八話
意味がわからなかった。
何しろ、彼の言うことが本当だとしたら、わざわざ柿沢にまとわりついているサチを自分にひきつけようとしているということになる。
困っている柿沢のためにしてあげている。といえば聞こえはいいが、彼を見るかぎりではそれはどうも違うように思えた。
ならばただ面白がっているだけだろうか。
しかし、彼は本心から面白いなんて思っていないことは明白だった。
むしろ、嫌悪すら感じているようにサチには見えた。
だから、純粋になぜと思ったのだ。
そう尋ねたサチに、彼は一瞬驚いたような表情をした。
「……なぜって、そりゃあモテたいから」
「そうは見えないけど」
佐川ぐらい見た目が整っていたら黙っていたってモテるはず。
わざわざほかの人がいい、なんて子に声をかけなくたって、彼目当てに寄ってくる子は多いはず。なのに、どうして。
怪訝そうに眉をひそめ、じっとうかがうようにみつめるサチに、佐川は浮かべていた笑みをすっとかき消し、それからひどく面倒くさそうというような顔をした。
「……レイジの趣味って、ホントわけわからねーな」
はあ、と息をはき、佐川はがしがしを頭を掻く。そしてサチがむけているのとさほど変わらない怪訝そうなまなざしを彼女へとむけた。
「そもそもあんた、レイジとはまったく接点なかっただろ。だから、毎度のことのようにお前がどーしてもと、お願いして、なんとかつきあってもらってんのかと思ったのにさー」
「……ふうん」
柿沢の過去が透けて見えたような発言だった。
過去、柿沢は特に相手に思い入れもなく、頼まれたらそのまま付き合っていたのだろう。で、サチも同じように付き合っているのだと、佐川は思ったのだろう。
まあ、言われるまでもなく柿沢とサチは釣り合っていない。
「……あのう、もしかしてですけど、今までもそうやって佐川さんは、柿沢くんの周りにいる女の子を、こう、誘惑していたんですか?」
「誘惑……」
佐川はちょっと驚いたように目を瞬かせ、それから薄く笑みを浮かべた。
「ほんと、さっちゃんってさぁ、かわってるよね」
「佐川さんもすごく変わっていますよね。柿沢くんのことが嫌いなんですか?」
「嫌いだね」
佐川は小さく笑みを漏らす。その笑い声は腹の底から楽しいは決して思っていないような、自分で自分をあざ笑うようなそんな声だった。
「誰のことも好きじゃないっていいながら、一番大事なものを俺から奪っていく。けど、それはあいつにとっては、どうでもいいガラクタみたいなものなんだよ」
「……佐川さん?」
何を言っているのだろう。
伺うようにみつめるサチに、佐川はゆっくりと手を伸ばす。そしてその頬に彼の指先が触れた。
「ね、さっちゃん聞いたよね? どうしてこんなことをするのかって」
そんなことで、思わずつぶやいた言葉に、佐川は軽く眉をあげた。
いや、そんなことではないのだろう。きっと、佐川にとっては。
触れる指先がサチの頬をするりと滑り、そして顎をとらえる。
「オレはね、柿沢のことが大嫌いなんだよ。だから、一番大切なものを奪ってやるんだ」
「……くだらないです」
サチの言葉に、佐川は目を見開く。
「だってそうでしょう。佐川さんが柿沢君のことを恨むのはまあ、百歩譲って理解できないこともありませんが、でも、そのことは柿沢君には何の責任もないはずです。だって、人の心はどうにもならないじゃないですか」
そうだ。人の心はどうにもならない。
柿沢とのひと月はサチの心をほんの少しだけかえた。サチにとって柿沢は遠くて、違う世界の人だとおもった。同じ言葉を話しても、決して通じあうことなんてない。
だけど、話をしてみて、一緒にいてそう思って心を閉ざし、目を閉ざしていたのは自分の方だとわかった。
