第十六話 真の王
セレスの朝は、いつも日の出とともに始まる。
比較的早い方だが、それは彼女が宮廷魔道士という役職に就いているからという理由ではない。
もちろん、それも宮殿を守る魔道士としての立場上、早めの起床は当たり前なことだが、セレスは魔術育成学校に在籍していた経歴がある。その影響で学生時代からの規則的習慣が身体に染み付いているからであった。
「…………」
別に何かするわけでもない。
ただ毎朝この時間に目が覚め、二度寝するにはさすがに遅い時間だから、そのままでいる。
無意味な時間の浪費だが、彼女自身この事には何とも思っていないようであった。
そんな彼女が完全に覚醒する時間は、給仕のメイドが眠気覚ましのハーブティーを部屋に運んでくる頃。
ボサボサに跳ねた長髪を無意識にいじっていると扉が開き、「失礼します」という控えめな女性の声を聞いて、やっとセレスは仕事の支度をするために動き出す。
ちなみに、日の出からメイドが部屋に入ってくるまでの時間差およそ一針(一針=一時間)あまり。
つまりセレスは起床から一針を、このぼーっとした時間に委ねるのだ。
セレスは窓辺に取り付けられたベッドから足を下ろし、裾の長いネグリジェを引きずりながら部屋の端へ向かう。
「セレス様」
突然、先ほど部屋に入ってきたメイドが、やはり控えた態度でセレスに声を掛ける。
セレスは壁際まで歩き、そこで初めてメイドを振り返った。
「何?」
「洗面所は反対側です。セレス様」
「あれ? そっちだっけ?」
「ええ。“そっち”です」
「“こっち”じゃないの?」
「いえ。“そっち”です」
「……そう」
またヨタヨタと歩き出すセレス。それを見つめながら、メイドは小さく微笑んだ。
それはまるで小さな子を見守る母親のようであったが、メイドの役目はあくまで給仕。セレスとは早朝以外で会うこともない。
セレスが洗面所に通じる別室へと消えたとき、メイドは仕事のために動き出す。
まず初めにベッドの掛け布団をバルコニーへ運んではたきで埃を充分に落とす。下に敷いたシーツは皺を伸ばし、必要があらば汚れを浄水用魔道具で綺麗にしてそのまま。
本当は毎日取り替えなければならないのだが、セレス本人がそれを断ったので、最低限できる限りの清掃を行っている。
特に枕を変えることには断固として反対したため、疑問に思って何故かと聞いたところ……。
『だって、あたしの匂いが消えるじゃない』と真顔で答えられた。獣人族でもそこまで匂いに執着しないだろう。
ベッドの清掃が終わると、次はティーセットの乗せられた台車を小テーブルに並べる作業だ。
そのころになると、セレスも部屋に戻ってテーブルの前の椅子に座る。
顔を洗ってすっきりしたのか、その表情は清々しいとまではないし、眠気はなかった。
だがセレスの顔を見たメイドは、それとは別にどこか彼女の表情に憂いが帯びているのを感じた。
セレスの友人のアプロディーナ王女のような親密関係はないが、それでも今日はどこかいつもと違うような気がしたのだ。
「何か嫌なことでもございましたか?」
セレスの前に置かれたカップにお茶を注ぎながら、メイドはさりげなく聞いた。
その言葉にセレスは少し驚いたような顔をしたが、俯いてすぐに苦笑を浮かべた。
「エマったら……アプロディーナ様と同じこと言ってる」
「あら? では本当にご機嫌がよろしくないのですか?」
「別にそういうのじゃないけど……。機嫌はもう直ったのよ、うん」
曖昧な返答をして、セレスはカップに口をつける。
しかし、普段正直な彼女が質問をはぐらかすなんてことはない。それが彼女自身の内面的問題なら尚更だった。
朝のひと時なティータイムが終わり、次にメイドのエマはセレスの身支度の世話をする。
大型の鏡を備えた化粧棚の前にセレスを座らせ、腰まで垂らした長い金髪に櫛を入れて梳かす。
髪を一房手の平に添え、櫛を当ててゆっくりと上から下に梳かす動作を繰り返していくうちに、セレスは再びウトウトと瞼を閉じかけていた。
「…………」
「…………」
このとき、お互い何も喋ることはない。
それがこの二人のいつもの習慣であった。
しかし、今日は違った。
突然扉を叩く音が聞こえたと思いきや、部屋の住人の返事を待たずくぐもった声が聞こえた。
「セレス様、朝早くに申し訳ございません。国王陛下より至急大会議場に来るようにとのお達しです。早急なご支度をお願いします」
一気にまくし立てた一方的な言葉にエマは怪訝に眉を顰め、一旦作業を中断する。
(こんな時間に召集? 陛下はまたセレス様をからかうおつもりでは……?)
