墓前
明くる日。
僕は早朝、一人家を出た。
向かった先は会社ではない。凜花が目覚めるより前に、用事は済ませて家に戻るつもりだった。
車を走らせて少しして、たどり着いた先は霊園。
車を降りて、手ぶらで歩き出した。
供え物は一つとして用意していなかった。死者を弔いに来たわけではない。だから要らないと思ったのだ。
あの日から……。
妻が急逝して、あのスマホを見つけてから。
僕の人生は姿を変えた。
愛していた人への感情は姿を変えて。
耐えられたことが耐えられなくなって。
安易な復讐に走り、誰かを傷つけた。
そして、その末……得られたものは罪悪感と少しの希望のみ。
非生産的で、苦難しかなくて……もう、二度と体験したくもない出来事だった。
怒りの感情が消え去ったわけではない。
ただ、大切な人を傷つけることの方が辛いから止めただけ。
この行き場のなくなった感情のぶつけ先を、僕は少しの間探していた。
「最初から、こうしていればよかったんだ」
そして僕は、そもそもの発端への怒りを再燃させた。
献身的で、賢くて、たくましい……。
かつて愛した妻の墓前に、僕は立っていた。
「久しぶり」
僕は呟いた。
「随分と汚くなったな、このお墓も」
一年間、ずっと放置していたのだから仕方がない。
家の仏壇とは違い、ここは凜花の手も及んでいなかった。
「……いい気味だよ」
こうして彼女の眠る場所の前に立つと……くすぶっていた感情が蘇る気分だ。
「どうだい、そこでの生活は」
怒りのままに、思わず墓石を壊してやりたい気分に駆られるくらいの激情だった。
「みすぼらしい生活を送っているんだろうな」
鼻で笑った。
「あんなことをしたんだ。今頃地獄にいるんだろ。……あいつも一緒だろうな」
笑わずにはいられなかった。
「本当、ざまあないね。身から出た錆だ。救えない。……救えないよ」
……僕は俯いた。
「何が気に入らなかったんだ?」
返事はない。
「確かに、君にはよく叱られていた。もっと家庭を鑑みろって。だけど、何が気に入らなかったんだ? 僕の何が気に入らなかったんだ……っ」
大石さんには、DNA検査をすることはないだろうと伝えていたが、あの後、結局僕は、凜花と香取さんの息子のDNA検査を行った。
結果は一致。
やはり凜花は……香取と明美の娘だった。
「君達に何不自由ない生活をさせたかっただけじゃないか。君に専業主婦だってさせた。一人で家族三人分の金を稼いできた……っ。なのに、何が不満だったんだよ……っ」
固めた拳が痛かった。
「なんで、そんな最低な男に抱かれてんだよ……っ!」
声が震えた。
「……あれ程凜花のことを心配していた君が、もう凜花を幸せにすることが出来ない。きっと、それが君の犯した罪の罰なんだ」
そう思えるようになったのは、ここ数日でのことだった。
「君の人生は、幸せだったかい?」
僕は尋ねた。
「僕は、最近……君のせいで辛い目にもたくさんあったけど。自分の人生が幸せだと思えるようになったよ」
返事はない。
「凜花がいたから」
返事はない。
「君が遺してくれた、凜花がいたからなんだ」
……返事はなかった。
「皮肉なもんだよな。血の繋がっていないあの子のこと、血が繋がっていたと思いこんでいた時以上に、僕は今、愛しているんだ」
それでも僕は、続けた。
「……愛しているんだよ」
きっと、それが僕の罰なんだろう。
家庭を鑑みようとしなかったことへの。
そして、凜花に怒りをぶつけようとしたことへの。
……その罰を、僕は一生背負って生きていくんだ。
「僕は幸せになれたんだ。あれだけの辛い目にあったのに。血の繋がっていない娘のおかげで、幸せになれたんだ……」
端から見たら、僕の人生は不幸と思う人もいるだろう。
でも僕は今……確かに、幸せだ。
幸せなんだ……。
「君は、どうだった?」
……。
「幸せのまま、逝ってほしかった……」
矛盾した感情だった。
「笑っていってほしかった……」
彼女は罰せられてほしい。
「満足して逝ってほしかった……っ」
だけどそれと同じくらい……。
「一緒に年老いて、凜花の将来を見て、孫の顔を見て……っ! 笑って逝ってほしかった!!!」
同じくらい、一度は愛した妻に、僕は笑って逝ってほしかった。
幸せで逝ってほしかった……っ。
……急逝した彼女が、どんな想いで死んだのか。
僕にはそれを知る由もない。
悲しくて。
苦しくて。
悔しくて……っ。
僕はその場にひざまずき、一人涙を流した。




