22. 侯爵の思惑
「今頃、殿下が無理やり名前を書かせている頃だからかなぁ」
執務室で葉巻を吸いながら、独りごちた。アンナが嫌うから数年吸えていなかったが、やはり旨い。
「懐かしいなぁ」
『自、自分は……嘘は吐きたくないと……』
拾った少年……騎士がそんなことを告白してきた。助けてくれた人を好きになってしまって、婚約者への対応に悩んでいる、と。
馬鹿なのか。内心ではその一言だった。
話を聞くところ、婚約者に全てを伝えても、ああそうですかとしか言わないだろう。だったら、何も言わずに共に過ごしていればいい。恋なんて一過性のものだし、何食わぬ顔で家族のままでいればいい。こいつは、嘘と言わなくていいことの違いもわからないのか。
『……なるほど、君は、それで悩んでいると』
表では親身になりつつ、裏で考える。そのまま伝えることもできるが、この馬鹿に彼女は勿体無いと思っていた。彼女は賢く、物覚えが良い。何より私の美貌や権力に狂わない上に身分が低い。
『では、僕が譲り受けても問題ないだろうか』
『……は?』
『安心するといい。私は殿下が婚姻なさるまで結婚するつもりはなかった。無駄な権力争いはごめんなんだよ。だから、事が落ち着いてから、適当に都合のいい女性を娶ろうと思っていたんだ』
とても都合がいい女性だ。彼女がいれば、私は領地をより発展させられる。別に悪いようにはしないが、一人の女性と領民全て。取るべき方は決まっている。
『私が、君に嘘をついたことがあったかな?』
忠誠心に酔った彼を覗き込む。こんな私を信じるくせして嘘は吐きたくないなど、愚かだ。
彼は北東部に飛ばした。彼がいては、情報統制がめんどくさい。このことは、民は深く知らなくて良いことなのだから。
『君に、私の婚約者をお願いしたい』
彼女は一人で侯爵邸にやってきた。門番に話は通しておいたが、まさかここまで早いとは思っていなかった。特にこちらに要望はなく、家族の幸せな生活のみを望む。こちらが契約内容を話しても、顔色ひとつ変えない。これはあの騎士にはやりづらかっただろう。
『つまり、愛は不要。互いのために婚約しようと言うわけですね』
『話が早い人は好きだよ』
しかし、私にとっては好都合だ。貴族社会において、感情を表に出すのは未熟者。淑女教育でも厳しく言われるであろう部分が、先にできている。
彼女は実に有能だった。
『……随分とうまくやったね』
『女性の共感性とは凄まじいものです』
『くくっ。君も女性だろう?』
平民でありながら、貴族の令嬢たちを味方につけ、羨望の眼差しまで集めていた。契約であると公言しながらも、文句がでない。見事だった。
『やあ、待っていたよ。彼女が私の婚約者のアンナだ』
『お初にお目にかかります。アンナと申します』
彼女ならいけると踏んで、王子殿下に紹介した。長く付き合っていくには、避けて通れない壁だ。当初は私がどうにかしようと思っていたが、任せた方が良い結果になると判断した。……が、これもまた想定以上だった。彼女の衝撃的な身の上話は殿下の警戒心を解き、興味まで湧かせていた。
『こうして、私は侯爵の婚約者となりました』
側近から話を聞いていたが、私でさえ把握していないことも多かった。最初は幼馴染に婚約破棄されていたとは知らなかったし、商人のこともだ。おそらく、商人が隠したのだろう。より大きな商会との繋がりのために捨てたのだから、商人側としてそこまで責められる話でもないが。何も持たない者にとって、婚約破棄されたという事実は、価値に影響を与える。
何はともあれ、このまま穏やかに契約を結んでいられたらと思っていた。
『アンナを好きになった』
だから、殿下にそう言われたとき、初めて腰を抜かした。椅子に座っていてよかったと思った。