不審に思いながらも、エマは扉の前に立った。
「私はセレス様の給仕係です。失礼ながらどちら様ですか?」
「これは失礼した。私は近衛騎士の者。団長閣下よりセレス様にもぜひご参集願いたいと言伝られ、頼まれた次第だ」
「え? あの…セレス様だけではないのですか?」
エマは思わずセレスを振り返った。
彼女もこちらを向き、首を傾げながら話を聞いている。
どうやら彼女にも理解できないらしい。
「いや、他の宮廷魔道士殿や大臣諸氏にもすでにお達しがある。何でも緊急事態が発生したらしい」
「緊急事態!?」
エマが驚きの声を上げ、その瞬間視界の端を金の糸が舞った。
「エマっ!」
隣にやってきたセレスは、朝の寝ぼけ顔とは打って変わって真剣な表情だった。
「髪はそのままでいいわ! 服を着替えるから、エマはローブの用意を!」
エマに断る理由はなかった。
大急ぎで身支度を済ませたセレスは、長い髪を括らずそのままにして廊下を走った。
途中同僚の宮廷魔道士たちと合流し、そのまま大会議場のある三階中央へと向かう。
「緊急事態だと聞いたぞ。いったい何があったんだ?」
セレスの左隣を早足で歩いていた魔道士の男が、苛立ちを含んだ声音で呟く。
「大臣どもも総集めらしいじゃないか。しかもこんな朝早くに」
「文句を言っている場合ではなくってよ。恐らくこの召集は、『東の国』に何か動きがあったからじゃないかしら……?」
そう言葉を返したのは、セレスの右を歩く女性の魔道士だ。
「ふんっ。そのことなら一昨日にも同じことを聞いた。何でも、東部占領地に駐留させてあるランスロットの飛竜隊を全て本国に撤退させたらしいな……」
その話ならセレスも昨日アレクより聞かされている。
王都魔道管理局の拡張型伝報水晶が全て軍の貸切になっていた理由。それはどうもヴァレンシア東方方面軍が偵察部隊を情報収集のために敵国へ…つまりランスロット王国に侵入させたかららしい。
「もしかして…ランスロットに送りこんだ偵察隊から重大な知らせが届いたのかも……」
セレスは考えられる推察を言ってみたが、女性の魔道士はそれに首を振った。
「それは有り得ないわね」
「何故そう言い切れる?」
男の魔道士が問う。
「私も気になって、昨日管理局の軍務科まで行ってきたのよ。そしたら、偶然前線の司令官さんから伝報が届いてね。宮廷魔道士の名分で特別に内容を見せてもらったの」
「それで? どんな内容なの?」
セレスが先を促す。
女の魔道士は隣を歩く二人の魔道士を横目で窺い、苦笑気味に口を開いた。
「『任務失敗。先発隊からの応答なし』」
「そんなっ……!?」
「ちっ、結局僕たちの方が損をしただけじゃないかっ」
『――――先発隊からの応答なし』
つまりこれは、投入された偵察隊からの連絡が完全に途絶えたことを意味しており、偵察兵たちは口止めのため敵に皆殺しにされたか、不慮の事故が発生して通信が不可能な事態に陥っていると考えられる。
だが恐らく後者である可能性は極めて低いだろうと、先を急ぐ魔道士三人は内心理解していた。彼らは魔術を扱うことに特化した人材である一方、心理や倫理的論理という哲学にも深い知識を有している。選び抜かれた精鋭部隊の応答がないということは、それはつまり敵に敗れたということに他ならないと、客観的に思考を働かせてたのである。
それ以降三人の会話は途切れ、朝早くにも関わらず慌ただしい雰囲気の宮殿内を歩き続けた。
二人の同僚に比べて明らかに背丈の低いセレスは早足では到底二人に追いつかず、所々小走りになった所為もあって、大会議場前の大扉に到着した頃には息も絶え絶えになっていた。
「まったく……君は魔術に関しては一流なのに、運動はからっきし向いてないんだな」
肩で息をするセレスに向かって、同僚は首を振って呆れる。
「ち……違うわよ……あたしじゃ、なくて……あなたたちが、速いだけなんだから……」
詰りながらも、セレスは反論する。
「速い遅いの問題じゃないだろう? 君の体力があるかないかだ」
