第三十三話 あの頃の約束…
走る。走る。走る。
近所の団地や商店街を走って巡り、やっと心当たりのある場所を思い出して行ってみる……。
夕日色に染まる公園に彼女はいた。
木製のベンチに一人で座り、膝を抱えて顔を埋めているのが見える。
息も絶え絶えに目を凝らすと、頭の横で結んだ髪の毛が目に入った。間違いない。俺の妹だ。
「…………」
その隣には乱雑に置かれた赤いランドセル。勢いよく放り出したのだろう、中身の教材が少し飛び出していた。
俺は地面に落ちた教科書を拾い上げ、妹の鞄の中にしまった。
音で気づいてるはずなのに、妹は顔を上げようとはしない。相変らず膝の間に顔を埋めて丸くなっていた。
息を整え、俺は妹に触れようと手を伸ばす。
しかし――――
「触らないで……!」
「いでっ!」
指先が肩に触れた途端、身体を捻った妹が思いっきり手を払う。
その拍子に、少女の爪が俺の手の甲に傷をつけた。
その反抗的な態度に、さすがの俺もイラっとする。
「お前、何だよその態度! 人がせっかく心配してきてやったのに……!」
「別に来てくれなんて頼んでないっ! ウチのことなんてほっといてよ!」
彼女の声はとても泣きそうだった。
一瞬にして俺の苛立ちが霧散する。
何かあったのだろうか。普段から強気の彼女がこんなにも弱々しいはずなんてあっていいはずがない。よっぽどの事が起きて、それが妹を苦しめているのか……。
「……何か、あったのか……?」
「…………」
沈黙。
「黙ってたってわからないだろ?」
「……何でもない! 何でもないの!」
今度は顔を埋めたまま、くぐもった声で応答する。
「何でもないことないだろ! お前の友達はどうしたんだ? いつも一緒にいるのに、何で今日は公園に一人で……!」
「…………」
「家にだって帰ってないじゃないか! お前まだ小学生だろ。公園で寄り道なんて何考えてんだ!」
兄が妹の心配をするのは極当然のことだ。心配のあまり、つい怒鳴ってしまったのもあの時の俺なら仕方がないことだったと思う。
だが妹は、そんな俺の言動が気に入らなかった。
涙の滲んだ腫れた目で俺を睨んだかと思うと、まるで猿のように素早く俺に飛びつく。
回避する余裕もなかった。
「いっ……てぇ! ちょ……何しや――――」
「うるさい! 兄貴に何がわかるんだよ! ウチのこと何とも思ってないクセに! いつも偉そうにして……いつも……いつも……!」
妹の小さい両手が俺を叩き、引っかき、掴んでくる。
兄妹喧嘩なら普段からやってることだが、今回はいつもと違っていた。
「お、おい……! お前、どうして――――」
「いつもわがっでないじゃないがぁ! ウチの気持ぢなんで……全然わかってないっ……!!」
妹は泣いていた。
男勝りで、負けず嫌いで、親父に怒られても退かない彼女が、俺の目の前で号泣していたのだ。
彼女の攻撃が、単なる八つ当たりだということに気づいたその時、妹は俺の腰に腕を回して抱きついていた。
「う、うぅ……! うわあああああああああああん!!」
その日の出来事は、俺にとって生涯忘れようのない騒動であるに違いない。
俺は驚愕した。俺でも知らない妹の一面を目の当たりにしたのである。彼女を慰める手段なんて持ち合わせているはずがない。胸の中で泣き喚くか弱い少女に、俺はただ黙って待つしか他に方法はなかった。
せめて俺の存在が、少しでも彼女の悲しみを取り除く相手であればいい。自分でも信じられないようなそんな考えに戸惑いながらも、俺は妹のされるままでいた。
「うっ……ひっく……うぅ……」
「…………」
「……兄貴なんて嫌いだ」
収まりきれない嗚咽を噛み締めながら、妹は言葉を紡ぐ。
「人見知りで、ヘタレで、アイソのない兄貴なんて大っ嫌いだ……!」
妹の言葉が胸に突き刺さる。
普段聞きなれた罵倒のはずが、その日はとても重く感じられた。
そして、それを素直に言い返せない自分に痛いほど嫌気がさす。『俺は弱い』と心のどこかで認めている自分に一層腹が立つ。
