恋は降り積もる
好きというものは、積み重ねのようなものだと柿沢は思っていた。
もちろん、それだけじゃない。偶然の出会いが心を揺り動かすことがあることぐらい、柿沢にだってわかっている。
けれどもそんな偶然、めったにあるものではない。
もし、それが当たり前のようにあるのだとしたら、それこそ町中いたるところで恋に落ちる人が続出することになる。
だから、そんなものは現実にはない。
あるとしたらマンガやドラマぐらいなもので、現実にそんなことを信じている奴がいたとしたら、それは妄想か、はたまた相手のことなんてこれっぽっちも見ていない。ただ夢を見ているだけの人だと、思っていた。
柿沢がそんな風に冷めた見方をするようになったのには理由がある。
柿沢は幼いころから顔立ちがたいそう整っている、いわゆるイケメンというやつだった。
背丈も高く、めぐまれた体躯に、整った顔立ち。これでモテないとわけがない。中学生の時などは同学年のみならず上は大学生から下は小学校にいたるまで彼にまとわりつく女性は実にバラエティに富んでいた。
はたから見れば実にうらやましい環境のような気がするが、モテにモテまくった中学時代を終えると、柿沢の心はすっかりねじ曲がっていた。
彼に言わせてみると、モテるということは食べたくもない高級食材を次から次へと口の中に放り込まれる状況、ということらしい。
少しぐらいならばいい。
めったにないものが食べられるとしたらうれしいだろうし、記憶にも残るだろう。
けれども、四六時中、三百六十五日休みなくとなると話は別だ。
実際、彼の場合はどこへいっても人の目にさらされ、声を掛けられ続けられていたのだ。こういう状況になるとたいていの人は天狗になるか、はたまたねじ曲がってしまうかのどちらになるだろう。
ちなみに柿沢は後者だった。
異性にちやほされ、手あたり次第食い散らかすほどスレることもできず、かといって事態を平然と、淡々とこなすには彼は幼かった。
それゆえ、彼にとって中学時代というものはとにかく「うんざり」の一言だったというわけだ。。
そもそも相手に対してなんらかの好意があるからこそ、その相手との接触に幸福を感じるのであって、なんの感情も持てない。ましてや好きでもない相手から一方的に押し付けられた感情など、嬉しいどころか迷惑以外なにものでもない。
もちろん口にはおろか、態度にだって出すことなんてないけれども。
そうやって感情を出したところで、事態が好転したことなんて一度だってない。だからこそ、感情を押し殺し笑みを張り付け、なんとか無難に事態を切り抜けてきたつもりだった。
けれども一度だけ、こらえきれなかったことがあった。
それは中学二年のころ。相手は学年がしたの女子バスケ部の部員だった。
彼女はとにかく、しつこかった。柿沢がきっぱりと、冷たく拒絶しないのをいいことに、四六時中まとわりついてきた。
何度も何度も、やんわりとだが諭したにも関わらず、彼女は一向に聞き入れてはくれなかった。それどころか柿沢との接点が増えると思ったのか、事態は悪化の一途をたどった。
この状況に柿沢を知る友人たちからは同情といたわりの言葉をかけられたが、そのほかの人。この場合は無関係の人達も含むほぼ全員からはそうは見られてはいなかった。
イケメンだから調子に乗っている、とか。
モテるのが当たり前だからえり好みしているとか。
周囲の意見というものは、まったくもって勝手なものだ。
相手は柿沢とは、個人的なかかわりなど何一つなかったというのに。
一目ぼれなんて聞こえはいいが、なんてことはない。彼女が好きだというのは柿沢の内面などではない。外面。そして周囲の評価この二つを好きになったのだろう。
苛ついていた柿沢は、その子にむかってそう叫んだ。
どうせ。
どうせ、好きなのは外見だけだろう、と。
たたきつけられた言葉に、後輩の女の子が立ちすくむのがわかった。
二度と。二度と声をかけてくるな。
強い拒絶の言葉に、後輩の女の子はこらえきれず泣き出した。
それからのことは思い出したくもない。修羅場の一言だった。