「そ、それにしたって…やっぱり、速いわよ。ホント…男の歩幅って、不公平だわ……」
「それでは、彼女の歩く速度はどう説明するつもりだ?」
そう言って同僚が指差したのは、扉の前で衛兵と出席者の確認を取る、同じく同僚の女魔道士だ。
「イ、イアソンは……その、あれよっ! 足が長いからよ!」
「まぁ…嬉しいことを言ってくれるじゃない」
聞こえてたらしい……。
「けれど、私が速く歩けるのは“これ”があるから」
こちらに戻ってきた女魔道士がローブの先からブーツを出す。
「加速化の付加魔術が施された“マジックブーツ”。平常の徒歩より1.5倍の速度で歩くことができるの。どう? 便利でしょ?」
「…………」
「そんな反則的な魔道具があったなんて……知らなかった……」
「ああもうっ! あたしだってラズルクの森で魔獣と競争――――――」
「お待たせしました魔道士方。臨時会議出席の許可は下りております。どうぞお入りください」
セレスの嘆きは途中で遮られ、代わりに衛兵の声が辺りに響いた。
直後に堅い材木で作られた大扉が、二人がかりで開けられる。
「話はお預けみたいね。さあ、宮廷魔道士として恥じぬよう、気を引き締めていきましょう!」
「え、ええ。わかったわ」
「やれやれ……。僕としては、会議の議題がすごく気になるところだけどね」
そして“国家の守り手”たちは、議場へ足を踏み入れた。
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睡眠不足で痛む眉間を揉み解しながら、俺は洗面器の前に取り付けられた鏡を覗いていた。
至って普通の鏡だ。
別に真っ黒い鉤爪のついた腕が生えてくるわけでもなく、鏡にまったく知らない姿をした人物が立っているわけでもない。
長きに渡る出不精によりやつれきった、神崎桐也なる臆病者のしかめっ面が映っている。
「…………」
自分で言ってて虚しいとは思わない。
気づいた頃にはこんな顔をしていたし、それがいつのことかも忘れてしまったからだ。
「今更……だよな」
『ピロリロリン! 小生もそう思うのです! キリっちの顔は、もうどうしようもないくらいにえげつないのです!』
「…………」
何か俺を馬鹿にするショタ声が聞こえてきたが無視する。
それが、“こいつ”をやり過ごすための最適手段と信じたい……。
『ピロリロリン! 極めつけは目下の隈なのです! いやー厳つい厳つい。それでは世の女性たちも恐れをなして逃げ出してしまうのです! あっ、そうなるとキリっちは一生独身のまんまなのです。やーいやーい! 人生の落伍者め。顔変えて出直してこいです!』
――――ブチンッ
余計なお世話だこんにゃろぉぉぉぉぉおおおおおおお!!!!
俺は眉間を押さえる指に力を込め、ぎゅうぎゅうと押し込んだ。
『ピロリロリン!? い、痛いいたいイタイ痛いのですぅー!』
隈ができたのは誰の所為だと思ってるっ! ああぁ? テメェが一晩中俺の頭でぺちゃくちゃぺちゃくちゃ喋ってるから眠れなくてこうなったんだろうがっ!
こうなったらもう俺は止まらない。
対人恐怖症だろうが臆病だろうが知ったこっちゃねぇ! 第一、人間かどうかもわからない奴相手に恐怖する体質は生憎と持ち合わせていない。
『ピロリロリン! “ぺちゃくちゃ”は喋ってないのです! 小生はキリっちのためを思って雑談子守唄を歌ってあげただけなのですー!』
雑談に子守唄もクソもあるかっ! っていうか子守唄だけでいいじゃねえか!
『ピロリロリン! キリっちはわかってないなぁ~。雑談は何となく聞くから眠気を引き起こすのですよ。横になってテレビを見てたら眠くなるっしょ? それと同じなのです!』
だ~か~ら~、お前の声は直接頭に響くんだっつーの!! 眠れるわけないだろうがっ!!
『ピロリロリン!? ガーーンっ! そ、そんな……それはまさかの駄目出しなのですよぉ~…』
なっ!? お前気づいてなかったのか?
