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異界の古代魔道士  作者: 焔場秀
第二章 東国動乱
47/73

第四十二話 追憶

 見間違うはずがない。

 その狭苦しいまでに凝縮されたプライベート空間は、紛れもなく俺の部屋だった。

 俺は今、“俺の部屋”にいた。

 とても勉強がはかどりそうにない、雑誌や教科書が積み重ねられた窮屈な勉強机。乱雑に本や辞書やらが押し込まれた本棚。出しっぱなしのまま放置されたゲーム機――――


 全て、俺が最後に家を出たあの日から、何一つ変わっていない。

 

《……リっち!? ――――ですっ! ここは……ません! あなたの記憶をっ――――》


 ジリ……ジリ……。

 駄目だピロ。ノイズが酷くて何を言っているのかわからない。

 いや、そもそもこの世界にお前は相応しくない。ここは“フィステリア”じゃないんだ、俺の日常にまで“非日常”を持ち込むな……。   

 そういえば、視界も暗いままだ。白黒テレビの画面のような灰色……今は夜なのだろうか。それにしては、世界に色がないように見える。

 一通り部屋を見回して、俺は足を一歩前に踏み出した。大丈夫、ちゃんと歩ける。

 そのまま部屋の扉の前に立って、俺はドアノブを握った。壊れないように、ゆっくりと、慎重に捻る。

「…………」

《――――体化している!? いや、…………の欠片。となると今のキリ――――》 

 ジリ……ジリ……。

 扉は開いた。

 また、世界が広がる。色のない、白黒の世界……。

 自室を出て、扉を閉める。

 俺から見て左手、廊下の突き当たりに押入れ。右手には、一階のリビングに続く階段。

 迷いの隙もない。俺は躊躇なく階段の方へ向かった。

 途中、妹の部屋の前を通り過ぎる。あいつは部屋にいるのだろうか……。生憎と時間がわからないから、誰がどこで何をしているのかも定かじゃない。でも今が夜間なら、妹は部屋に篭ってるか、それとも風呂に入ってるかのどちらかなのだろう。まあ俺には、どうせ関係のないことだが。

 ふらつくような足取りで、俺は階段を下りる。下手をすれば踏み外してしまいそうな……そんな傍から見たら危なっかしい歩みで、俺は馴染み深い階段を一段ずつ下りていく。

 やがて片足がリビングのフローリングを踏みつけた。

 もういいだろう。俺は頭を上げて、部屋を見渡した。

『あら、おはよう桐也。珍しいわね、こんな時間に起きてくるなんて……遅くまでお勉強?』

 からかうような視線を俺に向けて、テーブルの食器を片付けるお袋。彼女の隣には、椅子に座り、厳つい顔で飯を食う親父がいる。

 そしてその向いの席では――――

『まさか。兄貴が勉強なんて真面目な事するわけないじゃん。どうせ夜遅くまでゲームでもしてたんでしょ? ホント……いつまで経っても根暗なんだから』

 俺に視線の一つも寄越さず、容赦ない言葉を叩きつける妹が、両手に掴んだマグカップを傾けていた。

食後の一息のようだが……中身はホットココアか。妹は朝食の後に、いつもそれを飲んでいる。

 ……待て。じゃあ今は、夜じゃなく早朝?

『――――、兄さんにそんな口の利き方をするものじゃない。……桐也も、早く支度しないと学校に遅れるぞ』

 わかってるよ、父さん。

 そんな習慣となった返答が、何故か俺の口から出てこない。これは一体どういうことだ? 何で俺、喋れないんだよ……。

 ――――ジリ……ジリ……。

 またノイズだ。

 視界が、耳障りな雑音に合わせて歪む。

 お袋が、親父が、妹が、まるで豪雨に打たれた泥人形のように、その人型が切り崩された。 

『ゲームする暇があるなら、ウチは部活に精を出すっての。家の中にいるより、外で汗かいて運動する方がずっと健康的だしね』

 ふと、視界の砂嵐が止んだ。

 椅子を引いて、身体ごと俺を振り返った妹が高慢な笑みを浮かべる。

『ねぇ、兄貴がスポーツマンになれるようにウチが良いジム紹介してあげよっか? 代わりに一週間、ウチの言う事なんでも聞くって条件付きで』

 ジリ……ジリ……。     

 一週間か……ああそうだな、それで忘れたままだった“約束”のことを許してくれるなら、安いものだ。それとも、お前はもうっとくに約束の事は忘れちまったのか……?

