根拠
美波さんがこの部屋を去ってから一週間が過ぎようとしている。
あれから彼女は、一度もこの家に姿を現すことはない。多分、もうここにやってくることはないのだろう。考えるまでもないことを、僕は思っていた。
「それで、なにか用?」
一年近く通い、最早馴染みの場所となった探偵事務所。
もうここに来ることはないと思ったのに、僕は再びここにやってきた。
「ご足労をおかけします」
大石さんが頭を下げた。
「……別に、構わないよ」
「少し痩せられましたか?」
「どうだろう。わからない」
「……そうですか」
大石さんは俯いた。
「それで、用はなんだい? もう、僕がここに来ることはないと思っていたんだけど」
「そうですね。あたしもそう思っていました」
「依頼料だってちゃんと渡したし、仕事だって完遂された。これ以上、僕がここに足を運ぶ理由がどこにある」
「……あの日、清水さんがあまりに虚ろな顔で帰宅していったので。心配していました」
「それで、わざわざ呼びつけたのか?」
「ごめんなさい。そういうわけではないんです」
少しだけキツい言い方になったが、内心別に腹が立っているわけではない。
ただ、彼女に頭を下げさせてしまった。
少しだけ罪悪感を抱いてしまった。
「これを……」
大石さんは、机にチャック付きの袋に入ったスプーンを置いた。
「これは?」
僕は尋ねていた。
「香取さんから預かりました」
香取、という名前に、一時は聞くだけで顔を歪めた時期もあったが……今はそこまで感情が揺さぶられることはなかった。
「香取さんのお子さんの使用したスプーンです」
「それが?」
「異母兄妹にあたるわけでしょ?」
「……ああ」
僕は納得した。
これまで散々、僕は香取に対する復讐心を募らせてきたわけだが……確かに、奴と凜花に血の繋がりがあるかはまだ、状況証拠しかない。
凜花と、香取さんの息子。
僕の説が正しければ、彼女達は異母兄妹にあたる。
「気前が良いんだね。香取さんは。わざわざこんなものを用意して」
「……あの時は、すみませんでした」
いつのことを言っているか。なんとなくわかった。
多分、僕は止めを刺された時のことだ。
「彼女には、あなたが旦那さんと浮気した相手の夫、ということだけ伝えていたんです。だから……」
「いいさ。君が悪いわけじゃない。僕も、あの場でああ尋ねれば、そういう答えが返ってくるのは少し考えればわかったことなんだ。なのに迂闊だった。それだけだ」
「……すみません。あの後、香取さんにあなたの事情を話させてもらいました」
「構わないよ」
「その結果、香取さんは、これを渡してほしいと言ってきたんです」
机の上に置かれたスプーンは、そういうわけか。
「異母兄妹のDNA検査の精度は九十%程らしいです。前みたいに何度か試されれば、答えは見えると思うんです」
今日、ここに呼びつけられた意味を理解して、しばらく僕は黙り込んだ。
とりあえず、スプーンは受け取ろうと手を伸ばした。
こんなもの、大石さんだって、机の上に置かれたままだと困るだろう。
「DNA検査は多分、しないよ」
別に、言う必要はないことだったかもしれない。
僕と彼女は、ただのビジネスパートナー。
ただ、この一年で、彼女に対してそれなりの信頼や情を感じたことも事実だった。
だから、素直に話すことにしたのだ。
「……もう、精算されることにしたんですか?」
香取さんの発した言葉を引用した聞き方だった。
「いや、少し違う」
僕は自嘲気味に笑った。
「怒りはある。だけど、僕も大差ないことをしてしまったんだよ」
大石さんは、何も言わなかった。
「大切な人にね。……それも、二人もだ」
凜花と、そして美波さんに。
多分、僕はもう美波さんと会うことは出来ないだろう。
それだけのことをしたのだ。
許されざることをしたのだ。