『ピロリロリン! いえ、知ってたのです」
氏ねっ…………!
『っ!? ピロリロリぃいぎゃああああああ~~! 痛いいたい! ごめんなさいなのですぅ~」
【十分後……】
俺は寝不足とはまた別の意味で痛くなった頭をさすりながら、部屋に戻ってきた。
テーブルには、いつの間に置かれたのであろうか、ホテルの朝食セットみたく豪勢な食事が綺麗に並んでいる。夜食の盆も片付いていた。
アルテミスさんがまた持ってきてくれたのか? だとすると何か申し訳ないな……。
『ピロリロリン! また随分と豪華な朝食なのですよ。キリっちに食べさせるには勿体ない気がするのです』
お前に同調するのは物凄く不本意だが、俺もそう思う。
『ピロリロリン! では食べなければいいのですよ』
馬鹿言え。折角出された食事を食べないわけにはいくか。
俺はソファに腰を下ろし、両手にフォークとナイフを掴んだ。
『ピロリロリン! 持ち方がすでに下品なのです』
「…………」
無視して、元が何かわからない肉のフライにフォークを突き刺した。
『ピロリロリン! そのまま齧り付き、ソースが飛び散って服に付着する確立95%』
くっ……いちいちうるさいぞ! お前は俺の母親かっ!?
『ピロリロリン! こら桐也! お母さんはそんな持ち方教えたつもりはありませんよ』
ああああもうめんどくせーー! 食事の時ぐらい黙ってろよっ! ってか俺の頭から出てけ!
『ピロリロリン! 小生はキリっちの頭から出て行くことはできないのです。何故なら小生は、賢者様からあなたを支援するよう仰せつかったのですから』
それなら昨日の夜に腐るほど聞いた! 要は何でお前が頭の中にいるかなんだよ!
『ピロリロリン! 小生は知的精神体なので、肉体を持ち合わせていなのです』
はぁ……結局何なんだ?
『ピロリロリン! 小生は、賢者様からあなたを――――――』
それはもういいっ! わかったから何も喋るな!
『ピロリロリン! ふんっ! 何さ! キリっちは冷たいのですっ! わかりましたですぅ! 一旦回線を遮断しますのです! べぇーっだ!』
次の瞬間、ヴーン、というパソコンの電源が落ちる音が俺の頭の中に響き、それっきり煩いショタ声は聞こえなくなった。
「…………」
いきなり物静かになると何か寂しい……なんて俺が思うわけもなく、逆に“ヴーン”という音が脳内に悪影響を与えそうで不安になってくる。
しかしとんだ厄介者に居座られたものだ。これじゃ俺の脳細胞がいくつあっても足りないぞ。
俺はフォークとナイフを魔術で箸に作り変え、再び食事を開始した。
「それにしても“あいつ”…何でテレビなんて知ってんだ?」
疑問は声になってでてきたが、口に出したところで誰も答えやしなかった。
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「ヴィクター・マイルーン殿、イアソン・ポンティア殿、セレス・デルクレイル殿、以上三名の宮廷魔道士方のご到着です」
兵士が議会場で紹介したが、その場に集まった者たちの大音量というべき騒音に阻まれてまるっきり聞こえていなかった。
しかし兵士はその事を気にもとめず、そそくさと持ち場に戻っていく。
「しかし随分と騒がしいな……。半年前の決算会議の方がまだマシなくらいだ」
会議場内を見回し、ヴィクターと呼ばれた男の魔道士は呟く。
「今回の臨時召集が突然過ぎたのよ。しかも緊急事態らしいし……」
イアソンはローブの乱れを整え歩き出す。
セレスとヴィクターもそれに続いた。
主に国家の重要な取り決め時に使われるこの大会議場は、宮殿内部の中央を二階から三階にかけて吹き抜け構造になっており、二階中央の舞台を扇形に取り囲むよう議席が設けられている。
最大入場可能数はおよそ五百人。しかし現在は東国との戦時中や冷戦期の影響もあってか、武官は一部の幕僚が赴くだけだ。しかし文官だけでも今日の会議では三百議席は埋まる人数はいる。
官僚の制服に身を包んだ政治家たちの間をすり抜けながら、魔道士三人は専用の座席へと向かう。
セレスはその最中、さりげなく官僚たちを観察した。