「でも、兄貴を馬鹿にするヤツらはもっと大っ嫌いだ……!」
「え……?」
胸に顔を埋めたまま、妹が発した言葉に俺は内心首を傾げた。
俺が嫌われているのはわかる。そんな嫌われる駄目人間な俺を馬鹿にする奴がいてもおかしくはない。 ……けど、俺を馬鹿にする奴を妹が嫌うというのはどうなのだろうか。道理に反して彼女は、俺の印象を大きく裏付ける発言をしていた。
「……何も知らないクセに、兄貴を馬鹿にするなんて許せない。兄貴は馬鹿だけど……馬鹿にする奴はもっと馬鹿だ。大馬鹿だ……」
途切れ途切れに、妹は言葉を続ける。
妹は無駄な話はしない。だからこれはきっと、俺へと当てた言葉なんだろうとなんとなく理解できる。それが何を意味して、何を伝えたかったのかよくわからなかったが、不思議と悪い気はしなかった。シャツ越しに伝わる妹の口の動きに合わせ、醒めた俺の意識に同調するかのように少女の言葉が俺の記憶の奥に深く刻まれる。
いつかこの言葉の意味が理解できるその時まで、大切に胸の奥に仕舞っていようと。
いつまでこうしていただろうか。
俺たちの様子を不審な表情で通り過ぎていく通行人をやり過ごし、そろそろ夜が訪れようかという遅い時間になっても尚、妹は中々離れてくれない。
時々もぞもぞと身体を動かし、鼻を鳴らすことはあっても、妹の回された腕は力強く俺の身体を掴んでいた。今すぐ振りほどいて家に連れ帰ってもよかったが、何故かその気にはなれない。俺という存在が最後の命綱と言わんばかりに、妹の身体は見るからに強張っていたのである。せめて彼女が納得するまで一緒にいてやろうと、俺は半ば覚悟を決めた。
完全に陽が暮れ、暗くなった街路を電灯の明かりが照らす。
いつも遊び回って帰りが遅い妹ならまだまだ平気な時間なんだろうが、基本日が暮れるまでには家に帰宅している俺としては、この暗い公園はどこか異質な場所に見えてくる。
さすがに母さんも心配しているだろう。いや、間違いなく心配している。ただでさえ極度の心配性なのに、我が子が二人も家に帰らないとなると下手したら警察沙汰になるかもしれない。今頃近所中を手当たり次第探し回っているのだろうか。そう思うと心苦しい。
「な、なぁ……」
「…………」
焦る気持ちに乗じて、俺は妹に話し掛けていた。
「そろそろ家に帰ろうぜ。母さん、きっと心配してる……」
「…………うん」
意外にも素直な返事が返って来たのは幸いだろう。少し名残惜しそうな妹の声音もあって完全に安堵することもできなかったが。
ただ一つ良かったことに関して言うならば、妹の俺に対する印象が最低ではなかったことである。
兄貴より嫌われた奴がいるなんてことに喜ぶ俺自身果てしなく情けないが、それでも……心のもやが少し取り払われた気がして救われた気持ちだった。
「ランドセル、持とうか?」
「……いい。自分で持てるから……」
「…………そうか」
帰路に着く道中、会話らしい会話なんてしただろうか。
そもそも気まずい空気を自力でどうにかできる域は超えていたはず。ただ自宅に向かってひたすら歩くだけの俺たち二人の行動が唯一冷静さを保つことのできる手段であったに違いない。俺の斜め後ろを俯き気味でトコトコついてくる妹の姿が、別人過ぎて困惑するのだ。
もし普段の彼女ならどうするだろう。公園の出入り口に砂のラインを引いて、「ここから家まで競争だから!」なんて言うことも十分に考えられる。いや、むしろ妹にそんな無茶な遊びを思いつく元気があるのなら、今頃俺がこうして彼女を迎えに行くこともなかっただろうに。
怒鳴って先を急ぐよう促したかった。けどそれをさせない“何か”が俺の言動を引き止め続けている。 それは滅多に見せない妹の酷く落ち込んだ姿が原因か。それとも精神的に疲れ果てた俺にはもう、怒鳴る気力さえないとでもいうのか。
恐らくその両方であることは間違いないのだろうが、俺が妹の歩行に合わせる理由に情けや無気力なんて正直どうでもよかった。
「…………」