柿沢は違う世界の人間じゃない。一緒に笑いあうことのできる同じ人間だった。
そんな単純なことがサチにはわかっていなかった。
だからだ。柿沢が離れて行ってしまったのは。
でも、それは柿沢のせいじゃない。しょうがないことなのだ。
「しょうがないであきらめるのかよ」
「無理に言って付き合ってもらったってうれしくないです」
「……っ」
佐川は歯を食いしばり、かみつくようにサチを見つめた。だが、しばらくしてから大きく息を吐き、それから軽くうつむいた。
「……さっちゃん、まだ柿沢のこと好きなんだね」
「わかりません」
この感情が好きなのかどうか。
サチにはまだわからなかった。けど、もう一度柿沢に会いたいと思う。
「でも、もう会わないほうがいいのかなと思います」
「どうして?」
「……苦しくなるから」
会いたいから、会えないことに苦しくなる。それは今までサチが一度も感じたことのなかった感情だった。
平凡で、平和で、波一つたつことのない日常。
その中で柿沢というものは大きな波だった。一つの波はそれだけでは終わらず、水面に小さないくつもの波紋を残した。
もう一度あって、断られたらまた波立つだろう。
それが落ち着くのはいつになるかわからない。だったら、もう会わないほうがいい。
柿沢だって、わざわざサチを傷つけたいわけでもないだろうに。
無意識にうつむいていたサチの頭に、ふいに大きな手が乗った。佐川のだ。
慰めているつもりなのか。やや乱暴におかれた手が、サチの髪をぐしゃりとかき乱した。
「……なんかなー、オレ勘違いしてたかも」
「何をですか」
「んー? さっちゃんのこと」
ふふっと笑いながらぐしゃぐしゃとかき回す佐川の手を、サチは思い切り振り払う。
そして文句の一つでもいってやろうと顔をあげたその時だ。
ものすごい勢いでカフェの扉が開いた。
激しい物音に、思わず振り返ったサチは飛び込んできた人に、小さくあっと声をあげた。
「か……柿沢くん」
今まで会いたくて、探しに探したその人が額に汗をにじませ、肩で息をつきながら、ぎらぎらとした眼でまずサチを、それからその向かいに座る佐川を見つめる。
「……佐川」
「よう」
仰天したサチとは反対に、まるでこのことを予想していたかのように悠然と片手をあげた佐川に、柿沢は顔をゆがめたまままっすぐ近づく。
そして無言で彼の胸倉をつかみ上げた。
「……何考えてるんだよ」
「何って、さっちゃんのことかな」
佐川の顔には、先ほどまで浮かんでいた投げやりな笑みはなかった。最初に見せたようなふわふわとした、人の好さそうな、悪いことなどこれっぽっちも企んではいなそうな笑みがそこにあった。
だが、柿沢はそれをまるで嫌悪するようなまなざしを向ける。
「田口さんのことは関係ないといったはずだ」
「うん、そーみたいだね」
あっさりと肯定され息をのんだ柿沢に、佐川がにっこりと笑う。
「さっちゃんはお前と会わないほうがいってさ」
「……っ」
一瞬ほほをこわばらせた柿沢に、佐川はにこにこと無邪気を装う。
それははた目からは不機嫌そうな柿沢に、それを宥めるように微笑む佐川といった図に見えるだろう。
と、カフェの中でどこからかほう、と誰かのため息が聞こえる。
そりゃそうだろう、とサチは思う。
派手な二人が向き合っているのだから。
「お前だってそう思ってるんだろ? だったら」
「……んなわけねぇだろ」
瞬間、柿沢はサチの腕をつかんで、立ち上がらせる。
そして彼女の荷物をもう片方の手にとると、そのまま無言で店から連れ出した。
それからどのぐらい走ったのだろう。息が上がり、もう走れないと思ったとき、ようやく柿沢は足をとめた。