皆周りの者達と意見を出し合って話をしているが、その表情に浮かぶのは焦りや不安、困惑といったなんともわかりやすい感情だった。
やがて目的の場所にたどり着いた三人は、給仕の者たちに椅子を引かれそれぞれ席につく。
それを見計らったように突然鐘の音が会議場に響き渡り、周囲に静けさが下りた。
誰も何も喋らない空間。
誰もが固唾を呑んで見守る先は中央の舞台。
そこに描かれた転送陣が淡く輝きだし、刹那一際眩く光った次の瞬間には二人の人物が舞台に立っていた。
近衛騎士団団長のアルテミスと不敵王なるヴァレンシア王国現国王アレクシードである。
アルテミスはいつもと変わらず姿勢良く直立しているが、我らが主のアレクは大胆にも大あくびを臣下の前でやってのけ……てはいなかった。
その顔に張り付いていたのは至って真剣な表情。
セレスにとっても一年で一回見れるか見れないかの真面目顔で、それが逆にセレスを心の底から不安にさせる。
「国王陛下に礼ッ!」
誰かから発せられたその声に会議場にいる全員が立ち上がって頭を下げた。
セレスも一歩遅れてそれに倣う。
「皆、座ってくれ」
「着席ッ!」
アレクの声にはいつもの呑気さはない。
むしろ鋭いと言っていい。
「大臣諸君。並び我が王国の政治と防衛の一端を仕る官僚諸君。此度の緊急な召集に集まってもらったことに感謝する」
音声拡張の魔道具によって響くアレクの声に、いつものふざけた様子はなかった。
場の雰囲気が緊張に包まれる。
近くで息を呑む音がセレスには聞こえた気がした。
「すでに知っている者もいると思う。昨日派遣された偵察部隊が、ランスロット王国へ侵入してから僅か二針でその応答が途絶えた。王国軍上層部も任務失敗の報を発表している」
少なからず起きる驚きの声。
それにかまわずアレクは続ける。
「その後、一度第二偵察隊を派遣するかを検討していたときだった。突然、東方方面軍陣営に斥候から急報が届いたんだ」
そこで一度、アレクは言葉を切って議場を見回した。
耳が痛くなるほどの静けさが、アレクに先を続けるよう促しているようだった。
そしてアレクが次に放った言葉が、この静まった会場を一気に騒然とさせることになる。
「今日の深夜未明。兵数およそ一万規模のランスロット軍がリディア王国に侵攻した」
「なっ……!?」
「まさかっ!?」
隣でイアソンとヴィクターが驚愕する声が聞こえた。
「な、何ですとっ!?」
「陛下! いったいどういうことですかっ!」
「無茶苦茶だっ! ランスロットは一体何を考えておる!」
前方の席に座っていた大臣たちが思い思いに喚く。
会議開始前以上の喧騒がそこにはあった。
「馬鹿げてる……。大陸屈指の強国家相手ならず、中立のリディア王国にまで攻撃を加えるなど…」
ヴィクターの呆然とした呟きが聞こえてる。
「……本当に。狂ってるとしか言い様がないわね……」
それに同意したイアソンも、声に動揺は隠せなかった。
リディア王国はヴァレンシア東部に位置し、ランスロット南部と隣接する『緩衝小国家』である。
ヴァレンシア王国に次ぎ古い歴史を持つ国家であるリディア王国は、昨年建国八百年記念の式典を挙げたばかりであった。
ヴァレンシア側からもアレクが代表としてその建国祭に赴き、その際セレスが付き添いで一緒に行っていた。
リディア王国首都のデュルパンは、古風の街並みが目立つ落ち着いた場所だったのを、セレスは一年たった今でもよく覚えていた。その時は本気で王都に移り住もうかと思ったほどである。
現国王は齢七十歳を超える壮年の人間族。次期王位継承者である息子は王立騎士団を率いる団長で、すでに妻と子供を持っている。
人口比率の低い小国家であるのにも関わらず、兵役制度は今では珍しい試験制。軍職に就ける国民は限られ、必然的に兵力も少数だが、練度や戦闘力は『四大国家』と引けを取らない精鋭軍なのである。
同じ小国であるランスロットに易々負けるとは思えないが、総勢一万相手に勝てる可能性は極めて低いだろう。
「陛下の御前です! お静かに!!」
突如響いた高音に再び静まる会場。
舞台に目を向けると、アレクが顔をしかめながら耳を塞いでいた。