もともと、彼女は柿沢がこのようにむき出しの感情をぶつけてくるなどとはつゆほども思いもしなかったのだろう。彼女の中の柿沢はそんなことをするような人ではなかったのだろうから。だからこそ、理想を裏切った自分に対し、まるで被害者のような顔をして泣けるのだ。
そんな経験があったからこそ、柿沢は自分に向けられる好意や他人にむける好意にひどく臆病になってしまっていた。
もちろんそんなことを表に出すような愚かなことはしなかった。
普段よりも軽薄に。一つのことにそう頓着しない、そういった雰囲気をあえてにじませるようにした。
部活もやめた。
中学の時、これがらみでさんざん嫌な思いをしたからだ。
バスケは好きだったが、嫌なことをこらえてまでしたいとは思わなかった。
だから、柿沢は高校に入るとひどく退屈だった。
友人はできた。相変わらず周囲は騒がしかったが、あえて軽薄にすることで近寄りづらい印象をあえたことも功を奏して、中学のときよりは幾分。過ごしやすくはなっていた。
だが、退屈だった。
とにかく、何もない日々。
このまま3年間が過ぎ去るのかと思うと少しばかり残念なような気がしたが、それでもあの地獄のような中学時代よりはマシだと。そう、柿沢は思っていた。
しかし、変化というものは好むと好まざるとにかかわらず、まるで天からの啓示のような形で訪れるものだ。
そのきっかけは高校入学の時だ。
そのころの柿沢はというと、中学の時の一連のいざこざにすっかりうんざりして、さらに高校でもやはりその外見から騒がれ始めたという最悪の時期だった。
だったら高校は他県にいけばよかったのだが、なにしろ親が柿沢の事態にひどく無頓着で、柿沢本人も親に頼み込むなんてことは到底できる話でもなかった。
それにどうせ他県にいったところで、事態が大きく変わるとも思えなかった。
地元の高校で唯一、よかったのはクラスでは同中の知り合いが多かったことだ。
友人たちは柿沢に対して態度を変えることはなく、何も知らない子に対しては体のいい防波堤にもなってくれていた。
そんな柿沢が、隣のクラスに幼馴染がいると気が付いたのは、入学して二日目のことだった。
親同士が仲が良くて幼いころはよく遊んでいたが、それも中学までのこと。
それからはとてもではないが、声を掛け合うようなことはなかった。
あの、中学の事件を引き起こしたという女生徒が、実は幼馴染の後輩だと知ったときも特に何も思うこともなかった。高校が一緒だったことも、クラスが隣だったこともその時初めて知ったぐらいだ。
そんなことを知ったからではないがたまたまクラス前を通りかかったときに、その幼馴染の横にいた子がふいに目に飛び込んできた。
最初の印象を一言でいえば、地味。
同じクラスになったとしても、話して良くて一言や二言程度で、記憶にすら残るかどうかも怪しい。
その他大勢の、よくいるクラスメイトという印象だった。
だから取り立ててこれといった印象もなく、柿沢は教室へと戻ろうとした。と、その時だ。彼女がふわり、と笑ったのだ。
おそらく幼馴染か、その隣にいる大人びたクラスメイトのどちらかの話を聞いていて、つい、笑ってしまったのだろう。
そのぐらい、作りこまれていないとても自然な笑い方だった。
それをみて、柿沢はふと思い出した。
自分の周りでは、そういった笑い顔をついぞ見たことがないことを。
別に、うらやましいというわけではない。ああ、そういえばという感じでその時は、ふとそう思っただけだった。
それからというものの、柿沢は彼女を意識的に見るようになった。
彼女はどうやら隣町からきているようで、学校への行き帰りは主に徒歩と電車のようだった。学校には地元の子よりもどちらかといえば市外からきている子の方が多い。
だから駅までにあるファーストフードや駅の反対側だがショッピングモールなどは同級生たちにとっては絶好の遊び場だった。
だが、彼女をそういったところで見かけることはなかった。
部活をやっているようすもなく、一体何をしているのか。これまたふいに思い立ち、放課後、ファーストフードに集まっている友人で同中のやつに話を聞いてみた。
「え? 田口?」
最初は思い出せなかったようだったが、隣のクラスのと促すとああ! と小さくうなずいた。
「あー、タグチサンね。えっと、あれ? 誰か近所だったんじゃね?」
