第六十六話 幻想の鎖
何かが吼えるような大きな音が、俺の頭上で轟いた。
飛行機のエンジン音にも似たその爆音に何となく空を見上げる。
涙で霞んだ視界の奥で、街を覆っていた巨大な結界が崩れ去っていく。
魔術術式の構築下を離れ、魔力の粒となった結界の欠片が光を放って街中に降り注いだ。
たとえるなら雪。ゆらゆらと落下するそれらを眺めながら、俺は震える声で小さくため息を零す。
「終わったの…か……」
もしそうだとするなら、呆気ない終焉だ。あの結界のせいで自分がどれだけ苦労な思いをさせられたか、考え出すと気が滅入る。
そもそもあの結界さえ無ければ、俺は今頃こんなところにはいなかったはずだ。仮にあの傭兵どもに襲われたとしても、魔術で振り切る手段もあった。今よりずっと少ない犠牲で逃げ切ることができただろう。俺も……それから――
「…………」
それから俺は、自分の腕に抱かれた小柄な少女を見下ろした。
きっとそれほど体重はないはずなのに、まったく力が入っていない彼女の身体は、デュルパンの王城で持ち上げた時よりずっと重く感じた。
崩れた結界の隙間から、眩い日の光が差し込んで俺たちを照らした。
彼女の青白い顔も光に当てられ、しかしその閉じられた瞼が眩しさに震えることはない。
当然だ。彼女はもうこの世の人ではない。少女の心臓はもう、動きを止めているのだから。
「セレス……」
俺は少女の名を呼ぶ。
それで返答が帰ってくるわけでもなく、けれどそうあって欲しいと心から願う、俺の無意味な期待を乗せて。
その時、後ろから何者かに肩を掴まれた。
突然のことだったので、すぐに対応するのは困難だった。腕に抱いたセレスを放り出すわけにもいかず、俺は首だけを捻って接触してきた相手を見る。
「……ロベリア」
「無事だったのだな、キリヤ……」
俺を見下ろす銀髪の女騎士は、そう静かに言葉を返して口を閉ざした。
彼女の視線が、俺の手に抱かれたセレスに移る。
「その少女が、君の……」
「……ああ。探していた“友達”だ……」
「……そうか」
ロベリアの表情が一瞬悲痛なものに変わって、それからすぐにまた無表情に戻った。
このロベリアも偽者なのでは? 一瞬そう思った俺は、しかし彼女の纏う独特な雰囲気を肌で察し、すぐにその疑念を打ち消した。
間違いない、このロベリアは本物だろう。でなければ、セレスを抱いて無防備を晒している俺の背中に剣を突き出さず、こうして言葉を投げかけているのだから。
「……すまない。勝手に突っ走ってしまって」
佇むロベリアから視線を外し、俺は再びセレスの青白くなった顔を見下ろす。
「セレスの助けを呼ぶ声が聞こえたんだ……。とても苦しそうで、考えたら居てもたってもいられなくなって……気付いたら、先に向かって走り出していた…」
思えばそれこそ敵の罠だったのか、あるいはただの幻聴だったのかもしれない。けれど、それを冷静に受け止めることも出来なかった。
一度見捨てて逃げ出した後悔の念と、セレスを救い出したい一心の気持ちが俺を先へ急げと逸らせていた。
結局、その先走りが実を成すことはなかったが――。
セレスを抱える俺の向い側にロベリアが片膝を突く。
その表情は前髪に隠れて窺い知れなかったが、セレスの顔に視線が注がれているのは間違いなかった。しばらくそのまま力尽きた魔道士の少女を見つめ、それからゆっくり頭を上げて俺に視線を合わせる。
「……彼女の事は残念だった。見たところ、息絶えてからかなり時間が経っているようだ……我々がもっと早くに駆けつけていたとしても、間に合っていたかどうか……」
「…………」
「彼女の死は君のせいじゃない。良いか、気をしっかり持てキリヤ。私達にはまだやるべきことがある。このまま“奴ら”の陰謀が現実化すれば、もっと多くの者が犠牲になってしまうだろう。それだけは何としても避けねばならない。そのためには、キリヤ――」
途端に身体が揺すられた。
見ると、俺の両肩を掴んだロベリアが真剣な表情でこちらを覗き込んでいる。
「君の力が必要なのだ」
「俺は……」
行けない、という言葉は出てこなかった。
これ以上情けない自分を晒ける事に嫌気が差して寸前に思いとどまったのか、それともセレスの死という絶望に打ちひしがれるせいで言葉にならなかったのか。
何にせよ、俺のその無言が肯定であると彼女が認識するとは思えなかったのは確かである。
気まずい沈黙に耐えかねて、俺は結局一言だけ言葉にして相手に伝える。
「先に行っててくれ……」
「……キリヤ」
ロベリアの表情がみるみるうちに失望へと変わっていく。
俺は顔を逸らしてその視線を受け流した。
幻滅してくれて構わない。怒ろうが嫌われようが、俺にはもう誰かのために何かを成す意志も気力も何も無い。これ以上、命を呈して戦う理由なんて無かった。
ヴウウウウウウウウウウウウウウウウン!!!