 しかし、俺の思いは妹には届かない。

 言葉にして、伝えることがかなわない。

 妹は目を吊り上げて、椅子から立ち上がった。

『ふん、何だよ! そんなに文句ばっかりなら、もう心配してやんないから! ……ごちそうさま!』

 そのままココアを一気飲みして、妹は鞄を手にドタバタと玄関へと向かう。

 サイドアップに纏めた髪が元気よく跳ねていた。

『ちょっと――――! お弁当忘れてるわよ!』

 袋に包まれた弁当箱を持ち上げたお袋が、妹に向かってそれを振ってみせる。

 妹はピタッと立ち止まると、そのまま回れ右をしてテーブルに戻ってきた。

 お袋から弁当を受け取り、俯きがちに一言。

『いってきます……』

『はい、いってらっしゃい』

『……気をつけてな』

 再び反転、今度こそ玄関に続く扉に手を掛ける。

 去り際、俺に舌を出して挑発するのを忘れない。

 何か言い返してやりたかった。けど、この“世界”ではそれを許してくれない。

 俺は気づいてしまった。

 今の俺が見ているこの日常は、すでに“過去の出来事”であることを――――。


《キリっち! いい加減正気に戻るのですよ!》

 バチッ。

 頭で火花が散った気がした。

 灰色をした家族団欒の風景は暗澹に堕ちる。瞬きと共に明瞭になった視界にはすでに、かつての日常など欠片も存在していなかった。

「……ここは?」

 自然と声が漏れた。

 見渡す限りの青空。頑丈な石畳。眼下に望む古い街並みと、その先に広がる緑の草原。

 どこか見覚えのあるこの風景はきっと、俺の“非日常”の方なのだろう。

 白黒の視界もなければ、耳障りなノイズも聞こえない。ここは間違いなく現在の世界だ。

『平気?』

 すぐ隣で少女の声。

 見下ろすと、ゴシック風の衣装に身を包んだ白髪の少女が俺の顔を無表情に見上げていた。

「アネッタ……」

『長い間、“回想状態”になってた……。あと少し目を覚ますのが遅かったら、あなたはずっと夢の中を彷徨い続けてたかもしれない……』

 それから、アネッタは目を伏せて、

『私のせいで、危ない目に合わせてしまったのよ。ごめんなさい……』

 泣きそうな顔をして、少女は俺に謝罪した。

 ちょっと待ってくれ。俺が正気じゃなかったのは理解してるが、“回想状態”っていうのは何なんだ?

《キリっちはずっと過去の映像に囚われていたということですよ。アネッタさんの“転移”の影響でしょうか? 妖精の持つ魔力とあなたの魔力が互いに干渉し合って、キリっちの脳が刺激されたんだと思います。記憶の断片が、幻影として知覚的に認識できるほどに至ったのかと……》

 つまり、過去の場面を……ビデオ映像みたいに映し出したということか……?

《本当は、言葉で表現できないほど複雑な仕組みなんだと思うのですが、その解釈が一番近いかもしれませんね》

 そうだ。俺はアネッタに手を握られて、そのまま視界が――――意識が切り替わったんだ。       それで、ピロの声がして……けどよく聞き取れなくて……気づいたら、知らない場所に立っている。

 さっきまで俺たちは個室にいて、少なくとも俺が正気を失っている間に別の場所へ瞬時的に移動したというのか。ピロの言う“転移”という現象が実際に起こったのなら、それをやってのけたのは恐らくこのアネッタという少女の姿をした妖精なのだろう。

 ――――驚いたな。テレポートなんて移動手段、あの転移魔法陣だけだと思ってた……。

《それは小生も同じですよ。妖精という存在がこの世界にいたのは以前から知っていましたが、まさか時間系統の魔術……しかも瞬間移動を連結媒体である転送陣なしに行使可能という高度な魔術の使い手であったとは……!》

 珍しいこともあるもんだ。ピロの口調がいつになく活き活きとしている。

《人類が未だ成し得ていない“不特定転送魔術オールテレポテーション”を、印や詠唱呪文を用いずに操っているんですよ彼女は! いや、アネッタさんが扱えるということは他の妖精たちも同じように可能なのでしょう!》

 なぁ、それって“エンシェントウィザード”って魔道士よりも凄いのか?