妹のらしくない姿なんて見たくない。そんな自己満足な俺の欲求が、妹の好きにさせている最もな理由なのだ。仮にここで俺が彼女に怒鳴ったとして、妹はいつも通り怒鳴り返して俺に文句を並び立てることができるだろうか。答えは否。ネガティブな雰囲気を取り巻く妹を刺激して、後戻りできないところまで追い詰めてしまうかもしれない。そんなことは決してあってはならない。見慣れた家族がすっかり変わってしまうなど、俺にとっては地獄以外の何者でもないのだから。
「ん……?」
ふと服の裾を掴まれるような小さな感覚が俺の身体に伝わった。
首を捻って後ろ見てみると、相変らず俯いたままの妹が俺の服を片手で摘んでいる。喧嘩をする時は胸倉を鷲掴みにして放り投げるような怪力少女が、服の端を親指と人差し指で軽く握っているのである。少しでも身体を揺らせば離れてしまいそうな小さな力を無駄にしたくなくて、俺はすぐに動きを止めた。
「どうした?」
優しく話しかけたつもりだが、妹はどう受け取ったのだろうか。素っ気無い態度に腹を立てただろうか。それとも普段と違う俺の態度に驚いているのだろうか。しかし、妹の返答はその真偽を確かめるためのヒントにはならなかった。
「……兄貴は、一人がよかった?」
「うん? 今何て……」
妹の声は消え入りそうなほど小さい。
別に言葉が聞こえなかったわけではないが、妹の言う言葉の意味が一瞬理解できなかったのだ。
「ウチなんかいない方がよかった? 一人っ子が……よかったの?」
即答できない。
たしかに一度や二度だけでなく、幾度も一人でありたかったと思ったことはある。一人っ子の家の子供を羨ましく思ったことももちろんある。けど、それを今更願って変えたいなどと本格的に考えたこともなかった。寡黙な父親と天然な母親、そして男勝りな妹に卑屈な俺。それが極当然な真実であり、俺が心から求める現実なんだと。
「あるよ。お前と喧嘩したあと、時々……」
しかし、妹を傷つけるかもしれないとわかっていても、俺はあえて本音を漏らした。
ここで黙っていたらこの先ずっと後悔するかもしれない。それだけは嫌だ。
「一人っ子がよかったって……思ったことは何度もある」
「そ、んな……」
妹の顔が見る見るうちに絶望に歪まれる。
シャツを掴んでいた指先から力が抜け、するっと垂れ下がった。
だが俺は。それでも――――
「けど。俺はお前にいなくなってほしいなんて考えたことは一度もない……」
その言葉に嘘はない。
家族は俺の宝物だ。それが覆されて、まるっきり変わってしまうなんて有り得なかった。たとえそれが口うるさくて暴力的な妹でも。俺の大切な妹であるには変わりないのだから。
呆然となった少女の顔に苦笑しながら、俺はその小さい頭に軽く手を載せる。
それは単に俺の照れ隠しでもあった。そして同時に、失いかけた妹への絆の象徴でもあった。
「何があったか知らないけどよ。俺はお前を裏切ったりしないから」
「あに、き……」
「喧嘩の相手なら俺がしてやっから。お前の嫌な事全部、俺が抱えてやるから――――」
妹の目を真っ直ぐ見つめて、俺は言う。
だから……もう――――
「もう一人で悩むな。お、お前に泣き顔なんて、似あわないんだから、さ……」
最後の言葉は、恥ずかしさの中で次第に薄れていった。
けれど、アイツにはたしかに聞こえてたはずだ。何故なら暗闇の奥に見える妹の表情に、憂いの面影なんてこれっぽっちも残っていなかったからだ。
「キリ兄の、ばか……」
――――なぁ『 』。お前にとって、俺は必要な存在なんだろうか……。
「キリヤ君……?」
「何でもない」
人が少し思いつめた表情をしただけで心配そうに話しかけてくるんだもんな。段々慣れてきたとはいえ、仮面越しに感情を読むセレス嬢の人間離れした慧眼は本当に恐れ入るよ……。
「本当に? とても悲しそうな感じがしたわ。あたしにできることなら相談にのるけど?」
「いや、問題ない。昔を思い出して感傷に浸っていただけだ」
少々過去の記憶に浸かってしまったようだ。すっかり忘れていたはずなのに、この記憶を思い起こさせてくれたきっかけは一体……?