ゴーレムが駆動する激しい音がすぐ傍で轟いた。
どうやらすぐ地上ぎりぎりの上空をストーンゴーレムが飛び退っていったようだ。幸いこちらには気付いていないようだが、この街から結界が無くなった今、連中が外へ飛び出して他の街を襲い始めるのも時間の問題かもしれない。
「……私は信じているぞ」
ロベリアも時間が無いことを察したのか、その場で立ち上がると俯く俺の頭に語りかけた。
その口調に咎めも非難も感じられず、罵倒されるのを覚悟していた俺は思わず銀髪の女騎士を仰ぐ。
彼女はもう一度今の言葉を、俺の仮面に覆われた顔を見下ろしてはっきりと口にした。
「君が必ず後から追いついてくれると私は信じている。あの時誓った共闘の約束が、単なる建前だったなんて思っていないからな」
「…………」
「では、先に行っている」
去り際、また会おうと言ってロベリアは本城へ続く扉へと駆け出していく。
その姿はみるみるうちに遠くへ行って見えなくなり、やがて俺の視界から消えていなくなった。
――俺は……、……。
生気のないセレスの顔を見下ろし、考える気力も残っていない頭で思考を巡らせる。
俺に出来る事。今の俺に必要な事。それはなんだ…?
『元いた世界に帰ること……そうだよな?』
「……ッ!?」
いつの間にか、目の前に“俺”が立っていた。
見慣れた黒い学校の制服を纏い、黒髪で、若干猫背の頼りない男の幻影がズボンのポケットに手を突っ込んでへらへらと俺を見下ろしている。
どこから見ても、間違えようが無いもう一人の神埼桐也。ただ一つ違うところを挙げるとすれば、それはそいつにだけ顔を隠す仮面が装着されていないことだろう。
『大切なお友達は死んだ。ここにはもうお前が守れるものは何一つ残っていない。自分のせいで死んでいった連中を償うなんて途方も無くて面倒くさい。もう何も良いことなんてねぇんだよ……わかってんだろ、俺』
そいつは膝を曲げてその場で屈むと、相変わらず気の抜けた表情でセレスの髪に手を伸ばした。
「…ッ……触るな!」
かっとなって俺は手を振り払う。
それは確かにそいつの手を弾いたが、その痛みは何故か俺にだけ伝わっているようだった。
へらへらした“俺”は続ける。
『もうこの世界だって長くないのさ。滅びの一途を辿る世界に命を賭けるのか、馬鹿馬鹿しい。使命だか何だか知らねぇが、それに巻き込んでくれた時の賢者ってのは本当に最低で迷惑な奴だよな? 俺は元の世界に帰りたくて帰りたくてたまらねぇってのによ』
「黙れ……!」
『嫌だね。これが“俺”の答えだ。俺がずっと思ってきた本当の気持ちなんだよ』
「違う…!」
顔を近づけた“俺”が凍り付くような笑みを見せる。
『違わない。お前は“俺”。俺は“お前”。性格も思考も体格もクセも何もかも、何一つ一寸違わず俺だ。お前はただそんな汚い“俺”の内面を心の奥底に封じ込めているだけに過ぎない。表に出すのが怖いから、“俺”を俺と認めるのが怖いから、ずーっと隠して人を騙していたんだよ』
バリバリバリと、何かを裂くような音が頭上で響いた。
自分の脳内に衝撃でも走ったのかと思えば、そうじゃない。
実際空を見上げて見てみると、結界が解けて露になった青空に斜めに刻まれた亀裂が目に入った。天井に穴が空くのならともかく、空に亀裂が走るというのは有り得ない。
『ほら見ろ、始まった』
邪悪な笑みを浮かべて、“俺”は俺に語り始める。