《それはまだ何とも……。で、でも! 妖精は精霊と同じくこの世界に太古から存在する超生命体。賢者様が生み出した古代魔道士エンシェントウィザードに匹敵するかはともかくとして、その能力は決して侮れない強力なものなのですよ、うん!》

 な、なんだこいつ……。いきなりテンション高くなったぞ?

 しかしまぁ、こんな小さい子が凄い魔術を操る妖精、ね……。奇天烈な外見してなかなか独特な少女とは思っていたけど、中身まで謎に満ちた不思議ちゃんだったとは……。

 いや、そんなことより。

「アネッタがここに連れてきてくれたんだよな? 移動が楽で助かったよ。ありがとう……」

 俺が礼を言うと、アネッタは大きな目をさらに見開いてぱちりと瞬き。それから白い頬を朱色に染めて俯いた。よく見れば、こくんと小さく頷いている。

《幼女とそれ以外の年齢層の人との間に一体どんな贔屓理由があるんでしょうかね。堅苦しい口調とは一変、幼い少女相手だと途端に優しい口調になるんですから。確か賢者様に初めて会われた時も、そんな生ぬるい声音で誘惑してましたよね?》

 してねぇよ! 俺はロリコンじゃない断じて認めんぞ!  

「キリヤ…くん?」

「っ!」

 不意に背後から掛けられた声。ピロとの念話を即座に中断し、俺は咄嗟に振り向いた。

『あの人……間違いないのよ』

 隣でアネッタが呟く。 

 白いローブを風に遊ばせている少女が、透き通るような長い金髪をなびかせて立っていた。

「こんなところで何してたんだ、セレス」

 口を半開きにして、呆然と俺を凝視するセレス嬢は答えない。ただ、お嬢の隣にいたメイドの少女が、俺の言葉にはっとなってその場で飛び上がった。

「ええっ!? あ、あれっ? キリヤ殿下!? い、いい、一体どこからっ……」

 わなわなと両手を震わせ、メイドが恐怖に顔を引きつらせる。

「ん? 君は……レイカさん?」

 どこかで見覚えのある顔と思ったら、その少女は朝方俺に城の案内をしてくれたメイドであった。

 あれ? っていうか、何でお嬢とレイカが一緒にいるんだろう。面識はあるだろうが、別段仲が良かったわけでもないし……。

 意外なペアに俺が首を傾げていると、

「うっ……!」

「……セレス?」

 お嬢が頭を押さえて呻き声を上げた。

 何か様子がおかしい……。

 いつもなら真っ先に一声上げて俺を指差しそうなのに、今のお嬢からはそんな強気な態度が見受けられないのだ。

 俺は思わず彼女に近づきかけて、そして立ち止まった。

 何を考えているのか。俺はお嬢に触ることができない。お嬢だけでなく、他人ひととはほとんど接触できないじゃないか。

「……大丈夫か?」

 結局、言葉で心配するより他はなかった。

「う、うん……大丈夫よ」

 そう言って俺に笑いかけるが、全然誤魔化しきれていない。

 目元が痙攣して、額は冷や汗でびっしょりになっている。ただ事じゃないのは俺の目にも明らかだ。

「っ……!」

 頭が痛むのか、焦点の合わない蒼い目を地面に向けて、しきりに顔を歪めて呻き声を抑えている。 

 お嬢の様子がおかしい事に気づいたのだろう。俺を見て震えていたレイカがローブ姿の少女に駆け寄る。

「魔道士様……!? い、いけない! 早く医務室に……」

「だ、大丈夫だからレイカちゃん。すぐに、治まると思う……」

 何が大丈夫だ。そんな苦しそうな顔をして、なんで威勢張るんだよ。

「大丈夫なわけあるか。頭痛が酷いなら、横になって安静にして――――」

 突然、お嬢の身体が足元から崩れ落ちた。   

 声も上げず、そのまま耐え切れず力尽きたとばかりに屋上の石畳に身を投げ出す。

