。

 五分も歩かないところに泉はあるが、森の中だと木々が視界を遮ってタシアンやガルの姿は見えなくなった。

「……本当は髪も洗いたいけど」

「やめておきなさい」

 やんわりとルーに止められて、アイザは「だよな」と諦める。

(そういえば前もこんなことあったなぁ……)

 ヤムスの森の時だ。目覚めて、顔を洗おうと泉に来た。あの時は耐え切れずに髪や身体を洗おうとしたのだ。

(それで精霊に足をとられて溺れかけて、ガルに……うん、水浴びはやめておこう)

 同じことが起きたらアイザはあの時ほど冷静でいられなくなる。助けられたのだから文句は言わないが、思い出すと今でも恥ずかしいのに。

 顔を洗ってタオルで水滴を拭う。泉の水は透き通っていてとても綺麗だ。

 魚が跳ねたときに上がる水飛沫を捕まえようと小さな精霊がはしゃいでいた。微笑ましい光景にアイザは目を細める。

 今度は捕まえようとしていた水飛沫を頭からかぶってびしょ濡れになっていた。

 ふふ、と思わず笑ってしまう。


「……貴女も見えるんですか? アレが」


 ひんやりとした朝の空気によく似た、冷たい声がアイザの耳に届く。

 向こう岸に、ひとりの青年がいた。

 淡い金髪に、月白の瞳。肌は血管が透けて見えそうなほどに青白い。細い身体は今にも倒れてしまいそうなのに、不思議と目が離せない力強さを感じた。

「……アレ、とは」

 初対面の人だ。

 どこかで会ったことがあるのなら、必ず覚えているだろう。そんな印象の青年だった。

 怯えているわけではないのに、かすかにアイザの声が震えた。

 敵意は感じないが、気安くこちらの情報を与えるのは浅慮に思えた。彼の目に映っているのは、どうやら精霊のようではあるけれど、

(でもまさか、精霊の瞳を持つ人にそう何人も出会うなんて、ありえるのか……?)

 つい先ほど、タシアンもそうだと知って驚いたばかりだというのに。

「警戒、されちゃったのかな」

 くすりと首を傾げながら笑う仕草は、少し子供っぽい。イアランと同じくらいの年頃だろうか。

 否定も肯定もできず、アイザは唇をひき結んだ。

「イディオ、行くぞ」

 向こうの木々の陰から声が聞こえる。低い声は青年を呼んでいるようだ。彼の連れなのだろう。

「今行くよ」

 イディオと呼ばれた青年は、振り返りながら声のするほうへと返事をする。

「……それじゃあ、またね」

 ひらひらと手を振って、青年は木々の向こうへと消えていった。

 あっさりとした様子に、アイザも肩から力が抜ける。

「……あの人、精霊が見えていたのかな」

「おそらく」

「でもルーには無反応だった」

 精霊が見えているのか、なんて。

 精霊であるルーを連れているアイザにはいささか妙な問いかけだ。

 そもそも、精霊が見えるなんて考えは普通なら浮かばないはずだ。そういう人間に出会うことのほうが稀なのだから。

 見えている、という考えが浮かぶということは、やはりあの青年には精霊が見えていると考えるのが自然だ。

「魔力をほとんど感じなかったから、本当にただ見えるだけなんだろう。私は普通の狼に見えたのだろうな」

 ルーは一見すると精霊には見えない姿をしている。人と同じ姿のものや小人のような精霊は人々が想像する精霊らしい精霊といえるだろう。

「精霊の瞳って、本当に珍しいのか?」

 胡乱げな目でアイザがルーを見下ろした。

「珍しい。……と、言っても今は信じなさそうだな」

「だって、もうわたしを含めて三人もいるってことになるし」

 タシアンだけなら血縁関係であることも考えれば納得できる。だが先ほどの青年はまったくの無関係だ。

「……ルテティアはそういう人間にとっては安息の地と言えるからな。あの男もルテティアを目指しているなら不自然ではあるまい」

 精霊のいない土地。

 豊かな自然が失せつつある今、おそらくそういった場所は増えているのだろうが、どの国も魔法という手段を手放さない以上、完全に失せることはない。

 ルテティアは、ヤムスの森を除いたほぼ全域で、精霊はいなくなった。

「でも調整すれば平気なんじゃ……」

「それができる人間ばかりではないよ、アイザ」

 調整が自然とできるようになるのが精霊の瞳を持つ人として普通で、けれどそれが苦手な人間もいる。

 それならまた会うこともあるのだろうか。

「アイザー! いつまで顔洗ってんの?」

 なかなか戻ってこないアイザを心配したガルが迎えにくる。顔を洗うだけにしては時間がかかりすぎていた。

「えっと……」

 不思議な人に会った、といえば言い訳にはなるだろう。

 けれどそうすると、ガルとタシアンの過保護は加速する気がした。

「……なんでもない」


 結局アイザは、この日の出会いを自分の心のうちにとどめておくことにした。



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