『お前もわかってるんだろ? ここに居たら死ぬぞ、間違いなく。お前はそれでいいのか? いいわけないよな。命が惜しい。死にたくない……そういう恐怖の感情がお前を通して“俺”に流れかけてきてるのがありありとわかるぞ?』
「…………」
出てくるな。
俺は必死に自分の中に呼びかけた。
本当ならそこに存在しない自分に向かって、戻れと心の中で念じる。
しかしそいつは引っ込むどころか、さらに身を乗り出して俺に忠告を繰り返した。
『お前の本心を否定してんじゃねぇよ。いいか? “俺”はお前のためを思って言ってやってるんだ。このままじゃ時機にあの化け物が街を飲み込むぞ。いくら古代魔道士の力を持ってしても、魔法が効かないあいつに太刀打ちできるわけがない。いや、仮に効いたとしても生き残れるかどうか怪しいもんさ』
重なる俺と“俺”。俺の中に戻ったもう一人の自分が、とどめだとばかりに言い放つ。
『お前は殺されるんだよ。セレスが命を賭して願った希望も何もかも裏切ってな』
「……ッ!!」
ガリッ!
口の中に鉄の味が広がった。
頭に血が昇って視界がぐるぐると回り始める。俺は大声を上げて地面を拳で叩きつけた。
「黙れ」と、今度は声に出して命令する。
否、それは自分自身に対する自制だった。ここで収めなければ、俺はまた感情をコントロールできずに恐怖に染まって狂ってしまう。それだけは何が何でも避けたい。
震える息で深呼吸を繰り返して新鮮な空気を取り入れ、俺は空を見上げた。
結界のない晴れ渡る空。その中心部を斜めに切り裂くように空いた空間の亀裂。そこから覗く暗黒が、遥か地表の俺を一点に見下ろして嘲笑を浮かべているように思える。
「今の俺に何ができる?」
俺はもう一度、迷ったままの自分自身に問いかけた。
信じていると言い残して先に行ったロベリアを追うのか。それとも街に放たれたゴーレムを一体残らず破壊するのか。セレスの亡骸を抱えてこの街から脱するか。逃げ遅れた市民たちの救出活動だってある。 前途多難。どの選択肢を選んでも、俺にとってその道が過酷以外の何物でもないことは明々白々。
無事に事が済む可能性が限りなく低い。下手をすれば死ぬ。仮に生き残ったとしても、大切な友を失った俺に待ち受けているものは悔恨と絶望の傷跡だけだ。ならばせめて、俺の生存を最後まで望んでいたセレスのために、自身の命を優先して逃げるべきではないのか。
薄情者の謗りを受けても構わない。たとえ身勝手な考えだとしても、命が惜しくてたまらないと思う自分がいるのも確かなのだ。
――今ならまだ間に合う。結界が解かれた今なら、魔術で瞬間移動を繰り返してすぐさま街を離れれば……。
ゴーレムの力が及ばない遠い辺境へ逃げればいい。そこに落ち着いて、ぼちぼち元いた世界へ帰る手段も一つの手だ。
俺は空の亀裂を見上げた。
果てしない虚空だけが続く漆黒の割れ目を見つめていると、魂までもが吸い込まれていくような錯覚すら覚える。
それはそのまま俺の心の弱さを証明しているようであって、情けなさのうちに自嘲の笑みを浮かべてしまった。
『使命を……』
気づけば、隣に黒のドレスを纏った銀髪の少女が立っていた。
相変わらず表情の変化の乏しい人形のような丸い顔をこちらに向けて、時の賢者は俺の震える腕に軽く触れる。
『使命を果たして。貴方の命は、私が守るから…』
大地を震わさんばかりの轟音が、鳴り響いた。
地震か? いや違う。それは地上からもっとも離れた空で起こった現象が原因だった。
「手が……」