 傍に居たレイカがあっと声を上げるのを聞いた。頭の中でピロが唸る。

 そして俺はただ、彼女が倒れる様子を呆然と見ていることしかできなかった。

「セ――――」

 一体何があった……。

 俺がいない間に、何が……。

「セレスッ!」

 


              =======【アレク視点】=======


(こいつは幻か? それともたちの悪い夢か……?)

 アレクは薄暗い祭壇の上にいた。

 厳かに立てられた飾台の蝋燭に照らされ、彼の目の前に置かれた漆黒の棺が異常な存在感を放って金色に輝いている。

 棺の前には、数人の騎士や魔道士が囲むように集まっていた。古めかしい甲冑を身に纏う騎士に関しては、その色や装備の型で所属の国家を判別できる。アレクが見た限り、棺を囲む騎士たちは皆ヴァレンシア王国軍の者たちだ。記憶が正しければ、棺が安置されているこの場所は恐らく、王都イグレーンのヴァルハラ王宮地下に造られた礼拝堂の一室。

(忘れもしない。今から十年前、鈴鳴すずなきの月23日の深夜……。自室のバルコニーに寝転がって星を見上げながら眠りについていた俺を、ガヌロン先生が揺すり起こした……)

 不気味なほど静寂が満ちた空間に、重たい扉を押し開ける音が響く。

 棺を囲む人々が、一斉に扉の方に振り返った。

(事情を知らされないまま、俺はいつも以上に険しい顔をした先生の後をついて行くしかなかった。行きたくないって本能で感じていても、身体がそれを許してはくれなかった……)

 扉の前には、宰相の礼服を纏ったガヌロンと、彼の後ろに隠れるように控える少年期のアレクがいた。 身支度の時間も与えられず寝起きのまま部屋を飛び出したのである。髪はぼさぼさに撥ね上がり、目ヤニの痕が残る目尻は未知の恐怖に引き攣っていた。

『……殿下、こちらへ』

 ローブを纏った軍属の魔道士が、恭しく礼をして部屋の中に誘導する。    

 他の者たちも、それに続いて重々しくこうべを垂れた。

(逃げ出したいと思った。だが、あの時俺の中に微かに残っていた王子としての誇りが無惨にもそれを拒んだ。前に進まなければ、俺はまた“身勝手王子”のそしりを受けてしまうのではないか。何より、自分への風当たりを警戒してしまったんだ……)

 ガヌロンに背中を押される形で、アレクは一歩ずつ棺へと近づいていく。

 見えない、何も見えない。と心の中で何度も念を押しながら。

(あの棺はきっと空っぽだ。悪さが絶えない俺の行動に腹を据えた家臣たちが、俺を反省させるために棺に閉じ込めようとしている。そんな途方もない仮説まで思い描かせるほどに、あの時の俺の心は緊迫していた)

 ガヌロンの手が、アレクの肩を掴む手に力を込める。

 恐る恐る棺の中を覗きこむまで、その場の者は誰一人として口を開かない。

 やがて――――

『っ!?』

 薄暗い棺の中に――――

『なんでっ……』

 血糊に染まる鎧を纏った――――

『う、嘘だ……』

 変わり果てた父の姿を確認し――――

『嘘だぁ!』

『殿下ッ!』

 

 ――――俺の心に一生消えることのない傷跡を生んだ――――

 

 ガヌロンや騎士たちに抑え込まれ、狂ったように叫び暴れる若い王子の姿を、棺の前に佇んで見つめる十年後のアレクがいる。

 大陸中央部の覇権を確固たるものとし、周辺国にヴァレンシア王国の大国意識をより明確に示させた男。最も聡明な王に与えられる『賢王』の称号を持ち、一人の息子と娘を抱える第八十一代目ヴァレンシア国王ガレス・フィルグ・エクス・ヴァレンシアは、齢四十六歳という若さでこの世を去った。……アレクがまだ、十五の時である。