そこは駅の反対側。最後に一緒にいったショッピングモールの反対側だった。大きな建物のわりに裏側はさほど人気がない。そこで足を止めたサチはぜいぜいと肩で息をつきながら、じっと彼の背中を見つめる。
首筋には汗で髪がはりつき、肩はサチと同じぐらい上下に揺れていた。
「……ごめん」
ふと聞こえてきた柿沢の声に、サチはえ、と声を漏らす。
「迷惑かけただろ。いろいろ」
「そんなことは」
とっさに返したサチの言葉に、柿沢は背をむけたまま小さく笑った。
それは明らかにサチの嘘を見抜いているようだった。
柿沢は噂はどうであれ、サチと一緒にいる間は取り繕うことも、嘘をつくこともしなかった。常に率直だった。けど、自分はどうだっただろう、とサチは思った。
今のように波風立てないように、取り繕ってばかりだった。
それでいいのか、とサチは思う。
昔、幼いころエリちゃんが困っていたとき何もしなかったように。そのうちどうにかなると思っている自分に嫌気がさした。
だから
「あのね、柿沢君。私ね、ずっと柿沢くんのこと違う星の人だと思ってたんだ」
「……は?」
違う星? サチのあまりに突拍子もない言葉に、柿沢は思わず振り返る。
「……違う、星って」
「あ! あの、違う星っていうのは宇宙人とか異星人とか、そういうんじゃなくて。なんというか、例え話というか!」
まじまじと見つめる柿沢から、少しばかり気まずそうにサチは視線を逸らす。
「なんかこう、私とは全然違う世界の人だなぁって思っていたの。ほら、柿沢君ってさ、いろんなこと知っているじゃない? どこが楽しいとか、おいしいクレープ屋さんとか、おしゃれな雑貨屋さんとか」
「そんなの……」
「柿沢君にとってはそんなの、だよね。でも、私ね、そういうところに行ったこともなかったし、そういう世界があることは知ってたけど、でも自分とは違う人達のものだとおもっていたの。だから柿沢君が付き合おうって言ってくれても、なんかこう、自分とは違う世界の人だーぐらいにしか思ってなかった」
そんな人に声をかけてもらって、一緒に遊んで。
少し前の自分が知ってもおそらく信じてもらえないだろう。そのぐらい、サチにとってはすごい出来事だった。
「だから、柿沢君はすぐに飽きちゃうんじゃないかなーとか。私といてつまらなくないのかなーってずっと思っていた」
「そんなことない」
「……うん」
サチは小さくうなずく。
「違うね。柿沢くん、私といた時はすごく楽しそうだった。それが私にはうれしかった。この一か月、すごく楽しかった。柿沢君と一緒にいられるのが、当たり前になるくらい」
そう言った瞬間、柿沢の瞳が大きく見開かれた。
「だからさ、会えなくなってすごく寂しくなっちゃって、会いにいっちゃったりしたんだ。ほんと、あの時はご」
ごめんね。そう言いたかったのに、言葉は途中で遮られた。
柿沢に抱きしめられて。ぎゅうぎゅうと柿沢の長い腕がサチをとらえ、強く引き寄せる。押し付けられた胸からはどくどくと、随分早い彼の鼓動が聞こえる。
一瞬、何がおきたのかわからなかったサチは視線だけをわずかに上へとあげた。
「……あの」
「嫌だ」
絞り出すような柿沢の声に、サチはえ、と小さく呟く。
「オレ、田口さんのこと好きだ」
「……え?」
ええ!? 思わず声をあげたサチの肩に、柿沢は額をぐいぐいと押し付ける。
だからサチからは彼が今、どんな顔をしているのか。まったく見ることはできなかった。
だが、抱きしめられているその腕の強さ、押し付けられた額の熱さはわかる。
サチはだらりと下げたままだった手を、のそりと持ち上げおずおずと彼の背中に回し、なぜか思わず、小さい子をあやすかのようにぽすぽすとたたいた。
「柿沢くん、あの」
「オレさ」
耳元でささやくように、柿沢はぽつりとつぶやく。
「ずっと前から田口さんのことが好きでさ」