割れた空の亀裂から、巨大な黒い手が地鳴りを起こす勢いで伸びてきたのである。
かなり高い場所のはずなのに、遥か下界の地表から見上げても凄く大きな手だと判別できる。
『巨神が蘇る…』
同じく、空の裂け目を割って出てくる大きな手を見上げていた銀髪少女が、ポツリとそんな言葉を口にした。
「巨神…?」
『……巨人族を創生せし古の神の子。人間が生まれる遥か昔、この大陸にまだ名前が無かった時代。この世界の支配者として君臨していた神の隷属。それが巨神、またの名をティタノ・ヨトゥン。エリュマンが魔道の創始者なら、巨神は巨人の創造者。エリュマンが虚無の世界に封印して以来、何万年もの間この世界に具現した事がなかった……』
しかし、その封は今破られた。
他ならぬ、この世界を壊そうとする悪しき者の手によって。
「勝てるのか……そんな奴に」
『無理。少なくとも今の貴方には』
“少女”は首を振った。
それから俺に視線を移して、ガラスのように透き通った目で見つめる。
『倒す必要は無い。もう一度“虚無の世界”に封印する。完全に封印が解かれていない今なら、まだ間に合う。キリヤ、貴方が巨神を封じ込めるの』
「どうして俺が……。君の方がずっと強いじゃないか。この世界を生み出した神様なんだろう? あいつも何とかできるんじゃないのか」
『私は神様じゃない。時を巡る賢者……この世界の人々に知識と手段を与え、世界の均衡を保つのが役目。だから、この世界の事情に直接干渉することはできない。今の私に出来ることは、こうして古代魔道士を通じて世の乱れに間接的に介入すること。そして今ここで巨神に対応できるのは……キリヤ。あなたしかいない』
“少女”の、俺の腕を掴む手に力がこもった。
声色は淡白でも、その内容は自分しか頼れる人間がいないのだと、遠まわしに訴えかけているようにも捉えられる。
そう思うと、途端に時の賢者を名乗るこの少女が、幼く、か弱い単なる子供のように感じられた。
そんな少女を見下ろして、俺は思う。
自分だけが世界を救える唯一の存在なんて……考え出したらプレッシャーの重さに押しつぶされてしまいそうだ。そしてそれは今に始まった事じゃない。この世界に足を踏み入れてからというもの、ずっと俺の中で燻っていた悩ましき心の病だ。
俺の放棄で大勢の人が死ぬかもしれない。世界が滅ぶかもしれない。そしてそれは、俺が望む世界の在り方ではない。
命を賭けた戦いなんて誰だって嫌だろう。しかし誰かが戦わなければ、さらに多くの人の命が危険にさらされる。
死の危険に晒されているとわかっていても、それを覚悟の上で戦場に身を投げる人たちがいる。セレスもまた、そのうちの一人だった…。
俺はゆっくりと両手を上に構えた。
魔力の奔流によって風が起こり、黒いローブが激しくはためく。
戦いは嫌だ。正直今も、絶望に押し潰される気分で何もやる気が沸いてこない。
けれど俺しかやれる者がいないなら、仕方が無い。結局俺は、どの世界に身を置いても人に振り回される事でしか生きていけないのか。
『使命を果たして……貴方は、私の使徒…』
はためく風はやがて魔力の光となって両手に収束する。
それは常人には決して発現することのできない、選ばれた者だけが行使し得る超越した力の具現だ。
『古代魔道士、キリヤ・カンザキ。我が命に従い、かの巨神を虚無へ返しなさい』
――《幻想の鎖、グレイプニル》
迸る魔力の光が一際眩い光線を放って周囲を明るく照らし出した。