(隣国の小国家、ランスロット王国が宣戦布告と共にヴァレンシア王国東部領に侵攻。飛竜部隊を率いる約八千の大軍は、瞬く間にランスロット国境沿いの町や村を蹂躙し、逃げ遅れた老若男女を容赦なく虐殺、あるいは自国に連行した。国境警備隊はもちろんのこと、事態を聞きつけた東部の治安維持部隊や私設の自警団が迎撃するも、怒涛の勢いで攻め入るランスロット侵攻軍に已む無く敗退。東部地方の防衛全般を任されていたヴァレンシア東方方面軍が行動を起こす頃には、すでにランスロット軍の魔の手は一夜の戦いで押し返し切れないほどに領土の奥深くまで侵食していた。義憤に駆られ、自ら戦線に赴く決意をした父ガレスは、一部の近衛騎士と東方軍一中隊を引き連れてランスロット占領地の敵先発隊を急襲。逃げ遅れたヴァレンシア国民を一人でも多く逃がそうと先頭で刃を振るい、そして――――)

 アレクは、棺に納められる父の遺体を見下ろした。

 顔は綺麗に拭き取られたのか、塵汚れ一つ見当たらない。だが彼の纏う鎧は乾いた血で黒く染まり、その胸当ての部分には大きな穴がぽっかりと開いていた。

(――――そして、敵の魔道士から氷結系の魔術攻撃を受けた。氷の柱が父の上半身を鎧ごと貫き、その白く濁った氷の塊は父の鮮血で真っ赤に染色されたと……)

『っ……お助けに向かう隙もありませんでした……! 私が防御魔術を発動させる寸前に、敵の放った“不折の氷槍アイスランス”が陛下のお身体を刺し貫いて……ッ!』

 棺を取り囲む者たちの一人、ローブのフードを目深に被った魔道士が震えながら膝を突いた。

 アレク王子も幾分か正気を取り戻していた頃合でもあって、彼の発言にその場の全員がぎょっと目を剥く。

『やめんかラグダス! 殿下の御前ぞ……』

『…………』

 少年のアレクは何も言わない。

 感情に身を任せて叫び続けたことが幸いしていくらか早く気持ちが落ち着いたのだと、そんな前向きな解釈ができたのならどんなに楽だろうか。

 アレクは正気に戻ってなどいなかった。むしろ残酷な現実を見せ付けられて、口も利けないくらいに放心してしまっていたのである。

(そういえば、親父の死に様を拝んでからしばらく記憶がなかった。てっきりショックで意識を失ったのかと思ってたが……身体は普通に動いてたんだな)

 ガヌロンに肩を抱かれ、アレク王子は腕で顔を覆い隠していた。

 泣いているのか、それともガレスの遺体から目を逸らしているのか。

 本人であるはずのアレク自身記憶が曖昧なのだから、今になっては確認のしようがない。だが第三者の視点に立って初めて、アレクは当時の自分が王の器としてどれほど未熟なのかということを改めて思い知らされた。

『親父……親父……ッ!』

 嗚咽とともに吐き出される父の呼び名。

 父親に対する敬意が感じられないと、いつもガヌロンに口煩く注意されていたが、この時ばかりは誰もアレクを咎めはしなかった。       

『私のせいだ……』 

 鎧を纏った騎士の一人が、俯いたまま言葉を漏らす。

 将軍職の者だけが身につけることが許される、大きなマントを背中に垂らした巨漢の男だ。  

『兵と共に剣を振るわれると申されたあの時、私が何としても陛下をお止めしていればこんな事にはならなかった! 全て私の責任だ……私が陛下を殺めたも同然なのだ!』

 男は篭手を装着した腕を壁に力いっぱい叩きつける。

 ガツンという激しい衝撃音が室内を、ないしは礼拝堂内に響き渡った。

『将軍、おやめください!』

『どうか冷静に! ご自愛くだされ!』

 男の副官二人が宥めに掛かる。

 それを傍から見ていたガヌロンが穏やかな声音で、

『ファーボルグ将軍、あまりご自分を責められるな。貴官も知っての通り、陛下は一度言い出したことは実行するまであきらめない頑固なお方。たとえ将軍が陛下にしがみ付いて意地でも止めると意気込んでも、きっと陛下は腕に貴官をぶら下げたままでも戦場に参られたはず。どちらにせよ我々には、あれほどまでにたけった陛下を止めるすべを持ち合わせておらなんだ』