「あー、オレオレ」
そういったのは、隣の席にいた友人だ。
「タグチって、さっちゃんでしょ?」
「さっちゃん?」
聞き返すと、彼はくくっと小さく笑った。
「そー、フルネームは田口サチ。あだ名はさっちゃん」
「あー」
声をあげたのは柿沢の友人、佐川だ。
柿沢と同じぐらいモテまくり、そして柿沢と違うのはその環境を最大限に利用しまくっている男だ。
同性から見たらうらやましいことこのうえない存在なのだろう。
今日も話に参加している、というよりも手の仲のスマホで、どこかの誰かとメッセージのやりとりが忙しいらしく話を半分も聞いてなかったようにもみえた。
だが、いつの間に聞いていたのか。スマホをカバンに放り込み、ぐっと身を乗り出してきた。
「隣のクラスにいる、あのかわいい子でしょ? 黒髪ボブの」
「かわいい?」
そういったのは同中で近所だといった友人だ。
眉をひそめ、怪訝そうな顔で佐川を見つめる。
「……や、そーか?」
「そうだよ」
「いやいや」
サチの近所の男は笑う。
「いくら佐川でも、ストライクゾーン、広すぎっしょ。まあ、すんげーヘンってわけでもねーけどさ。でも」
なあ、と男は周囲に同意を求める。
だが求められた周囲もたまったものではない。何しろ、ここでうなずけばサチをけなすことにもなるし、だからといってじゃあ佐川が言うことに同意となるのも何かおかしい。
あいまいな態度のままの周囲に対し、佐川がにっこりと笑った。
「え? かわいいでしょ。っていうか、お前ら気がついてないわけ? 彼女さ、友達にだけすごいかわいい顔をするんだよね。オレもちらっとしか見てないんだけどさ、あれ、ちょっといいなぁって思うんだよ。だってさ」
それって、すごい特別ってことじゃん。
そういうまるでドラマか映画か、小説かと思うような言葉を、佐川は臆面もなくぺろりという。だが、そこには軽薄さや仰々しさはまるでなく、彼が本心で思っているような口ぶりだった。
確かに、と誰がつぶやく。
「田口さんってあんまり話したりしないんだよな」
「あー……」
誰からともなく同意の声が漏れる。
柿沢も例外ではない。そうだとうなずきかけたところで、佐川の視線がこちらを向いているのに気が付いた。
「佐川? なに?」
「あー、でも、レイジは違うか」
「は?」
ぽかんとしてみると、佐川がにやりと笑った。
「お前はあれだろ? ちょっと軽くて、胸のデカイ子が好きなんだっけ?」
「あ! そういやマナが」
「あーあー、そっかー、柿沢はマナがー、なるほどなー」
「いやいや」
慌ててかぶりをふる柿沢だが、誰一人として聞いちゃいない。
そうこうしているうちに話題は、いわゆるそういった話へと流れ、サチの話題はすぐに忘れ去られていった。柿沢以外は。
翌日、柿沢は用があるわけでもないのにサチのクラスを見に行った。
その翌日も、翌日も。
会えるときもあったが、もちろん会えないこともあった。
けど見るたびには柿沢の胸の内にいようのない焦燥感にかられた。
彼女にもし、特別な相手ができたとしたら。その相手は確実に自分ではないことはわかる。
彼女は柿沢があれほど、必要もないのにクラスに現れることについてこれっぽっちも。小指の先ほども疑問に思ってないのだ。
「やー、びっくりだね」
がっくりと落ち込んでいる横で、楽し気に笑っているのは佐川だ。
すでに授業は終わり、教室に残っているのは柿沢の友人たちとあと数名ぐらい。
きゃあきゃあ騒いでいるクラスメイトを横目に、柿沢はただひたすらうなだれていた。
「……どうすりゃいいのか、さっぱりわかんねーよ」
「え? なに?」
佐川がにこにこと顔をのぞき込んでくる。
「レイジ、告白すんの?」
「は? しねーよ。つか、できねーよ」
柿沢はやけくそ気味に返す。
「したところでオッケーもらえる気が全然しない。つか、田口さん、オレのこと全然しらねーみたいだし。そんななのに、告るなんてアレだろ。玉砕しにいくみたいな感じ……」
「まあ、そうだね」
佐川は驚くでもなく、あっさりとうなずいた。
「でも、びっくりするよね。お前のこと本当に知らないみたいだもんなぁ。隣町でも、お前結構有名なのにな」
「……それは」