「うん」
「……でも、ほら、オレ、なんかいろいろ面倒くさいだろ?」
「え?」
サチは背中に回していた手を、無理やり引き戻しぐいっと柿沢の胸を押す。
「面倒くさいって、柿沢くんが? どのあたりが?」
「だって、オレ、田口さんがちょっと引いてるのわかってたのに、無理やり突き合わせてたじゃん。一緒にいたくてさ」
「……ああ、それ」
ちょっと強引だな、とは思った。でも、そういうものかとも思っていた、と返すと柿沢は少し困ったような顔をした。
「わかってた。田口さんがなんか勘違いしてるんだろうなーってことも。でも、一緒にいたかったからそれを利用した」
「楽しかったからいいのに」
「……うん、でも」
ふいに柿沢は言葉を切る。
おそらくマナのことを思い出しているのだろう。
それはサチも同じだった。
じっと見つめるサチに、柿沢はあわてたように口を開いた。
「いや、別にオレとマナは付き合っているとかそういうんじゃなくて……」
「……うん」
サチは小さくうなずく。
わかっている。柿沢はモテる。ジュンだって由利だってそれは言っていた。最初から知っていたことだ。
苦し気な柿沢に、サチはそうかと心の中で納得する。
そりゃそうだ。マナは怒っているときはアレだが、黙ってればそれはかわいらしい。艶やかな髪は毛先でふんわりとカールし、目はサチの二倍はありそうなほど大きい。ぽってりとした唇も、ふんわりと染まった頬も、華奢な肩もサチにはないものだ。
きっと柿沢のとなりに並べばそれはお似合いだとわかる。
まるでサチが昔絵本で見た、あのお姫様と騎士のように
「お似合いだと思うよ」
「……は?」
柿沢の顔が険しくこわばる。
「なに、それ」
「え……だ、だって……」
おろおろと戸惑うサチを柿沢は再び抱きしめる。
「オレは田口さんが好きだっていってるのに。なに、それ。もう、リベンジもできないわけ?」
「ち、ちが」
ぎゅうぎゅうとこれでもかと抱きしめてくる柿沢に、サチはぐえっと小さくうめき声をあげる。だが、焦っているのか、柿沢の腕は弱まるどころかサチを抱きつぶさんとする勢いのまま。
「オレは田口さんを守りたくて、だから少し距離を置いて」
「あ」
「それなのに」
「か、かき」
「もうダメだっていうわけ? もう遅いの?」
「柿沢くん! 苦しい!!」
思わず叫んだサチに、柿沢はあ、と小さく声をあげ、わずかだが腕の力を緩める。
だが、離れる気配はなかった。こんなに近くに人を感じたことは、小さいときに親にだっこされて以来だ。
どくどくと聞こえる妙に早い心臓の音。
最初は自分のものだとおもっていたその音が、自分のものじゃないとわかったのはかろうじてみえる彼の首筋がほんのりと赤く染まっていたからだ。
「ごめん」
「う、うん」
「でも、オレ、本当に田口さんのことが好きで、だからオレのせいで嫌なことされているってわかったからだから。だから、距離を置こうって思ったんだ。マナのこともあるけど、あいつは関係ない。なのに、佐川が……」
くそ、と小さく呟く柿沢に、サチは思わず笑いだす。
顔が見えなければ柿沢だって普通の男子学生だ。照れ屋で、優しくて、だから
「……好き」
「え」
思わずつぶやいたサチに、柿沢の動きが止まる。と、同時にサチも固まった。
今、自分はなんていったんだ。
思わず漏れた心の声に、サチは思わずうつむく。その額が触れる柿沢の心臓が一層強く鼓動を打つのが感じられる。
そろりと柿沢の指先がサチの背中をなぞり、そして今度は柔らかく、包み込むように深く抱き寄せた。
「オレのほうがずっと前から好きだ。だから」
オレのそばにいてください。
耳元でささやかれたその言葉は、硬くこわばらせていたサチの体を、心をゆっくりと溶かし、消えていった。