 そう言ってガヌロンも、主の死を悼むように静かに目を閉じた。

『戦わねばなるまい……。陛下が培ったこの国の平和、決して崩してはならぬ。殿下が王位をお継ぎになるまで……いや、アレク様が国王としてヴァレンシアをお抱えになったその後も、影ながら支えていかなくては……』

『陛下のご意志は、必ずや……!』

 マントを翻し、ダンテ・ファーボルグはアレク王子の目の前で膝を突いた。

 壁に寄り添って腰を下ろしている王子と同じ目線なので、自然と覗き込む形になる。

『殿下。あなた様がお望みであればこのダンテ、如何様な罰も受け入れる所存。しかしながら今しばらく、かの憎きランスロット軍をヴァレンシアから追い出すその日までお待ちいただきたいのです。東方の民をお救いになろうと命をしてまでご奮闘された陛下のご意志を……私は最後まで貫きとうございます!』

『…………』

 アレクからの反応はない。

 だがダンテは恭しく家臣の礼を取ると、傍には目もくれず副官を引き連れて部屋を辞した。

 やがて他の面々も、ダンテと同じ理由や大臣たちとの今後の話し合いを言い訳にそれぞれ急ぐように礼拝堂を後にした。事実、彼らにはまだやるべき事が山ほどある。満足に国王の死を弔えず、再び政務に戻らざるを得ない彼らのうしろ姿を、ガヌロンは悲哀の眼差しで見送った。

 残されたのは、未だに壁に張り付いて黙りこくる少年アレクと、それを見守るガヌロン宰相。そして、その様子を離れたところから傍観するアレク王と、彼の足元に横たわる今は亡きガレス国王のみ。

 別にどちらが目立った反応をするわけでもなく、アレクとガヌロンは互いに身を寄せて床に座っていた。この時も、まだアレクは正気に戻っていない。まさかこのまま夜を越すつもりなのかと、彼が疑いはじめた頃になって、ガヌロンはぽつりと言葉を紡いだ。

『ご不幸……などとお悔やみ申し上げるのは、些か野暮でございますか……』

 ひっそりとした静寂があればこそ、やっと聞こえる程度の掠れた声だった。

『アレク様。実を言うと私めはまだ、ガレス様がお亡くなりになったという事が未だに信じられぬのです。あれほどまでに国を愛し、いつ如何なる時も最善の策を尽くしてヴァレンシアを想い続けられたあの賢王が、名も無き魔道士の魔術に撃たれて命を落とすなど……考えられませぬ』

 ガヌロンは棺を見つめながら、ゆっくりと話を続ける。

 彼は時折苦笑を浮かべたと思ったら、次の瞬間には苦痛に満ちた表情を作った。隣で蹲る王子は何一つ聞こえていないというのに、ガヌロンはお構いなしに身振り手振りで話を盛り上げていく。

『あ、そういえば。アレク様がまだ四つにも満たない幼い頃に一騒動ありましてな。気分転換にと、陛下がお后様に頼んでアレク様にお散歩をさせたのがきっかけなのですが、当時から殿下はそれはそれはとても元気なお子様でいらして……。花壇を踏み荒らした足で城にお戻りになられたと思ったら、そのまま陛下の執務室を走り回って大事な書類に足跡をぺたぺたと。しかもその犯人がご子息であるとお気づきにならない陛下は、やれ執務室に盗人ぬすっとが入った、そうでなければ人型の足を持つ鳥が部屋を荒らしまわったのだと大慌てになって』