いや、今は考えるのはよそう。もう十分思い出すことはできた。俺と妹の深い亀裂や歪み、その他いろんな事情で生まれた仲違い。全部あの時の俺の一方的な約束が原因だったのだ。くそっ。何であんな大事なこと、俺は忘れちまったんだよ……。
結局俺は、妹に何もしてやることができなかったのだ。アイツの望みも期待も、全部裏切ってしまった……。
年齢を重ねるごとによって、俺たちも成長している。いつまでもガキじゃないんだ、喧嘩もそのうちしなくなった。アイツにはアイツの人生があって、俺には俺の進む道がある。それを無意識のうちに自覚していたんだろう。嫌なことから逃げ続けて、アイツを避けて、気づいた時にはもう俺のことを親身に思ってくれる人なんて身近からいなくなっていた。
自立? いいや違う。俺の弱さ故に生まれた、孤立という名の代償だ。
何もかも俺の自業自得なのだ。今更にして、妹に誓ったあの頃の記憶を思い出したのも、対人恐怖症なる異質な精神的障害をこの身に宿してしまったのも、全て俺の責任なんだ……。
「捨てられた犬に、帰る家はない、か……」
そして俺はこの世界に喚ばれ、アレクという新しい飼い主に拾われた。銀髪少女が俺に与えた新たな居場所はしかし、俺にとって大切なものを手放すことを要求していたのである。
使命って何なんだ? 早くそいつを果たして、元の世界に還りたい。逸る気持ちを抑えきれず、思わず俺はその場で立ち上がった。
途端、全員の視線が一斉に俺を捉える。
「あら、キリヤ様。どうかなさいましたか?」
リンドと遊んでいたのだろうか、息子の両手を握っていたカトリーナさんが俺に優しく微笑む。
その表情が胸に疼く。似ているのだ、俺の母親に、とても……。どこか抜けたような、それでいて温かみのある母の笑顔。容姿はまったく違えど、雰囲気はそっくりだ。
「…………」
「キリヤ殿下?」
反応せずに無言でいると、後ろに控えていたメイド長が怪訝そうな様子で声を掛けてきた。
得体の知れない俺に警戒しているのか。モノクルから覗く鋭い視線を一瞥し、俺はカトリーナさんから視線を外す。
「……いえ、そろそろお暇しようかと思いまして……」
俺の控えめな言動に、何故かセレスが不満の声を上げた。
「ええええ!? さっき来たばかりじゃない! もう少しここにいたっていいでしょ?」
知るか。俺は遊びにきたんじゃねーんだよ。
「セレスさんの仰る通りですわ。こうして会う機会も滅多にないでしょうし、わたくしもキリヤ王子と色々お話がしてみたいですもの」
お嬢をフォローするように、カトリーナさんも合の手を入れる。
けれどもう俺はここにいたくなかった。楽しい光景を見ているとたちまち辛い記憶を思い出して、頭がどうにかなりそうになる。
「お気持ちは嬉しいですが、そろそろ戻らないと部下たちに余計な心配をかけてしまいます。ご子息の方もすでにご満足のご様子ですし、此度はこれにて……」
はっ。何が部下が心配してるだよ。顔も知らない人間を心配する奴なんているわけないじゃないか。
俺は形だけの礼を取り、その場にいた全員に背を向けて歩き出す。帰る道なんて覚えちゃいないが、まあ何とかなるだろう。ついでに他の仕事の手伝いでも申し出てみよう。せめて誰かの役に立てるような事がしたい。もう落ちこぼれのままでいるのは勘弁だ……。
「お待ちになって……!」
またか……。
この世界の連中は、去りかけたやつを引き止める習慣でも持ってるのか?
嫌々ながら振り向くと、カトリーナさんが正面にたって俺をまっすぐに見つめていた。
「ご静養中だとセレスさんからお聞きしていたので、今日の夜間頃にキリヤ様のお部屋に参って申し上げようと思っておりました……」
今までの柔らかい雰囲気とは打って変わり、とても重大な話があるとばかりに真剣な眼差しを向けてくるカトリーナさん。
ドレススカートの端を握って首を傾げるリンドを前に出し、彼女もその隣に並んだ。
な、何だ? 一体俺にどんな話があると?
「キリヤ王子」
「……は、はい」
次の瞬間、カトリーナさんが取った行動は俺の予期しない驚くべきものだった。
「奥様……!?」
リースさんが驚きの声を上げる。
もちろん俺だって驚愕した。セレス嬢やレイカも沈黙したままであるし、みんな現状のカトリーナさんに絶句したに違いない。
恐らくこの城で……いや、この国で最も高貴な婦女子であるだろうはずの彼女が、よりにもよって役立たずな俺に深々と頭を下げているのだから。
「奥方殿。一体何を……」
「できれば昨日の内にキリヤ王子に申し上げておきたかったのです。夫との再会を喜ぶあまり、遅らせてしまったことはわたくしの失態でありました……」
