嘘の行き着く先
ライネルが出してきたのは、飾り彫りの入った小さな木箱だった。
こんなものを兄はどこに隠していたのだろうか。掃除はリサの役割だったし、それはもちろん兄の部屋も含まれていた。入るな、と言われたことは一度もなかったと思う。洗濯物を棚にしまうのもリサがすることが多かった。ベッドの下の物を動かしたりしたこともある。
「これは……?」
たしか大事な、一世一代の勇気を持って告白した話の途中だったはずだけれど。話の腰を折られて肩透かしを食らったような気分で、リサは兄を見つめた。
釈然としない様子の妹に、ライネルが目を細めて口を開く。
「お前の宝石箱だよ。
15になったら渡すつもりで、母さんが用意してたんだ」
「……初めて聞いた」
小さな呟きを漏らしたリサの目が、木箱に釘づけになった。
病床の母から譲り受けたものは、他にたくさんある。たとえば母の愛用していた鉄の鍋だとか手鏡だとか。どれもこれも泣きながら貰ったものだ。
そこまで思い出した彼女は、ふと気がついた。母が亡くなった時、自分はまだ10歳かそこらの子どもだったはずだ、と。
妹がはっとしたように息を飲んだのを見て、ライネルは言った。
「母さんが亡くなった時、お前はまだ子どもで。
代わりに父さんが、って話してた時に父さんも病気で……」
そうだ。泣きながら母を看取って少ししたら、今度は父が病に倒れたのだ。
兄が話すのを聞きながら、リサは記憶の糸を手繰り寄せる。
「だから俺が、今まで預かってた」
「そうだったの……」
両親が思いを込めて温めていたであろう贈り物を指先で撫でながら、リサは頷いた。時を経て再び彼らに会えたようで嬉しい。……けれど、ひとつだけ腑に落ちないことがある。
「でも、どうして?
私が15になってずいぶん経つけど……もしかして忘れてたの?」
病から逃げるように村に移り住んだ。ふたりきりの生活は、慣れるまで本当に辛かった。だから日々に流されて忘れてしまっても仕方ないような気もする。
自分のために身を粉にしてくれた兄を責める気にはなれないけれど、理由くらいは聞いておこう。そんな気持ちでリサは小首を傾げた。
「それは……」
いよいよか。もう嘘はやめよう……そう思って木箱を出したのに、改まると口が重い。
ライネルは深く息を吐き出してから口を開いた。
「すまなかったと思ってる。全部、俺の我儘だ」
「我儘?」
もしかして宝石箱が欲しくなったのだろうか。でも兄が好きそうな物でもないし……。
謝られたところで、リサはただ聞き返すしかなかった。
「開けてみてくれ」
硬い声で言いながら、ライネルが木箱をリサに手渡す。
頷いたリサは見た目の割に重みのあるそれを、そっと開けてみることにした。そして中に入っていたものを見つめて、呟いた。
「ペンダントとハンカチ……」
どちらも長いこと手入れされていないせいか、古ぼけて見えた。コインペンダントのチェーンはところどころ変色しているし、ハンカチに至っては日に焼けたのか全体的に赤茶けている。
ハンカチを手に取ったリサは首を傾げた。よく見たら端に文字が刺繍してある。
「え、れ……エレナ?」
名前らしき文字を読んで、リサはわけが分からなくなってしまった。母が用意してくれた物のはずなのに、母の名前はエレナではない。それどころかエレナという名前に心当たりすらないのだ。
彼女は“すまない”と口にした兄に向って尋ねた。
「兄さん、エレナって?」
「分からない」
あっさりと首を振ったライネルに、リサが訝しげにくり返す。
「分からない?」
「ああ」