 前王ガレスは直ちに近衛騎士たちを呼び集め、執務室の荒らしの原因を探らせたのだという。

 やがて一人の騎士が原因がわかったという報を携え戻ってくると、ガレスは仰天した。何故なら騎士の背後には、彼の后と息子が手を繋いで立っていたのである。 

『執務室の荒れ様は息子が原因だと、お后様は開口一番陛下にそう仰られたのです。そうしたら、陛下は奥様を信じられないような表情で眺めたのち、こう申されました。“もしやそんな馬鹿げた話があるはずがない。アレクが物荒らしに長けた王族であれば、これを生んだお前は何故あの時、私に夜這いをかけた際に土足で寝室に忍び込むという愚を冒したのか”と。……熟れたトマトのように顔を真っ赤にされたお后様は、陛下の頬に特大の平手打ちをお見舞いしましてな。はっはっは……あの時の陛下の顔といったら、恐れながら、今まで拝見してきた表情の中で一番間抜けであられたでしょう。大臣ともども、笑いを堪える事に必死であったのをよく覚えております』                         ひとしきり話し終えて、ガヌロンはアレクの方に視線を向けた。

 だが相変らず王子は魂が抜けたように虚空を見つめている。この場でガヌロンの声を唯一聞き届けることができる現実世界のアレクだけが、彼の話に耳を傾け感傷に浸っていた。

(そんな話……初めて聞いたぜ)

 そもそもアレクの父親は、己の過去をあまり語ろうとはしない人であった。いつだってガレスは前だけを見つめ、息子のアレクにさえも察することのできない“何か”を見通していたのである。

(俺が王位に就き、親父の苦労についてわかった事があるとすればそれは、一国の主の抱える重みだけだった。ヴァレンシアだけを残して、親父は俺に何も打ち明けずに死んだ……最後まで祖国を想い、祖国のために死んだんだ)

 偉大な父を誇りに思えばいい。だが素直になれない自分がいる。

何故なにゆえ……アレク様お一人残して先立たれたのです……。もしこれが殿下への試練であらせられるならば、それはあまりに酷な話ではありませぬか。私めは悲しいのです陛下。継承者としてではなく、親子としてのお時間も満足に過ごすことができなかった殿下が。お二人の愛情がここで朽ちてしまうと思うと、胸が張り裂けんばかりに痛むのです……!』

(ガヌロン先生……)

 力強くアレク王子の肩を抱き、礼拝堂に集まった者たちに冷静な態度を示していた老人は今まさに宰相としての仮面を剥ぎ、孤独に怯える子供のように震えていた。

『こんな情けない私を、陛下は天国で“痴れ者”と仰せだろうか。いいや、ならば私は陛下のことを“不器用”と罵って差し上げますれば』

 突如としてガヌロンは立ち上がり、棺に向かって歩き出す。

 一瞬こちらが見えているのかと驚いたアレクであったが、ガヌロンが棺の中のガレスに視線を落としたのを見てほっと安堵のため息を吐いた。

『すでにあの世においでなら、お后様とともにこれからのヴァレンシアをご覧あれ。僭越ながらこの不肖ガヌロン、アレク様のご立派な成長を見届けるまで果てるつもりはござらん』

 その言葉を最後に、アレクの視界は暗転した。


『あ! 元に戻ったみたいだね』

「……っ!?」

 気づけば彼は、天蓋付きの寝台に横たわっていた。

 アレクのすぐ隣には、じっと顔を覗き込むロッタという少女の妖精がいる。彼女は彼女で寝台の上でうつ伏せになり、足をバタバタと振りながら頬杖を突いていた。

『ごめんよお兄さん。まさか“回想状態”になるとは思っていなくて……。なるべく楽な体勢になれるようベッドまで運んだのだけれど……どう? 頭痛いとか、身体動かないって症状はある?』

「い、いや、何もねぇよ……」

 頭はすっきりしている。

 身体の方も、少し固まっているが動けないほどでもない。

 アレクは両足を上げてそのまま身体を横向きに転がすと、腕を伸ばして寝台から飛び上がるように抜け出した。普段から厳かな行動ができない男である。自身の私室でも、早朝はこうした騒々しい起き方をする時も少なくない。

「んで? その“回想状態”ってのは一体なんだ?」

 腕を回して肩の凝りを解しながら、アレクは未だに寝台で寝そべっている妖精に素っ気無く訊く。   それに対し、ロッタはにぃっと少年じみた笑顔を浮かべると、アレクの問いに答えることもなく消失した。

「お、おい!」

(まさか逃げたのか……!?)