身体を九十度折り曲げたまま話す母親に、リンドは不思議に思わずにはいられないのだろう。素っ頓狂な顔で俺とカトリーナさんを交互に見比べている。
「ですから今ここで、改めてキリヤ王子にお礼申し上げたいと思います」
上半身を起こした時に現れた彼女の表情はしかし、先ほどまでの真剣さは微塵も残っておらず、清々しいまでに眩しく輝いていた。
「……最愛の夫レイニスと、わたくしたちの国民を守っていただいたこと、心より感謝致します……!」
「――――――ッ!」
そのとても好意的な笑みは、俺の思考を一瞬にして凍りつかせるのに十分な威力を秘めていた。例えるなら、絶海に浮かぶ楽園。極寒に灯る炎。砂漠に降る雨。挙げてみるときりがない。とにかく奇跡に等しい癒しの恵みを、まるで擬似的に体験したかのような、言葉で表現しきれない感情がこみ上げてきたのだ。
今、カトリーナさんは俺に礼を述べたのか? でもどうして? 俺は誰かに感謝されるようなことはしていない。俺が彼女の夫と国民を守っただなんて信じられようか。
むしろ逆だろう。俺は大勢の人たちを殺した。一生掛かっても償えようのない大罪を、俺は抱え込んでしまったというのに……。
「俺は、大勢の人をこの手で殺めた……」
「キリヤ君……」
お嬢が悲しみを帯びた声音で俺の名を呼ぶ。
ああ、わかってる。わかってるさ。今頃後悔したって死んだ人は生き返らない。だからこそ、俺が一体何を冒してしまったのかはっきりさせなければならないんだ。俺は誰かに感謝されるようなデカイ人間なんかじゃなく、人殺しを否定した最低な男なんだってことを。
「取り返しのつかないことをした……。あなたの感謝よりも、もっと大きな罪を背負っているんだ……」 もういい。これ以上ここにいると自分を抑えられなくなる。
俺は踵を返し、そそくさと彼女らの傍を離れた。
===============
再び背を向けた王子の姿を、カトリーナは黙って見送ることしかできなかった。
「そんなことはない。あなたは愛しい人を守るために身を挺して守ってくれた」と、一言告げればどんなに楽だっただろう。だが彼にとって、その言葉は単なる偽善でしかないに違いない。迂闊な発言でキリヤ王子を傷つけてしまっては元も子もないではないか。
(戦場に立ったことのないわたくしが、そもそもあの方に感謝すること自体、愚かなことだったのでしょうか……)
戦争で誰かを守ることは、つまり誰かを傷つけてしまうことに繋がる。血で血を洗う争いでは、避けることのできない理。あの若き王子はそれを身を持って知っている。そしてそこから生まれた罪は、決して美化して讃えることなどできない許されるべきことではないと。
失言だったのだろうか。少なくとも謝礼は、まだ早過ぎたのかもしれなかった。
「ははうえ。勇者様もう帰っちゃうの?」
見下げると、リンドが去っていくキリヤ王子を指差して問うていた。
救国の英雄と噂される異国の王子に会いたい、そう夫に何度もお願いしていた息子のための力になってやりたい。一緒に遊んでくれたのなら、息子にとってとてもかけがえのない一日になっていたのかもしれないだろう。だがもう彼を引き止めることはできそうにない。
カトリーナはリンドの髪を指で梳きながら、優しく微笑んで首を左右に振った。
「勇者様はとてもお忙しいの。残念だけれど、お話はもうおしまい」
「えええ! だってまだ一緒に遊んでないよ! 勇者様と一緒に遊びたい!」
「リンド、我が侭を言ってはなりません。キリヤ殿下にも成すべきことがあるのですから」
「むぅ……」
唇を尖らせていじけるリンド。
いつも素直に従う息子が、ことキリヤ王子のことになると若干反抗的な態度を取るようになっている。英雄や勇者という存在に目がないリンドにとって、身近に救国の王子様が現れたことは待ちに待った機会なのだろう。キリヤ王子と執拗に関わりたくなるのもわかる気がする。
「あの、カトリーナ様?」
「はい? 何かしら、セレスさん」
そんなぎこちない中庭の空気を払拭するかのように前に出たのは、傍らでずっと様子を窺っていたセレスであった。
「その、キリヤ君が失礼な態度をとってしまって……すみませんでした……」
遠慮がちに告げるローブ姿の少女に、カトリーナは苦笑を禁じえない。
「あらあら。失礼だなんてそんなことはありませんよ。わたくしは小国の一貴族で、キリヤ様は大国の王子様。あの方がわたくしに無礼をなさったところで、わたくしがそれを咎める権利なんてありはしないのですから」