「……どういうこと?」
同じことを淡々とくり返されたリサが呟く。
目を伏せたライネルはそれには答えず、おもむろにペンダントに手を伸ばす。すると彼は先についているコインを裏返した。
リサの唇が「あっ」と形を作る。
「こっちは“リサ”の。
拾った父さんと俺には、どっちがどっちか分からなかったんだよ」
目を見開いて唖然としたリサに、ライネルは話し始めた。
「あの時、俺は15になったばかりだった。
父さんから狩りを教わった帰りに、人が倒れてるのを見つけたんだ。
荷馬車があって、その周りに3人。大人2人と子どもだった。
酷い有様だったよ……特に大人達は。駆けつけた時にはもう……」
そう言われて血の海を想像してしまったリサが、ふるふると首を振る。同時に、酷かったというその光景を実際に目にしてしまった兄のことが気の毒に思えてならなかった。
「母親と女の子の近くに投げ捨てられていたのが、このふたつだった。
馬車の荷物も荒らされてたから、売れない物だけ置いて行ったらしい。
……全部憶測だけど」
妹の目を見ることが出来ないまま話を続けていたライネルが、言葉を切る。
そこまで聞けば、もう十分だった。この話の行き着くところが分かった気がして、リサは手にしていたハンカチをきつく握りしめた。
「その時に助けたのが、お前なんだ。
お前の本当の両親は、あの時、野盗に襲われて亡くなったんだと思う。
その年は飢饉のせいで作物の値段が上がって治安が悪くて……。
だからお前の両親は、安全な場所で暮らそうと移動してたのかも知れない」
リサは、ライネルの言葉に相槌すら打てなかった。なんだか現実味のない話だし、とても信じられなくて。
やるせない気持ちでそんなことを考えていると、再びライネルが話し始めた。
「エレナが誰なのか分からないのは、お前が何も覚えてなかったからなんだ。
たぶん襲われたショックか何かで記憶を失くしてしまったんだと思う」
「え……?」
また新たに知らされた事実に動揺したリサが、声を漏らす。するとライネルは彼女の手を握って言った。そうでもしないと、消えてしまうような気がして。
「何も覚えてなかったんだ。自分の名前も年も、親戚がいるのかどうかも。
それで母さんが、遺された物から名前をとったんだ。年は適当に。
……本当は父さんと母さんが、この話をするつもりだった。でも……」
「ふたりとも、私が15になる前に病気で逝っちゃったものね……。
そっか……そうだったんだ……」
リサは静かにハンカチを宝石箱に戻すと、そっと息を吐いた。今にも泣きだしそうに、顔が歪んでいく。
両親の最後を思い出して泣きたくなるのは、黙っていたことを責めたいからなのだろうか。それとも、それまで慈愛で包んで育ててくれたことへの感謝を伝えられなかったから、だろうか。
「――――黙っててごめん。
でも、どうしても話せなかった……」
「ううん、もういいの。
記憶がなくなる前の両親のことは、あんまり実感もないし……」
ひとしきり泣いたリサは、腫らした瞼を擦りつつ首を振る。
「ちゃんと教えてもらったから、明日からは4人分のお祈りが出来るわ。
今の私に出来ることは、それくらいしかないけど」
少し寂しそうな笑顔を浮かべたリサを、ライネルは思わず引き寄せた。罪悪感と一緒に、安堵の気持ちがこみ上げる。
「兄さん?」
腕の中から聴こえるくぐもった声がくすぐったくて、ライネルは頬を緩めた。ずっと守ってきたものが手から離れていかなかったことが、奇跡のように思える。
「それで、話の続きなんだけど」
「続き?