太陽の日差しにも負けじ劣らぬその光明は、次の瞬間に巨大な白い鎖となって空の裂け目の“腕”に勢いよく放たれる。
幾重にも分離して数を増やしながら、魔力の鎖は我先に巨神の腕を拘束せんと競い合うかのように上空へ殺到した。
その巨木よりも太い手首に絡みついた鎖は、やがてゆっくりとだが、裂け目から伸びてくる巨神の腕の動きを完全に止めた。
しかしそれは刹那の静止。いくら古代魔道士の魔力によって生み出された鎖でも、神の名を冠するその巨腕の持ち主相手に力で捻じ伏せる事など到底叶わぬ事だった。
「ぐっ……!」
鎖を引き千切ろうと巨神の腕が僅かに引かれると、それだけの反発で俺の身体は繋がった鎖ごと数メートル奥に引っ張られた。
「う、嘘だろ……ッ!」
何とか踏ん張って体勢を持ち直す。が、このままでは巨神を封印するどころか、この押し引きの力関係を維持させることすら不可能に近い。
魔力の鎖は頑丈だ。恐らくあの巨神でさえ、これを簡単に破る事はできないだろう。だがそれ以前に、俺が鎖を繋ぎとめておかなければ何も意味がない。
――やっぱり、無理なんじゃ…。
早くも、俺の頭の中に「絶望」の二文字がちらつく。
さすがにこれは、勝てる気がしない。正直俺には手に余り過ぎる相手だ。
『貴方は……一体何度絶望すれば気が済むの…?』
不意に、背中に温かいものが触れた。
肩越しに振り返ると、両手を俺の背に掲げた銀髪少女がこちらを無感動な瞳で見上げている。
「だ、誰のせいだと思ってる……!」
『貴方に私の魔力を注いで、身体能力を一時的に上昇させた。今の貴方は、常人の百万倍の力を自在に操る事ができる』
「ひゃく…!? なんだって!?」
『…………』
二度も言う必要があるのかと言いたげに、時の賢者は黙って小さく首を傾げる。
何故そんな事をしたのか、今更問答するまでもないだろう。要するに、その百万倍の力を使ってでもこの巨神の完全復活を止めろというのだ。
表情にこそ出さないが、彼女もそれなりに必死なのだろう。
でなければ、これまでの俺のピンチを傍観していたこの少女が、今になって突然手を貸すというのも、考えてみればおかしな話だ。
銀髪少女もとい、時の賢者の言い分は『俺を死なせないため』のようだが、その理由の背後に世界の命運も含まれていることは、察しの悪い俺でも重々理解できた。
「……俺にしか出来ない事なんだよな?」
『…………』
「俺がいなかったら、この世界は……」
『世界は無くならない。けれど、この大陸に生きる多くの命が脅かされる。それを未然に防げるのは、今のところ貴方だけ…』
「今のところ」という前提に、幾分か俺の重要性が欠かれた気がしたが、唯一の希望として追い込まれる心配が無くなったことについては少しばかり肩の荷が下りた気持ちだった。
とはいえ、それを踏まえた上でも現状俺の行動が大勢の人の生命の存亡を握っているというのは変わりあるまい。
ここで俺が投げ出せば……あるいは封印に失敗すればかつてない災厄がこの大陸に降りかかることだろう。失敗はつまり、そのまま俺の命の終わりを示している。
いわばこれは……俺の存亡も賭けた戦いだ。
俺は軋む光の鎖に魔力を流し込むと、さらに力を込めてそれを引っ張った。
筋力が百万倍になったという彼女の説明は本当なのだろう、確かな手ごたえの直後、巨神の腕は不可解な引力に従って空の裂け目に引っ込み始めた。
「よし、いいぞ。このまま――」
ブォォォオオオオオオオオオオン!!!!