「そ、それでも、今のキリヤ君は少しおかしいっていうか……。普段はあんな粗暴な人じゃないんです! いきなり態度が変わったりして、あたしも混乱したことがあって……ですから――――」
つっかえながらも一気に捲くし立てたセレスは、一息吐いて再び言葉を繋げた。
「ですからっ、またキリヤ君をここに連れてきます! 今度はリンド王子と遊べる時間も設けて、みんなで楽しくなれるようにしてみせますから……!」
言い終わるや否や、魔道士の少女は過ぎ去ったキリヤの後を追うように中庭を出て行く。
まるで突風が通過していったような余韻の残る中庭で、再び静寂が包み込む。
メイドたちはただ黙って、主であるドレスの女性を見つめていた。
「……ははうえ。あの人たち、また来るかな?」
隠すことは何もない。カトリーナは安心の意味も込めて、息子に優しく笑いかけた。
「ええ、きっと、必ず」
==============
本城の裏門から外部に抜ける石造りの廊下を突き当たりに進むと、円形状に建てられた別館が城壁に密着する形で構えている。
鉄製で補強された屋根と両開きの扉がその建物が重要なものであることを物語っており、実際この別館はリディア王国の政の詳細な方針を決めるときに用いる国会議事堂の役割を担っていた。
小さな尖塔が幾つも並び、その内一番中央に建つ塔の頂にはリディア王国の国旗が据えられている。リディアは元々中立国家として存在していたことも関係し、その尖塔ではためく旗の種類はリディア王国のものとソーサラー教会の“守護の十字架”のみ。だが今回、初めて他国の指導者がこの場に参堂し、これからの近隣諸国との取り決めを行うということで、新たにリディアの紅い国旗以外にも女性の像を描いた黒と青の旗が議事堂の頂上に揚げられた。
それは『四大国家』として大陸中に名を馳せるヴァレンシア王国の“聖王妃の御旗”。ヴァレンシア王国の初代君主、ウーサー・ヴァレットの妻であるレンシア・コンスタンチーヌの肖像である。
人の顔を描いた旗を国の象徴とするのは大陸でも例外中の例外であった。いくら高貴な身分の女性だからといっても、貴婦人は皆歴史の影で誇られる存在なのである。女性は一寸でも歴史の大舞台に立ってはいけないという理屈が、長年の時代の移り変わりの中で人々の心に宿った考え方であり、“女性は目立つべからず”などと教えを説く聖職者まで現れたことも、世人は誰しも不服に思うことはなかった。
そんな不平等な世界の中でも唯一、女性として表舞台を立つことを許されたのがレンシア・コンスタンチーヌなのである。生涯夫のために尽力し、誰一人隔たりなく平等に接することを約束した聖女。その偉大な功績と人望は、他大陸にも大きな影響力を持って広まったとされ、彼女が授かった称号の数はかの伝説の魔道士とほど差異はない。もしやレンシア王妃自身が古代魔道士なのではなかったのかという逸話が生まれるくらいで、彼女の英雄譚は数知れず、千年経った今でも彼女を知らない者はこの大陸にいないとされているのだ。
彼女を象徴として掲げることに、誰一人不思議に思う者はいないのである。
そんな憧憬を抱かせる旗の下、議事堂に集まった国の重鎮たちは数えるほどしかいなかった。元々小さい国であるため、政治を担う大臣もそんなに数は多くはないのだ。
軍事の統帥権を掌るレイニス王子と、彼を筆頭に数人の高等官僚が席を並べている。向かい合うは、先ほどデュルパンに到着したばかりのアレクシード国王と、彼に控える十数人の親衛隊。だが現在この国には、アレク王以外にも多大な影響力を持つヴァレンシア側の面々が数人残っている。彼らが一挙にここに参集すれば、この議事堂は今までにない以上の緊張に包まれることだろう。たかだか小国の戦後処理及びこれからの方針を決めるために、こんな小さい会議場に称号持ちの有名人たちが集うのである。いくら戦場の猛者であるレイニスでも、緊張を隠せない。
(“不敵王”アレクに“無情”のアルテミス、さらに“魔人”アレン、か……。キリヤ王子の二つ名がどのようなものかは知らないが、大軍を一撃で壊滅させる魔術の使い手なんだ……きっと相当な名声を受けているに違いない)
すでに使いの者を各人物たちに送った。じきに“彼ら”もここにやってくるだろう。あとはただ、待つのみである。
――――それまで、レイニスの理性が保てるのであればの話だが……。
「……ったく、何だよこの暑苦しい空間は。メイドはどこだ。女性官僚は何処に!? 男だらけじゃねぇかちくしょう! もうこの際お嬢でもかまわんっ。誰でもいいから女性を連れて来い!」
ブチッ。
「……が、い、む、卿……ッ!」