私が父さんと母さんの子じゃなかった、って話に続きがあるの?」
「あるさ。言い出したのはリサの方だろ。
俺がずっと血の滲む思いで耐えてきたってのに」
楽しげに囁いたライネルの言葉に、リサが息を飲んだ。腕の中から抜け出そうともがきながら、必死に口を開く。
「……やだ! ごめんなさい。
でもどうしよう、兄さんに酷いことした覚えが全然ないわ……。
私、何か忘れてることでもある?」
混乱して目を泳がせるリサを見て、ライネルは胸の中で溜息をついた。
そうだった。この子は小さい時からずっと、ふたつのことを同時進行させるのが苦手なのだった。深刻な打ち明け話を受け止めたばかりなのに大事な話をしたら、困ったことになるかも知れない。
けれどそんな悩ましい気持ちを溜息に込めて吐き出した彼は、すぐに思い直した。結局、リサに望むことはただひとつなのだ。
ライネルは腕を緩めると、リサの目を見つめて囁いた。
「じゃあ思い出そうか。
俺とリサは、血の繋がらない他人同士だ。
……さっきリサは“他の誰とも結婚は無理”だって言ったな」
そのあたりまで聞いて思い出したのか、リサの顔が赤く染まっていく。
するとライネルは、そんな彼女の変化に笑いをかみ殺して言葉を続けた。嬉しさが上回っているからなのか、自分が言葉にする恥ずかしさになど見向きもせずに。
「“大好き”だとも言ったよな。
そのあと俺がリサがうちに来た時のことや、宝石箱の話をした。
そこでようやく、最初の話の続きに戻るんだけど……」
顔を赤くしたままのリサが、小さく頷いた。なるほど、どうりで“言い出したのはリサの方”なわけだ。
すると一度言葉を切ったライネルの口から、吐息が漏れた。
「これでやっと、お前に愛してるって言える」
生まれて初めて見る表情に、リサの胸がぎゅっと締め付けられる。彼が兄から、兄だと思っていた男の人に変わったせいかも知れない。
ライネルは、混乱と歓喜が混じってうまく言葉に出来ずにいるリサの額に唇を落とした。
男は、真夏の太陽がじりじりと照りつける道を歩いていた。時折暖かい風が吹いては、砂埃を巻き上げる。舗装された道を歩きなれている彼にとっては、この道程は易くはない。それでもこの道を通っているのは、商売に必要な肉を分けてもらうためだ。“アルマの店の煮込みは絶品だ”と新聞にも取り上げられるくらいだから、取引を止めるわけにはいかない。
「あっつー……行き倒れるー……」
町の外れ、丘の上。吹き抜ける風に麻のシーツが泳いでいるのが見える。男は今日もまだ無事に辿り着けたことに安堵しながら、もう一息だと気合いを入れたのだった。
「アルマは元気?
ふたりのお店、新聞に載ってたね!」
ミントの葉を入れた水を出して、女性が尋ねる。
毎回、開口一番はこれだ。何度目になるか分からない訪問でもこれだから、きっと自分を心配してくれる日は来ないものと思える。
ユキは本当に友達なのか疑いつつもミント水を飲み込んだ。
「リサ、指輪買ってもらったんだ?
ライネルさんも同じのしてんの?」
「……う、うん。まあね」
目敏く見つけると、リサが照れ笑いを浮かべて挙動不審になる。悪いことをしているわけでもないのに、指輪をした手を背に隠したりして。
「よかったじゃん。これで本当の家族だな」
「うん。
ユキは、アルマと仲良くしてる?」
「……仲良くっていうか。
たぶんあの人、俺のこと下僕か何かと間違えてるんじゃないかな」
幸せそうに頷いたリサにわざとらしく肩を竦めると、ユキは「そうだ」と呟く。今日は肉の仕入れの他にも、用件があったのだった。
「アルマさんがさ、せっかくだからお祝いの食事会でもしようって。
まあ、同じ町に引っ越して押しかけた俺らが言うのもアレだけど」
「ううん、嬉しい。アルマの作る料理も久しぶりに食べたかったの」
そんなことを話していると、玄関の方から物音が聴こえてきた。
刹那、リサの顔がぱっと輝く。ユキが目の前で苦笑していることになど気づかずに、彼女は音を立てて椅子から立ち上がった。そして玄関に駆け寄ると、勢いよくドアを開ける。
「――――ただいま」
「おかえりなさい、ライネルさん!」
きっと飛びついてくると予想していたライネルは柔らかい笑みを浮かべ、両手を広げた妻を抱き留める。その左手の薬指には、ふたりで迷いに迷って決めた結婚指輪が光っていた。
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亀の歩みのようなマイペースさで更新してきましたが最後まで書きあげられて、ほっとしています。
完結までお付き合い下さいまして、ありがとうございました。感謝の気持ちでいっぱいです。
マリーゴールド