しかし、巨神の方も黙ってその呪縛を甘んじて受け入れているわけではない。
漆黒が広がる虚無の世界の向こうから地鳴りの怒号を轟かせると、腕を激しく動かして鎖の拘束を振りほどこうと抗った。
「なっ……!?」
俺は驚愕した。
こちらが百万倍なら向こうは二百万倍か。こちらとて全力で挑んでいるというのに、かくも巨神はさらなる剛力で抵抗して俺の体を弄ぶ。
このまま力押しで負ければ、俺は繋がった鎖に振り回されるがまま天高く投げ出されるのではないか。そんな恐怖すら想像し、しかしここで手を離すわけにもいかず必死に鎖に魔力を注ぎ込む。
「まだだ……このっ…!」
再び巨神の声が轟いた。
否、先ほどより迫力はない。それは奴の怒号ではなかった。
巨神の遥か下方を低空する数体のゴーレムが、編隊を組みつつ真っ直ぐにこちらへ急行してきたのである。今の声は、ゴーレムの発する特殊な駆動音だった。
「お、おいまずいぞ……なんかくるぞおい!」
焦った俺は思わず後方を振り返る。巨神相手に手一杯の今の俺には、ゴーレムに対抗する手段を有していない。この無防備な状態でゴーレムの攻撃を浴びれば一たまりもないだろう。
だからこそ、この危機的状況を打開する案を時の賢者に聞こうとしたというのに、後ろを振り返った俺の視界には既に、ドレスを纏った少女の姿は確認できなかった。
まさか危険を察して自分だけ先に逃げたのか。最悪の想定が頭を過ぎる。
その刹那――、
「うおおおおおおおおおおお」
勇ましい雄たけびを上げ、上空から降ってくる一つの人影の姿があった。
丁度ゴーレムが俺に攻撃の照準を合わせた瞬間である。突如乱入した人影はそのままゴーレムの背中に着地し、両手に握った長剣で石の頚部を両断した。
制御を失ったゴーレムが、駆動音をぴたりと止めて重力に従うまま地面に落下する。
「無事か、キリヤ!」
落下の衝撃で石像が粉々に粉砕されるよりも先に、俺の隣に着地したその人影は真剣な面持ちで俺に訊ねた。
「ロベリア!? どうして…」
人影の正体は、先に王城内へ向かったはずの女騎士ロベリア。
彼女は俺の質問返しには答えず、再びその場から飛び上がった。
今度は俺の後方……死角から現れたもう一体のゴーレムに直進し、再び魔剣を振るってその頭部を粉砕する。
「その様子なら無事のようだな。見たところ、どうやら手が離せない状態であるようだから、今はまだ君を殴るのを先延ばしにしてやろう!」
二体目の石像兵器を沈黙させてもう一度俺の隣に立ったロベリアは、先ほどの真剣な表情から一変、肩を震わせるほどの怒りの形相に満ちていた。
そこに殺気こそ感じなかったが、怒られることに慣れていない俺を怯ませるには十分過ぎる威圧であるのは違いない。
「なんでそんなに怒って……いや、そもそも何故戻ってきたんだ?」
先に行ってくれと告げた俺の言葉に従って、彼女は一足先に敵の根城に向かったはずである。
それが今になって戻ってきて、俺の窮地を救った挙句、かと思えば一方的な怒りをぶつけてきているではないか。
怒られる原因に心当たりが無い俺には、まるで理解し難い状況だった。
「……まだ白を切るつもりか、君は! まったく……見事に騙されたよ」
三体目のゴーレムを地に返した後、顔を顰めたロベリアが頭を抱えてやれやれと首を振った。
その視線は既に次の標的に向いていたが、表情から滲み出る苛立ちまでも隠せていない。
「君は最初から、こうなる事を予期していたのだろう!? 私を巻き込まないためか、あるいはその力の片鱗を知られたくなかったのか……まさか一人で格好を付けるために私を先に行かせたわけではあるまい? なんにせよ! 君の言を信じ、素直に従って先行した私の行動は全て無駄になったわけだ。あの“巨体な怪物”を自分一人でどうにかしようとした君を、私は最大限の侮蔑と誇りを持って讃えよう!」
「…………」
