王と王妃⑧
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ユリアナは、ジークフリードの様子を見ながら、歓喜に沸く心の内を見せないように優しく微笑んだ。
「少し喉が渇いたわね」
チリンとベルを鳴らすと、すぐに侍女が入って来て紅茶を淹れた。
「あれ以来、毒味はしっかりしておりますからご安心くださいませ」
そう言って、ユリアナは同じ茶器から淹れたれた紅茶を一口飲んだ。
ジークフリードもいつの間にか乾いていた口を潤すために、紅茶を飲んだ。
爽やかな味が口の中に広がったが、今のジークフリードにはそれをゆっくり味わう余裕はなかった。
「その女……ソレイユ子爵夫人とリリーベルは、ウィンダリア家の血をほんのわずかだけど引いていたわ。それと同時に、リリーベルの中のは小さな欠片も宿っていた。ソレ自体は明確な意思というものは持っていなかったけれど、欠片の本体はソレをある程度、操る?それとも共鳴とでも言えばいいのかしら?まぁ、影響を与えることが出来たの。当然、ソレの宿主であるリリーベルの行動や思考に干渉することも出来たわ。幼い頃、それこそ生まれた直後からソレの影響を受けていたリリーベルは、もはやソレそのものと言ってもよかったのではないかしら」
「影響?欠片の本体とは何だ?」
微かな花の匂いが充満している部屋の中で、ジークフリードは無意識のうちに深呼吸をしていた。
「欠片は欠片。『ウィンダリアの雪月花』と呼ばれる存在の欠片ですわ。でも、それはあくまでも欠片であって、彼女たちのように初めから女神の娘として生まれたのではなくて、途中で分離して出来た存在というものらしいですわ。わたくしもあまり詳しく説明出来ないけれど。ジークフリード様、今までどれだけの雪月花が存在したと思いますか?一人一人が落としたモノは小さくても、それらが集まれば大きな塊になるんですよ」
「なら、ソレの本体は欠片の集合体とでもいうべき存在か」
「そうなりますね。でも、自らの意思を持ったソレをただの欠片と言っていいものかしら?」
「欠片が意思を持ったのならばそれは……」
心臓が大きな音を立てて鼓動しているのが聞こえる。
先ほどまで微かにしか分からなかった花の匂いが、今ははっきりと分かる。
「『ウィンダリアの雪月花』は王家の男を惑わす存在。それは欠片でも同じ。たとえほんの小さな欠片でも、太陽神様は逃したくなかったのでしょうね。可哀想なフィルバート様。太陽神様の呪いに見事にはまって、たかが欠片のためにその命を使い切った方。欠片の欠片、なり損ないのために」
そっと伸ばされたユリアナの手が、ジークフリードの顔に触れた。
いつもなら、たとえ手だけであろうとも、必要以上にユリアナが近づくと距離を取るのに、今のジークフリードはその手を拒むことはなかった。
「……ようやく貴方に触れられましたわ」
「……止めろ……触るな……」
辛うじて言葉だけはユリアナのことを拒んでいるけれど、ジークフリードの身体は動かないままだった。
「リリーベル・ソレイユは、欠片の雪月花を宿すことが出来る器候補の一人だったの。でも、大切な大切な最後の子が戻ってきたから、欠片の雪月花は彼女を守るために一番近くにいる者に宿ることにしたの。でもせっかく見つけた駒を手放すもの勿体ないでしょう?だから、小さな欠片をそのまま残して自らの手駒にしたの」
「十年前は……」
「役に立ったでしょう?フィルバート様や貴族たち、今まで雪月花を閉じ込めて好き勝手してくれたこの国の者たちにちょっとした復讐が出来たんですもの」
「あれの……どこが……ちょっとだ……」
「ちょっと、よ。だって、月の女神様は別にこの国だけの女神様ではないでしょう?この国の者たちに起きたことなんて、全体から見ればほんのちょっとのこと。それに、欠片の雪月花は他の雪月花の記憶を受け継いでいたから、貴方の存在も知っていたわ」
「おれ、の、こと、を……」
「えぇ、そう。彼女なりに必死に考えたのよ。どうすれば王家に復讐出来て、貴方と最後の雪月花を会わせないように出来るのか。どうしても会ってしまうのならば、どうすれば貴方が雪月花から離れるようにすればいいのか。もし彼女が貴方のことを思っていなくなったとしても、貴方は追いかけるでしょう?貴方の意識を変えないと、貴方は彼女から離れない」