「は、はい……」
「いい加減堪忍袋の緒が切れたっ! あの薄情者を叩き斬る斬首刀を持って来い! 二度と口が聞けないよう胴と首を切り離してやる……!」
「お、落ち着いてくだされ。まだ女性に手をお出しになってはおりませぬぞっ……」
「今の言葉を聞いただろう! あの不埒王め、女性の姿を視界に収めた途端襲い掛かりそうな勢いだ! 過ぎてからでは遅いのだよ……」
「我々の優先すべき事態をお忘れですか! リディアを守るためにも、かの大国を敵に回すのはあまりに分が悪い。ここは何卒、自重されますよう……」
「くっ! 無力な自分が不甲斐無い……!」
いや、そもそもあの男が悪いのだ。心の内をさらけ出して自分の欲望に従うがまま、周りに当り散らしている。あれが国民から絶対的な人気を誇るアレク王などと誰か信じることができようか。去年の建国祭の時に一度顔を会わせたが、あれほどまでに内面が腐っているとは思いもしなかった。
レイニスは机に肘を立てて指を組み、イライラとアレク王を睨みつける。もし彼に一睨みで相手を殺せるような特殊能力が備わっていたなら、今頃アレクは数十回に及び死に絶えているに違いない。そんなにもレイニスの眼光は威嚇を通り越して殺意染みていた。
「国王陛下、ご入場ッ!」
衛兵の叫び声が合図かのように、議事堂内の騒々しさが一瞬にして止む。
リディア側の官僚たちが一斉に立ち上がり、入口の方に向き直った。もちろんレイニスも例外ではない。兵士たちに支えられるように広間へ足を踏み入れたリディア王の傍に駆け寄り、椅子に座らせるよう促す。
それまで誰も口を開かなかった。あのアレク王でさえ、老王が椅子に腰掛けるまでまったくの無表情を保っていたのである。なるほど、リディア王国は小国といえど、その指導者である父は確かに凡人ではない。いかに大国の主といえど、君主として比類なき力を発揮した相手に対する礼儀は弁えているのだろう。
「父上、ご無理を強いてしまって申し訳ありませんでした……」
「構わぬ。国の明日を決める重大な会議に、私が出ないわけにいかんだろう」
衰弱した父の顔はいつにも増して険しい。まるでレイニスを咎めるような刺々しい感情が渦巻いているかのようだった。
レイニスの戸惑いに勘付いたのか、老王は空咳をして息子に向き直る。
「私に言うべきことがあるのではいか?」
「……はい。陛下の意向に逆らい、勝手に軍を興してランスロット軍を迎え撃ったことは――――」
「そうではない……!」
レイニスの謝罪を遮り、リディア王は声を荒げる。
「私が腹を煮やしているのはそのことではない。無事王都に凱旋したお前の姿を、お前は一度として私に見せたことがあったか?」
「……っ!?」
そういえばそうだった。昨日戦場から帰還して一度も父に顔を見せていない。親が子を想うのは当たり前だ。それなのに、自分のことを一番心配していたはずの父親に何の報告もしていなかったというのは一体どういう了見か。父の期待と願いを裏切ってしまった気がして、レイニスは罪悪感で居た堪れなくなった。
「諸事の急務で多忙だったのはわかる。私に代わり、そなたに全て任せてしまうのも心苦しかった。だがレイニスよ、息子の安否に憂う親の気持ちも理解できよう。そなたの生還は、私の虚弱な身体を奮い起こすに十分な特効薬と成り得たのだから」
「父上……ご心配を、お掛けしました」
うむ、とリディア王は大きく頷くと、それまで傍観していたアレクに視線を向けた。
「ヴァレンシア王。老いぼれな病体故、腰掛けたままのご挨拶をお許しいただきたい……」
アレクの口元が吊りあがり、不敵な笑みを作る。
「できれば、堅苦しい挨拶も抜きにしてはいただけないか? そういうのはあまり得意じゃないのでね」
「ふっ……。貴公は、ガレス殿と随分違う人生を歩んできたようだな。話し方から考え方、全てがあの賢王と正反対だ」
「褒め言葉として受け取っておくよ。今の時代、何事にも高慢にならないとやっていけないのさ。倣岸不遜っていう言葉、まさに孤高の覇王である俺に相応しいと思わないか?」
「はて? 貴公が孤高の覇王とな? いつも若き騎士団長の尻に敷かれているという噂をよく耳にするが、さて……どちらが真であるか?」
「はっはっは! 何を言ってるんだ。俺が部下の尻に敷かれるなんてあるわけないだろう。とんでもない噂も立ったものだ」
「……まあよい。いずれ証人もこの場に訪れるだろう」
決して和やかな会話とは思えないが、レイニスは二人の軽い意思疎通に若干混乱していた。
(こ、これが国の指導者たちの会話だと? 何だこの緊張感のなさは!?)
