9. 一番の商談
商談を重ねて、商会に出向くたびに、僕は彼女に惹かれていった。会うと嬉しくなって、目が合って、その視線に自分と同じ熱を感じた時、胸が煩かった。商談はいつも以上に力が入って、うまく行きそうだった。
『ただいま。うまく行きそうだよ』
『おかえりなさいませ。それはよかったです』
でも、婚約破棄だなんて考えなかった。アンナには僕しかいないし、友人との約束を違える気もなかった。この恋は、静かに死んでいくのだと、ただそれだけを、思っていた。恋愛結婚なんて本当に稀だし、みんなそうなんだから。
『ねぇ、アンナ』
ただ、そんなに頑張らなくていいのだと、どう話そうかを迷っていた。僕は、これ以上商会を大きくするつもりはない。アンナには任せていないけど、今でさえ、あまり口にできない商売も取り扱っている。商会というのは、大きくなればなるほど、綺麗ではいられなくなってしまう。そこまで大きなものを管理できる器ではないし、父さんのように野心もない。
『何ですか?』
『……ううん、何でもない』
きっと、傷つくだろうと思うと、どうにも言えなかった。
最後に調印しに、ガネル商会に向かった日。最後だからと、二人で話した。お嬢さんも、僕と同じ考えだった。今回の話も、お嬢さんが裏から手を回してくれたのだという。
『たとえ大事業にならなくとも、商会同士で助け合えば、どうにか生き残っていけるかもしれないと思って』
やっぱり、お嬢さんの隣は心地よかった。
『じゃあ、僕はもう行くよ』
『……さようなら』
『うん、さよなら』
でも僕たちは商人だから、そうやって静かに別れた。何となくまだ帰りたくなくて、侯爵領をブラブラしていた。花でも買って行こうかと思ったけど、遊んでたことを怒るかな。この花は、お嬢さんに似合いそうだな。何を見てもそんな風に思って、少し悲しくなった。
『うわ!』
つまり、スリからしたら絶好のカモなわけで。僕はあっさりと金袋を盗られた。
弱ったなぁ、これは雷どころじゃすまないなぁ……。とその場で空を見ていると、遠くで叫び声がした。少しすると、スリを縄で縛って担いだ騎士さんがやってきて、金袋を返してくれた。
『また貴方ですか……。お気をつけください』
『久しぶりだねぇ』
彼はよく知っている。真面目でしっかりしてて、忠義者。花形職業の騎士なのに、気取ったところがなくて、女っ気もない。僕がスられる度に取り戻してくれる人。
『何だかげっそりしてるね』
僕は商人だから、人を見る目に自信がある。いつもは元気溌剌なのに、今日は萎れていた。
『いや……その、最近、家が荒れていて』
『君、一人暮らしでしょ。家事できなかったっけ?』
『できなくもないのですが、凄く時間がかかります』
『要領が悪いのに、真面目だもんねぇ』
アンナみたいに効率化できたらいいんだけど、騎士道に効率って文字はないんだろう。
『お嫁さんでも娶ったら?』
『主君が結婚するまでは、私もしないと決めています』
相変わらずの堅物だ。主君って侯爵なわけだけど、あれは一生結婚しないんじゃないかな。婚約だけでこんな美男と一緒にいたら、生殺しのようなものだろうし……ん?
『あ、そっか』
アンナは、彼に嫁ぐべきなんだ。
騎士の妻なら、そんなに忙しくない。穏やかで豊かな生活が手に入る。婚約状態なら、恋愛感情が芽生えるまで、そういう義務もない。
『ねえ、いい話があるんだけど』
人生で一番力を入れた商談だったと思う。
「まあ、最後にはビンタされちゃったんだけど〜」
「…………素直に言えば、そこまで怒らなかったんじゃない?」
「ううん」
背伸びして頬に当てようとしてくれた手を包んで、苦笑する。
「きっと、余計なお世話だって言ってたと思う」
会話にならないというか、限界状態の人との意思疎通が難しいのは、この一年で嫌というほど経験済みだ。何を言っても、無理だった。
アンナはそのことに気づかず、自分を誇りに思っているようだった。誇るのはいいことだし、否定するつもりもない。
「君は? やっぱり申し訳ないとか思った?」
彼女は、僕がアンナと婚約していたことを知っている。奥さんが少し俯いて、感情のない冷めた目で前を向いた。
「……早いうちに破棄できてよかったと思ってしまって、申し訳ないと思ってたわ」
少し驚く。人情派の彼女から、そんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「私たちの職と立場は、決して綺麗なものではない。私たちはそう育てられたけれど、アンナさんは違う」
そう付け足されて、すぐに納得した。やっぱり僕たちは似ている。
アンナは自分の軸があって、正義があった。でも、商人にそれは不要で。持っていても、傷ついたり損をしたりするだけ。何より、ガリガリで頑張り屋で、休むことを知らないアンナには、特に。
「そうだね」
「私も、穏やかに暮らしていることを願っているわ」
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