柿沢は唇をかむ。
実際、彼女の同級生という人間にも声をかけられたことは何度でもあった。それも中学の時だけではない。高校になってからもだ。
その時はただただ鬱陶しいだけだとおもっていた。誰かも知らないやつに、さまざまなことを知られることは幼いころよりただただ恐怖でしかなかった。
それなのに一番知ってほしい相手には、知られていないとは。
ため息をつき、柿沢は机の上に突っ伏した。
「で、どーすんの?」
「どうするって……」
佐川がふっと笑う。
「あきらめる?」
「は?」
柿沢ががばりと身を起こす。
「なんで」
「え? あきらめるんじゃないの? だって、そんな感じだし」
「いや、あきらめねーよ!」
というか、そもそもスタートラインにすら立っていない。
柿沢はその時、そのことにようやく気がついたのだった。
「そんなことが……」
付き合いだして二月ちょっと。すっかり放課後デートの定番にもなりつつあるショッピングモールのフードコート。衝立の脇の席で、サチは半分ほど減ったアイスティーを前にうつむく。
はらりと揺れる前髪の向こうでは、おそらく眉をハの字にして申し訳なさそうな顔をしていることだろう。
柿沢は想像して唇を緩める。
「なんでサチがしょんぼりしてんの?」
「だって……」
柿沢君のこと知らないなんて、本当に申し訳なくて。そういう彼女の言葉に、柿沢はふっと笑みを漏らした。
「申し訳ないって……、別に、サチはなにも」
「私、柿沢君みたいな人って、その時は、自分とは全然関係ない世界の人だとおもってたから、私、あんまり気にしてなかったというか……。あの! 友達以外はあんまり、よくわかってなかったっていうか……」
言葉を重ねれば重ねるほどドツボにはまっていくことに気が付いたのか。サチはしょぼんとうなだれたままごめんね、と重ねて告げる。
本気で申し訳ないといわれているようで、柿沢はがくりと肩を落とした。
それでもまあ、本当のことだし。そう心の中でつぶやく。
知らないならば知ってもらえばいい。
気持ちを自覚してから、柿沢はとにかくサチに自分のことを知ってもらおうと必死になった。あれは今、思い出しても笑ってしまうぐらいの必死さだった。
それと同時に、いかに自分が今まで周囲の態度に胡坐をかいていたか思い知らされた。
「……謝られると、逆にへこむんだけど」
「え!?」
サチがぱっと顔をあげる。予想通り、彼女の眉は綺麗にハの字になっていた。
「ごごご、ごめん……って、ああ!」
「また謝った」
「え! あ……」
サチは目を見開き、そして動揺するように左右へと動かす。
わずかに動いたせいだろう。はらりとこぼれた髪が、ほほにかかる。それを柿沢は、さも当たり前のように指を伸ばし払った。
それにも動揺したのかサチはぱっと目を見開く。そして次の瞬間、指先がかすめた頬がさあとまるで色を落としたかのように赤く染まった。
「か、柿沢君」
「まあ、確かに。あの時、サチはホントにオレのことなんて全然知らないみたいだし、興味もなさそうだったし、その上知らないから付き合えないって言われたときはそりゃあがっかりしたけど」
でも、と柿沢は続ける。
「サチはちゃんとオレと向き合ってくれた。そして好きになってくれたんだから、逆によかった」
「……柿沢君」
サチの顔に、まるで花がほころぶような笑みが広がった。
ふわりと広がるそれを見て、柿沢の心に小さくまた彼女への気持ちが積み重なっていく。
と、ふいに自分の手の上に何かが重なった。
ちらりと見ると小さな手。するりと視線をたどると、ひどく顔を赤くしたサチが目の前にいた。
重ねられた手に感じる確かなぬくもり。
柿沢は重ねられた彼女の手に、指を絡める。
「……大好きだ」
「わ……」
わたしも……。かすかに、ともすれば消えそうなほど小さな声だけど。
でも、確かに聞こえた彼女の言葉に、柿沢は満面の笑みを浮かべた。
柿沢にとって恋は、決して劇的なものではない。
小さなきっかけ、わずかな行動と、こうした小さな声。そして微笑みによって積み重なってできたものだ。柿沢にとってそうだったように、きっと。彼女の中にも同じだけのものが積み重なっているだろう。
彼はそう信じていた。




