19. 侯爵は困っていました
そもそも呼べるような身分ではない。私は侯爵の婚約者とはいえ、契約関係。契約状態でも、侯爵家の末席のノース家の養子だ。
「呼んでくれないのか?」
でも、なんというか、あれだけ態度が悪かった人から露骨に甘えてもらえると……。
「オスカー様」
昔、怪我をした野犬を助けた時を思い出す。最初は怪我が治ったら野生に戻すって話だったのに、結局愛着が湧いてしまって、お父ちゃんに泣きついて飼うことになった子だった。
「うん」
王子殿下は、またくしゃっと笑った。
「はぁ……」
「どうかしたのか?」
「いえ、侯爵の気持ちがよくわかるな、と」
正直、迷惑じゃないかと思っていた。勝手にきては我が物顔で居座って、いつまでも自分を待っているなんて。
同じ立場になってみてわかる。これは凄く、胸に来る。こんな乳兄弟がいたら、甘やかしてしまう。
「今日は侯爵は狩りに行っていらっしゃるんですよ」
「ああ、知っている。あいつは狩りが好きだからな」
「本当に。この間なんて大きな……」
口元に手を当てる。今、王子殿下は何て仰った?
知っている?
「いないと分かっていて、いらっしゃったのですか?」
「君はいるだろう?」
「そう、ですが……なぜ」
「顔が見たかっただけだ」
私の顔をずっと見て、王子殿下は満足気に頷く。商家や騎士様、侯爵のおかげで、見るに耐えない顔ではなくなったと思う。だとしても。
頭が真っ白になる私を置いて、殿下は外套を羽織る。
「そろそろ帰る」
「あ、はい」
形式通りに見送った後、私はしばらく玄関で放心していた……らしい。
「アンナ、見てくれ。なんとも質のいい……聞こえている?」
気がつけば、侯爵が帰ってきていた。後になってから、微動だにせずに怖かった。動かそうとしたけど体幹がしっかりしすぎていて無理だった。銅像を動かすやり方を試そうとした……などなど、様々な使用人から言われた。
「あー、殿下が来ていたのか。さてはあの好き好きオーラを浴びたんだね」
「凄い言葉をサラッと吐かないでください」
「ふふ、あれは強烈だよねぇ。癖になるくらい」
夕食の軽い会話の中で、侯爵は愉快そうにワインを揺らす。笑い事ではない。
「きっと、鬱憤が溜まっていたんだろう」
侯爵は優雅に憂いた。わざわざ漏らすなんて珍しい。
「それは、私が聞いても良い話ですか?」
「うーん、どうしようかな」
侯爵が迷っている間にドルチェが運ばれてきた。今日のは季節のフルーツタルト。秋らしい葡萄だ。二年前の春に来て、もうすぐ三年か。
侯爵もタルトを食べる。ワインと合うだろう。
「まあ、外交問題がちょっとね。私も動いているんだが……どうなることやら」
侯爵が動いてもどうなるかわからないなんて、よほどめんどくさい案件だ。王子殿下絡みなんて、特に。
「これから、来る頻度が増えるかもしれないね」
「……」
「あっはっはは。困るって顔をしているねぇ。うんうん、君は随分と表情が良くなった」
こっちの気持ちも知らないで呑気に笑う侯爵にイラついたものだったけど、日を追うごとに侯爵の顔色が悪くなっていった。
「……何か悩みでもあるのですか?」
ある日の夕食。いよいよ優雅さにまで違和感が出始めて、もう一度聞いてみることにした。
侯爵が息を吐く。流石に限界らしい。
「うーん。そうだね、君になら話してもいいか」
「内密にした方がよろしいのですね」
給仕をしていた使用人を下げる。静かな食堂には、侯爵がステーキを切る音だけが鳴っていた。ワインが傾いて、泡が弾ける。
「殿下が、他国から献上された姫君を振ってしまったんだ」
ナイフで肉を切る手が止まった。
彼女は、長く続いた因縁の終止符とばかりに送られてきた王女様なのだという。
「王女とはいえ末席でね、帰る場所なんてないと泣く。今は王宮の客室に住まわせているが……どうしたものかな、と」
私だって気を許してもらえるまで大変だったのに、ほぼ敵国から送られてきた王女様なんては見向きもしないだろう。
「……差し出がましいことを申し上げますが、ひとまずお話を伺ってみてはどうでしょうか。王女様は、今とても不安だと思いますので」
婚約破棄を何度もされた身として、今後どうなるかわからない不安というのはすごくよくわかる。すぐにはどうにもできないとしても、味方がいるのだとは思わせてあげたい。
「……なるほど」
侯爵は考え込んで、深く頷いた。