 突然姿を消したことに戸惑うアレクを尻目に、背後で「そりゃ!」という少女の掛け声が響く。

 背中にぞわぞわした感覚が広がったのはその直後であった。

『んふふ……“回想状態”っていうのは、人と“人にあらざるもの”の魔力が互いに干渉し合って起こる特殊な現象のこと』

 アレクが首を捻って後ろを振り向くと、彼の肩越しからこちらを覗き込む黒髪の少女がいる。傍から見れば、丁度アレクの背中におぶさる形であった。

『つまり、ボクの魔力とお兄さんの魔力が反応して、それが原因でお兄さんは脳に何らかの魔力障害を受けてしまったの』

「……その障害が“回想状態”ってか? 白昼夢と記憶の逆行が同時に起こったみたいだったが……」

『変わった表現をするんだね』

「俺への悪影響は?」

『ないよ。ちゃんと目を覚ましたのがその証拠……』

 ふわふわ。

 アレクの背中を離れ、部屋の中を漂うロッタ。

 古代魔道士エンシェントウィザードもそうであったが、妖精もとことん不思議に満ちた存在だ。どういった原理で浮遊しているのか、アレクは気になって仕方がない。  

「アーガス王曰く、お前さんたちはこの街の守護者ガーディアンだとか何とか」

 ロッタは肯定も否定もせず、ただ部屋の中を鼻歌交じりに泳いでいる。

 もとより確かな返答を求めていなかったアレクは、ロッタに視線を向けたままさらに続けた。

「キリヤが――――さっきまで俺と一緒にいた仮面の男が、あんたたちの事を知っているようだった。……面識があるのか?」

『それは……朝方お友達大勢で仮面のお兄さんの後ろをつけていたことかな?』

「何?」

 ロッタは空中で器用に半回転すると、そのまま天井に張り付いてアレクを見下ろした。     

『こっちは一般人の野次馬に変装していたつもりだったんだけど、なるほど……仮面のお兄さんはボクたちの正体に気づいてたんだね。さすが、古代魔道士エンシェントウィザードのことだけはあるよ』

 アレクが目を丸くする。

「なっ! お前、キリヤが古代魔道士だって――――」

『わかってないと思ったの? ボクたちはこの街の守護者ガーディアンだよ? どこで誰が何をしているのか、この街にいたら全部お見通し』

「だ、だったら、何であんたの“お姉さま”はセレスの居場所を知らなかったんだ?」

『みんな役割があるもの。街の様子から人の動き、命の生死を見分ける役割を持った妖精がそれぞれね。マリーお姉さまは街の様子を監視するのが役目。ちなみにボクは生命の誕生から死までを見聞きせずに感じることができる能力』

 ロッタは革裏で天井を蹴ると、今度は空中で一回転して地面に降り立った。

 上目遣いでアレクを見やり、悪戯っぽい笑みを浮かべる。

『人の動きを知り尽くしているのはアネッタ。ボクとあの子は双子だけど役割は違うの』

「…………」

 アレクが苦虫を潰したような表情をする。

 それがロッタには面白いのか、彼女は楽しそうにスキップしてアレクに近づくと、腕を回して彼の腰に抱きついた。

『本当はもっと遊びたかったんだけど、どうやら時間切れみたい。お兄さんにはわかる? お姉さまの創った舞踏会場ダンスホールが、だんだん閉じていくの……』

「は? どういう意」

 瞬間。

 部屋の四方の壁が波打った。

「!?」

 声を上げる暇もない。

 途端に足場が消え失せ、底の見えない漆黒の大穴がアレクの真下に出現したのである。

『じゃ、帰ろっか?』

「ちょ……待っ――――」

 浮遊感を味わうこと実に数秒。

 あとは重力に従って、アレクとロッタの身体は暗い大穴に向かって落下していった。

 

           

 やっとアレクが出張ってまいりましたw

 

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