40. 母の追憶
「きっと大丈夫。あなたのご両親と兄弟だもの。受け入れてくれるわよね?」
まっさらな新しい部屋で、唯一持ってきたあの人の上着に縋る。何もできない不出来な母を、どうか許して欲しい。
お父ちゃんが牛舎で倒れていたのは、十六歳の冬だった。すぐに村の診療所に連れて行ったけど、何が原因かわからなかった。そのうちにばあちゃんが倒れた。妹が倒れた。にいちゃんも、じいちゃんも、お母ちゃんも倒れた。
突然、一人で牛の世話も家族の看病もしなきゃいけなくなった。
村は狭く小さく、誰かに移れば全滅してもおかしくない。皆自分の家族が大事なのは当たり前で、誰も助けてくれなかった。わかっているからこそ悔しくて、必死だった。
『街の方で十年くらい前に流行っていたらしい』
街の方なら薬があるらしいけど、この山を越えるなんて無理だ。
そう聞きつけたのは、全員が病で痩せ細った頃だった。村でお金なんてほとんど使わないけど、どうにかかき集めた。古い硬貨だってなんでもいい。薬さえ買えればいい。
『アニー、ごめん。牛の世話を頼みたいの』
『ちょっと、まさか』
『ごめん』
隣の家の幼馴染に頼んで、私は一人で山を登った。誰もがやめておけと言った。春に近いとはいえ冬だと。大人の男でも死ぬような厳しさなのに、お前は無理だと。
それでも、行くしかなかった。どうせ死ぬのなら、家族を見殺しになんてできなかった。山は冷たくて厳しかった。溶けかけた雪で滑って落ちかけた。枯れ木で足を切った。
『大丈夫、大丈夫』
そう言い聞かせて、山を降りた。動物たちはまだ冬眠から覚めておらず、運良く狼にも出くわさなかった。街に着いた時にはボロボロだったけど、もたもたしてられなかった。
『あの、すみません。薬屋は……』
誰に声をかけても返してくれなくて、焦りだけが募った。何度も何度も声をかけて、最後には小さな女の子が教えてくれた。お金はギリギリ足りなかった。でも、薬屋のおじいさんは薬をくれた。いつか必ずお返しすると約束して、街を出た。
『っ!?』
────そこで、攫われた。
何が起こったか理解できなかった。布で口を封じられ、手と足を縛られた。荷馬車の中には同じような子がたくさんいて、一人を除いて皆身分が低そうだった。
『こんだけありゃいいだろ』
南方の地ではこの国の女がよく売れる。
つまり私は、人攫いに遭って、これから売られるのだと知った。
このままじゃ、薬を持って帰れない。それどころか、私は……。
(っ嫌だ。お父ちゃん、お母ちゃん、助け……あ)
そう思った時、ふと気づいた。
もう誰も、私を助けてくれる人はいない。私が助ける側なのに、その私が何もできない。
家業で鍛えているとしても、村育ちで細い腕。器量はよくないし、学舎では文字の読み書きくらいしか教えてくれなかった。
(そっか)
私には、何もない。
あの時逃げずにみんなの言うことを聞いて、死ぬまで側にいてあげた方が良かっただろうか。そうすれば、こんなことにはならなかった。
涙は出なかった。ただただ、冷たくて暗い絶望だけがそこにあった。
どれほど時が経ったのかはわからない。突然、馬車が揺れた。
『どおっせい!』
大声が鼓膜を破る。剣がぶつかり合う音がした。国王直属の騎士だとかお嬢様が誘拐されただとか、そんな声が聞こえてきた。
『どうした、その程度か!!』
やがて、盗賊たちの声が止んだ。
『ご無事ですか!!』
荷馬車に現れたその人の金髪は、日の光を浴びて輝いていた。彼は身分の高そうな人の無事を確認すると、一人一人の縄を解いた。どこにいたのかを聞いて、後から来る部下に話すように言った。いよいよ私の縄も外された。
『君はどうしたんだ? 助けは必要か?』
一筋の光が見えたけど、眩しくて、もう希望なんて持てなくて、私は泣き出した。
『薬を、買いにきたのに、もう……』
誰に何を言っているのかなんて、もうわかっていなかった。ただ悔しくて不甲斐なくて辛かった。土を掻いて、地に伏した。
『……よし、わかった』
大きな手に包まれて、顔を上げる。真っ赤な瞳が、私を見つめていた。
『しっかり捕まってろよ!?』
そのまま私を背負って、騎士様は走り出した。高貴なお嬢さんが何か言った。騎士様はお礼を言った。途中で出会った部下らしき人たちが悲嘆の声をあげた。真っ暗な闇の中も、朝焼けの中も、その人はずっと走っていた。
『この山か!?』
いつのまにか知っている土地にいて、おぶわれたまま山を登っていた。村が、見えた。
『早く行くといい』
家まで走った。ドアを開けて、起き上がれないけど、みんなまだどうにか生きていることに安心して。
『ただいまっ!! 薬、買ってきたから、もう大丈夫だからっ』
……でも、もう手遅れだった。