俺はぐうの音も出なかった。
彼女の迫力に押されて……いや、それ以前に、彼女が戻ってきた理由と怒ってる原因を知って、二の次が告げれなくなってしまった。
ロベリアは大いなる誤解をしていた。
俺は本当にあの時、絶望してなにもする気が起きなかったのだ。それは紛れもない事実であり、彼女が土壇場で駆けつけてくれなければ、間違いなくこの場を逃げ出していただろう。
あの巨神とかいう化け物と対決する気になったのも、時の賢者が俺にそう“命令”したから。
使命というしがらみに捕らわれた……“古代魔道士”による渋々ながらの選択だった。
「ロベリア。俺は……」
「君が無事で本当に良かった」
銀髪の女騎士は、俺の顔を見てもう一度その言葉を伝えた。
俺はまたも押し黙る。
異変を察して、全力でここまで走って戻ってきたのだろう。肩で息をするロベリアは本当に苦しそうであった。
しかしそんな状態のロベリアにも、苦しみに歪む表情には喜びの色も見て取れた。
俺の見間違いというわけではあるまい。確かに彼女は俺の隣で、俺の顔を見て、安堵の笑顔を浮かべていたのだから。
「私は君を救えたのだな?」
「あ、ああ……」
「私の刃は、君を助ける事ができたのだな?」
「……ああ」
「……それを聞けて安心した。……うむ、大いに結構!」
ロベリアは再び脚をバネにして飛び上がると、空中で後方回転飛びを決めて城壁の尖塔に着地した。
大きなゴーレムの影が俺たちに覆い被さったのはその時だ。
牛頭のウッドゴーレムが俺たちを発見するのも束の間、尖塔を蹴ってその背中に飛び乗ったロベリアが、木製の牛頭に魔剣を突き入れて粉砕する。
やはり弱点は頭にあるのか、飛行能力を失った首無しのゴーレムは重力に従うまま地面に墜落した。
勝者の威厳を知らしめるかのように、ただのガラクタと化したゴーレムの背に悠然と立つ女騎士。
彼女はマントをはためかせながら、顔だけ振り返って俺を見下ろした。
「ここからは共同戦線だ、キリヤ。たとえ君が嫌だと首を横に振っても、私は君を守るために戦うぞ。いま私が決めた。反論は許さん」
巨神を拘束する鎖の重さが、少しだけ軽くなった気がした。
それはきっと俺の思い過ごしなんだろうが、いやしかし、気のせいだったとしても、彼女のその言葉は俺に確かな勇気をくれた。
だから、ここで減らず口を叩いてしまったのも仕方の無いことかもしれない。
「俺に意思の自由はないのか?」
「仮にあったとしても、どうせ君は自分で選ぼうとしないのだろう。ならばその自由、しばらく私のために捧げよ。ん、なに。悪いようにはしないさ。少し世界を救うためだよ」
上空からは、異変を察知したゴーレムが数々と押し寄せてるのが見て取れた。
無双のロベリアといえど、あれほどの数を一人で捌き切れるかわかったものではない。が、不思議と俺は、この危機的状況を単なる絶望と捉えることはしなかった。
鎖を握る手に力を込める。
すると巨神はさらなる怒号を上げ、抵抗せんと激しく腕を揺らす。
当然、俺の身体はずるずると引っ張られる。さっきと同じ押し引きの繰り返し。だが今度は、俺も負けずと引っ張り返した。
「世界を救うとは……簡単に言えることじゃない……!」
「なに。私と君でならそう難しい事ではないだろう? もし伝説化されたならこういうタイトルでどうだ? 『帝国皇女と王国王子の共闘』とね…」
ブオォオオオオオオオオオオオオオオン!!!!
死闘の間違いだろう。
そういう野暮な突っ込みするのはさすがの俺も控えた。
既に戦いの幕は開かれている。英雄になる予定の、しかも正真正銘の皇女様の機嫌を損ねるのは得策ではない。
だがあえて、その英雄譚に名前をつけるとしたら、俺はこうする。
『帝国皇女と偽王子の共闘』と。
お待たせしました。
約半年ぶりの更新となります。
遅くなって申し訳ありません。