周りを見渡せば、他の面々も王たちの話し合いに戸惑っているようだった。もっと緊迫した雰囲気を想像していた自分たちにとって、この穏やかな空気は異常事態である。先ほどまでアレクに殺気を振りまいていたレイニスも、二人の何気ない会話にすっかり怒りを忘れてしまっていた。
そしてさらに、そんな当惑した一同に追い討ちを掛けるかのように新たに二人の人物が入場する。
「ヴァレンシア王国のアルテミス・ケリュネイア近衛騎士団長及び、アレン・キムナー中佐入場ッ!」
頑丈に閉められた扉が開き、中から颯爽と現れた男女はどちらも軍服に身を包んでいた。一人は気の弱そうな腰の低い青年。昨日客室の前でレイニスを“部外者”扱いした王子の付き人である。そしてもう一人は父の言う証人であり、アレク王を尻に敷いているであろう張本人。“国家の盾”として名高い近衛騎士を率いる女性軍人であった。
――――いや、ちょっと待て。今ここに女性が現れればあの男が……。
ぞわり。
身の毛もよだつ鳥肌が全身を襲う。
元凶は間違いなくあの不埒王。充血した目をカッと見開き、まるで三日三晩何も食べてない野生の肉食獣が久しぶりに見つけた獲物を狙い定めるが如く、アルテミスに向かって今にも飛び掛りそうな低い体勢を作り上げる。本格的にまずい状況であった。
「アルテミス殿! 早くそこから逃げるんだっ!」
こうなったらもう何振り構ってはいられない。獰猛で卑しい野蛮人から女性を守るため、レイニスは女騎士に向かって警告の声を上げる。
しかし、それがレイニスの致命的な失敗であった。いきなり大声で名前を呼ばれたアルテミスがこちらに顔を寄越したために、後ろで機会を窺っていたアレクの行動に気づかなかったのである。しめた!とばかりに背後から接近するアレクもとい陵辱実行犯。こちらに気を取られるあまり、アルテミスは迫り来る君主の存在に対応できていないのである。このままではアルテミスがあの男に押し倒され、羞恥の極みを公然に曝してしまうことになってしまう。そんなとんでもない事態、ましてや父のいるこの威厳ある場所で起こさせるわけにはいかない。
考えるよりも先に身体が動いていた。反射的に腰の剣を抜き放ち、今まさにアルテミスに飛び掛ったアレクを狙い投擲の構えを見せる。
そしてレイニスはこの後思い知ることになった。彼の不安や危機感は全て杞憂であったと……。
「アルゥゥゥゥゥゥゥウウウウウ……ぎゃふがあっ!!?」
「え……?」
奇妙な悲鳴を上げ、アレクが弾け飛ぶ。
そう、まるで飛んできた鞠を蹴り飛ばすかのように、頭上に迫ったアレクを容易に跳ね返したのである。別に魔術の類ではない。あくまで物理的に、そして正確に、無防備になったアレクの顎目掛けてアルテミスの振るったレイピアの柄頭がめり込んだ。
赤い鮮血を撒き散らしながら、綺麗な弧を描いてアレクが舞う。その様は美しくもあり、同時に覇王(自称)という孤高の証を誰もが否定した決定的な瞬間であった。
「ぐふっ!」
背中から地面に激突し、ぴくりとも動かなくなるアレク。
恐らくこの場にいるほとんどの者がたった今起きた事件の詳細を知る由もないだろう。唖然となった議事堂で唯一まともな思考を働かせていたアルテミスは歪みない動作で得物を腰に仕舞い、怪訝そうな表情でレイニスを見つめた。
「レイニス王子。逃げろとは一体どういうことです?」
「い、いや……それは今君が……」
その原因となった人物は、アルテミスから少し離れたところで完全に伸びている。自分で撃退したというのに、その不可思議な反応は一体どうしたものか。
「……私が何か?」
「『アレク陛下が襲い掛かってくるから逃げろ』と言いたかったんだが……どうやら忠告が無駄になったようだな……」
「陛下、ですか? そういえば、陛下はどこに?」
……まさか、この女騎士は寝ぼけているのか?
「何を言っているんだ? あなたの後ろで気絶しているだろう。全てアルテミス殿がやったことじゃないか。わかっていて迎え撃ったんじゃないのか?」
そこで初めて気がついたらしい。後ろを振り返ったアルテミスが床に伸びているアレクを認め、なるほどというように大きく頷いた。
「何やら背後で小バエより煩わしい生き物が蠢いているかと思っていましたが、なるほど。女性に飢えた陛下だったんですね。道理で武器をぶつけた時の重みが尋常ではかったわけです。低俗な気配がとてもよく似ていたものでまったく気がつきませんでした……」
せめて驚け。
きっと全員がそう思ったに違いない。アルテミスの顔は不自然過ぎるほどに無表情が保たれていて、話す言葉も一々容赦のないものばかりであった。これではむしろ、被害者と化したアレクが憐れに思えてくる。恐るべし裏の支配者。いつの日か彼女が大陸を牛耳る時代が来ても、きっと驚かない。
「レイニスよ……」
それまで沈黙を守っていた父が、掠れた声で呟いた。
「あのご令嬢は重要危険人物だ。この会議、心してかかれ」
「御意に……」
それまでにアレクが復活していればの話だが。
一難去ってまた一難。その荒らしい波はリディアを飲み込もうと津波になって押し寄せてくる。この話し合いの場が、殺し合いの場にならないことを祈るばかりだ。
三十三話目終了…
レイニス王子はアレですよ、あれ。
王位受け継いだら“投擲王”なんて称号をつけられんですよ、きっと。