「はな、れない、なら」
「離れるようにすればいい。貴方の意識を変えればいい。そう、強引にでも」
ジークフリードの思考の中に、花の匂いが染みこんでくる。
くらくらする。
考えが纏まらず、言葉もうまく出て来ない。
そんなジークフリードの傍に、ユリアナ以外の誰かが近付いてきた。
辛うじて動いた視界の隅に、侍女の服が見えた。
「魅了の香水は、ねっとりとした強い花の匂い。ですが、それが本当の魅了の香水の香りだと、誰が言ったのでしょう?」
「きみ、は……?」
侍女らしき女性が、ジークフリードに囁くようにそう言った。
「銀の飴の効果はありませんよ。お姉様たちや太陽神様が、私の邪魔をすることもありません。ですが、ユリアナ様、今日はここまでです」
「あら、だめなの?」
「はい。一度に全部変えてしまっては、色々と不都合が生じますから。もう少しだけ時間をかけましょう。ジークフリード様、貴方様は王妃様を心配してここに来た。ただ、それだけです。他の話は全部忘れましょうね」
香しい花の匂いと共に、優しい声がジークフリードの中に浸透していく。
どこかでもう一人の自分が何かを叫んでいるが、優しい声に上書きされて段々と聞こえなくなった。
揺れる金色の髪がジークフリードの頬を掠めたのと同時に、ジークフリードは意識を失ったのだった。
「ねぇ、ジークフリード様にここまで聞かせる必要はあったのかしら?」
「ジークフリード様がこの場に留まり、意識を深く集中させてくれるのでしたら、どんな話題でもかまいませんでしたよ。ですが、ジークフリード様は王妃様ご自身のことにはそこまで関心がないでしょうし、セレスティーナのことになれば、彼女の方に意識が行ってしまい、集中するどころではないでしょう。ジークフリード様の体内に、しっかりこの香りを送り込みたかったので」
「そう。本当に今の話は覚えていないのよね?」
「ご安心ください。この手の実験は十年前に済んでいますので。ふふ、十年前は失敗しましたが、あの時、あの強い匂いこそ魅了の香水だと認識させることは出来ましたから」
「これはあれより強力なのよね?」
「はい。あの時は少々手に入らない材料がありましたので、似た作用を持つ二種類の花で代用しました。あの匂いはその副産物です。今回はきちんと揃ったので、ちゃんとした物が作れました」
「ふーん。まぁいいわ。明日からもこの匂いの中であの紅茶を飲ませればいいのね」
「そうです。だいたい十日ほどでジークフリード様の意識は変わると思います。セレスティーナ・ウィンダリアは、彼にとって『ただの雪月花』になるでしょう」
ユリアナは、ジークフリードの頬をそっと撫でた。
「わたくしたちは、王と王妃。わたくしは、本当の意味で貴方の妃になりたいと願っていたのですよ」
想いはずっとただ一人の貴方へ。
意識のないジークフリードに、ユリアナは優しく話しかけたのだった。
「先輩、どうしたッスか?」
扉の前で待っていたヨシュアは、王妃の部屋から出てきたジークフリードの様子がどこかおかしかったので、訝しげにそう聞いた。
「そうか?特に何もなかったんだが……。ただ、さすがにちょっと疲れたな」
「馬を飛ばして帰って来たし、王妃様と話をしたッスから、さすがに先輩でも疲れが溜まったッスか?」
「お前な、人と何だと思っているんだ。まぁ、いい。俺は部屋に戻って少し休む」
「そうッスね。その方がよさそうッス」
これだけ顔色の悪いジークフリードに仕事をしろと言う者はいないだろう。
リヒトだって、国王に倒れられたら困るからきっと言わない。
「明日も王妃の部屋に行かないといけないしな」
「え?先輩、明日も王妃様のところに行くつもりなんッスか?」
「毒を盛られた可能性もまだ消えていないし、何より彼女は王妃だからな」
「いや、そうッスけど」
ヨシュアの戸惑う声に、ジークフリードは気が付かなかった。
「それに、まだ少し話したいこともある」
「はぁ。先輩がそう言うのでしたら、別にいいッスけど」
ジークフリードが何の話をしたいのか分からなかったが、ジークフリードが自分から王妃に会いに行くと言っているのだから、ヨシュアに止める理由などない。
「そうだ。彼女は、王妃なんだ」
小さく呟かれた言葉は、ヨシュアの耳には届かなかった。