叫んだのは恐らくアルテミスだろう。
アルテミスが一歩後ろに下がり、アレクが前に出る。
「で、そのことの詳細については、軍務大臣のファーナグに話がいっている。今から彼に詳しい現状を話してもらう」
アレクの言葉が終わると同時に、一番前の議席にいた人物が立ち上がった。
舞台上のアレクに一礼し、後ろを振り返る。
セレスは目を細めてその男の容姿を観察した。
身長は平均男性より少し高いといったところ。肌は浅黒く、髪は薄い灰色をしている。さらに側頭から黒い突起物が生えていた。
「あの人……鬼人族?」
「驚いた……。魔人種の末端が、軍の総指揮官をやっているなんてな」
ヴィクターも目を丸くする。どうやら彼も知らなかったらしい。
「あなたたちねぇ……」
イアソンがその様子にため息をつく。
「仮にも国に仕える魔道士なのよ。せめて政府の重鎮たちの顔ぐらい覚えたら?」
「イアソンは知ってるの?」
「当たり前よ。彼は元北方方面軍の参謀長で、五年前にガヌロン宰相に認められて大臣に就任したの」
「えっ? ガヌロン先生に!?」
「おい二人とも! 始まるから静かに頼む」
ヴィクターの注意に、魔道士の女性二人は視線を戻す。
「軍務大臣のファーナグと申します。状況が状況ですので、細かな段取りはなしとしましょう…」
重々しい空気の中、さらに低い声がファーナグという大臣の口から発せられた。
「先ほどの陛下のご報告からあった通り、本日未明、飛竜隊を主力とするランスロット王国軍約一万がリディア王国北方の国境砦を奇襲。そのままリディア領土内に侵入し、現在王都に続く北の街道で陣とっている模様です。これに対し、リディア軍も挟撃作戦による反撃を行いましたが、ランスロットの大軍に已む無く敗北。これ以上の長期戦不可を確信したリディア政府は、我々ヴァレンシア王国に援軍の要請を決行。すでにその第二報が王都魔道管理局の方に届いております」
「これは確認したわけではないが、ランスロット軍に従軍する飛竜隊……それは恐らくヴァレンシア東部占領下に置かれていた飛竜隊だと、俺たちは考えている」
アレクがファーナグに続く形で付け加える。
“俺たち”というのが、どれほどの数いるのかはわからないが、アレクの考えにはセレスも同感だった。
「今はまだ援軍派遣の検討中だとリディア側に伝えている。だが、ランスロット軍は予想以上の強行軍でリディア北部の街を次々と占領し、リディア王国はほとんど後がない状態だ。今日中に取り決めなければ……」
そこで、アレクはファーナグに視線を寄越した。
それに目礼し、大臣が後を次ぐ。
「王都デュルパンは一万の軍勢に囲まれ、瞬く間に陥落することでしょう。しかし我々にはランスロットに占領された東部領土の問題があります。敵の戦力が手薄な今、東部奪還は容易……。ヴァレンシアの名誉再起にも繋がり、これ以上の利益は他にありません」
しかし…、と大臣は続けた。
「ヴァレンシア王国の背後には“教会”が控えております。もし我々がリディアを見捨て、自国の損得で動いたならば、途端に“教会”から責任追求を受けてしまいましょう」
「……そうなれば、ヴァレンシア中から魔道士たちがいなくなるな……」
そう呟いたのはヴィクターだった。
“教会”はエリュマン大陸の魔道士の管理を受け持っている。セレスの魔道士としての証明書も、全て“教会”が発行しているものなのだ。
つまり“教会”がヴァレンシアへの魔道士派遣を禁止してしまえば、ヴァレンシア王国はあっという間に魔道士のいない国になってしまうのだ。
現状の冷戦下では、そんな事態は何としても避けなくてはならなかった。
「俺としては“教会”とか名誉とかはどうでもいい……。いや、どうでもよくはないんだが、それは全部二の次なんだよ。一番重要なのは国民たちの安全な生活圏の確保……何より彼らの生命を護るこだ」
アレクの熱弁に、思わずセレスの頬が緩む。
変態で怠け者で口が悪いといったアレクの短所は、とてもではないが王として国を治めるのに向いていない。しかしそれを大きく補うように、彼には民想いという美点がある。政の理念に左右されず、他者の感情を優先する考えは王族として珍しく、そして何よりその珍しさに釣られたセレスはもっと珍しいとしか言いようがなかった。
「俺はこの国の民を護りたい……! そしてリディアも助けたい! こんなのは欲張りで馬鹿な考えかもしれないが、それでもっ! 助けることができる命を黙って見ていることなんて俺にはできない!」
大勢を前に真剣に語るアレクはまるで別人だった。
同時にとても眩しく見えた。
話の内容に王としての威厳はない。だがその口調と態度はまさしく国と民を想う国王のそれだったのだ。
「陛下が……陛下みたい」
セレスは一度目を擦って、再びアレクを見下ろしたが変わらず同じだった。
三百人を超える家臣たち相手に身振り手振りで喋るアレクは相変わらず存在する。幻影ではないようだ。
次に頬を抓ってみたがやはり確かな痛みを感じた。これで夢である可能性も潰える。
ならば……あの舞台上にいるアレクは、間違いなく本物だ。本物の“王”だった。
「陛下が……“陛下”だ」
再び呟かれた矛盾の確定は、会議場を埋め尽くす歓声と拍手の大喝采によって誰にも聞こえることはなかった。
「国王陛下、万歳ッ!!」
「ヴァレンシアに永久の繁栄を!」
「世界に陛下の名声をっ!」
「この命っ! 全て陛下の理想のために!!」
「アレクシード様、万歳!!」
国とアレクを讃える声が連呼され、そのつど議場が大きな盛り上がりを見せていた。
そしてセレスは見た。
名君と謳われた前王ガレスにも匹敵する我が主が、調子に乗った勢いで舞台から転げ落ちるのを。
やがて議員たちも平常の落ち着きを取り戻し、議席に座り直したファーナグに代わって進行役を務めたのはまたしてもアレクだった。
舞台から転落したというのに、変わらず平然としていた態度にはセレスも驚きを通り越して呆れた。いや、今更彼の言動全てに何も驚くまい、とセレスは高を括ったのである。
「よしっ! じゃあリディア王国への援軍派遣の決定と、それに伴って東部領土奪還を同時に行うという議題……全席一致でかまわないか?」
「え? この会議って、そんな議題だったかしら……?」
イアソンが隣のヴィクターに問う。
「僕に聞かないでくれ。そもそも議題らしい発表だってしてないじゃないか」
「何か異議や反対意見はあるか?」
沈黙……。
「では、これで問題ないというなら拍手を頼む」
途端、全員が意気投合したかのように一斉に立ち上がり、舞台に向けて拍手の嵐を降らした。
完全に立ち上がる機会を見逃した宮廷魔道士三人組も、遅れてそれに加わる。
「はぁ……本当にこれで良かったのか?」
「異議があるなら言えばいいじゃない?」
「嫌だね。……僕はまだ死にたくない」
「それは賢明な判断というべきかしら? それとも臆病者と非難すべきかしら?」
「勝手にしてくれ……。何かもうどうでもいい……」
その後会議は乱れることなく順調に進み、出兵に必要な補給物資の確保や軍資金の取り決め、その他政治的影響の予想など、魔道士たちにとっては専門外(特にセレス)な話し合いが行われた。
「では陛下。リディア王国へ派遣する援軍の指揮官は誰に致しましょう?」
軍務大臣のファーナグがアレクに問う。
「ああ。それなら俺の“弟”に任せることにした」
「…………は?」
アレクの何気ない発言はしかし、ざわついた議場を一気に沈黙で覆った。
「あの……失礼ながら陛下? 今、“弟”とおっしゃられたのですか?」
「ああそうだ。俺の弟に援軍の指揮権を一任する」
アレクの返答に対し、ファーナグも声に若干の焦りを含む。
「た、確か、陛下に弟君はおられなかったはずですか……?」
「今まで姿を隠していたんだよ。母親が別の腹違いでな。ずっと離宮に匿われていたのを、昨日俺が王宮に招いたんだ」
「なっ、なんと……!」
陛下の表情にふざけた様子はない、だから言ってることも本気なのだろう、と議員たちは内心納得したが、次の瞬間、前王ガレスに隠し子がいたのか、という事実に全員が唖然とした。
そしてセレスたちの方はというと……
「…………」
「…………」
セレスとイアソンは肩を寄せ合い眠りこけ、ヴィクターの姿はすでになかった。
十六話目終了…