「こんな僕が、今更誰かに復讐をするだなんて、間違っていると気付かされた」
「……」
「ただ、幸せになりたいだけだったんだけどな……」
また、僕は自嘲気味に笑っていた。
「平凡な幸せを望んだだけなんだ。妻と娘と僕の三人で、何不自由ない人生を歩みたかった。娘を大学に行かせて、立派な将来を歩ませたかった。妻と一緒に老いて、笑いながら死にたかった」
あの日から、僕の幸せはどこかに去った。
「それだけだったんだがなぁ……」
それだけのことで、僕は幸せになれた、というのになぁ。
それさえも、許してもらうことは出来なかった。
そんなちっぽけな幸せも、僕は手にすることが出来なかった。
「清水さん」
大石さんは、僕の独白を聞き、思うところがあったらしい。
「……こんなこと、あなたの仕事を碌にこなせなかったあたしが聞くのもおかしいとも思うんです。だけど、聞きたいんです」
スーッと、大石さんは息を吸った。
「あなたは今、不幸なんですか?」
「……不幸だろう。どう見ても」
即答だった。
「誰が見てもそういうよ。妻の急逝。不貞。娘と血の繋がりがないことが発覚したんだ。僕は……」
「他人の目なんて聞いていません」
「……」
「あなたは今、ご自身を不幸だと思っているんですか?」
……この一年、こういう問答を何度か大石さんとやってきた。
ただその度、僕は最終的に怒りを露にしてきた。そんな荒ぶる僕と、冷静な大石さん。そういう構図を、何度も自分の目で見てきた。
ただ今、僕はいつものように怒る気にはならなかった。
これまでにないくらい、どうしてか落ち着いていたんだ。
ゆっくりと、大石さんの言葉を考えてみることにした。
今の僕は、自分から見て、幸せか、不幸か。
……不幸に決まっている。
妻の急逝。不貞。
娘が托卵の子で。
復讐相手には先立たれ。
復讐の行き場は失って。
大切な人を傷つけて。
一人、また僕の元から大切な人が去っていった。
……でも。
今の僕は、落ち着いている。
前は自殺未遂したこともあったのに。
……今の僕は、落ち着いているのだ。
『お父さんが嬉しいなら、あたしも嬉しい……』
全てを失ったと思ったのだ。
妻を。
娘を。
復讐相手を。
新しい恋人を。
全て……失って、失意のどん底にいると思ったんだ。
だから僕は、自分のことを不幸だと思った。
死にたいとさえ思った。
でも、違った。
違うじゃないか。
もういないと思った大切な人は。
もういないと思った心の支えは。
もういないと思った、僕に大丈夫、と声をかけてくれる人は。
……僕の、一番近くに。
僕の、真横に。
僕の隣に、いてくれた。
「僕なんかが幸せになる権利はあるんだろうか……?」
思わず、僕は呟いていた。
そんな大切な人に、安易な復讐を目論んだ自分が。
安易な復讐のため、大切な人を利用した僕が。
……こんなにも満たされてしまって、良いのだろうか。
「違いますよ、清水さん」
「……え?」
「幸せになるのに権利なんて必要ないじゃないですか」
「……」
「自分が幸せか幸せじゃないか。それを決めるのは自分です。自分がこれまで成してきたことを振り返って、実感して、人は初めて幸せを自覚するんです」
大石さんは優しく微笑んでいた。
「もし今、清水さんが自分のことを幸せだと思われたのなら……自分がこれまで成してきたことの結果です」
……そうだろうか?
「清水さんが、自分の意志を貫いた結果です」
僕は、明美との口喧嘩を思い出した。
「清水さんが、苦しむ中、一人で生きていこうとした結果です」
僕は、美波さんに助けられた日のことを思い出した。
「清水さんが、どれだけ辛くても、ずっと献身的に付き添ってきた結果です」
僕は、凜花の顔を思い出した。
……確かに、そうかもしれない。
確かに、僕は今日まで、自分の意志で、自分の行動を決めてきた。正解か間違いかはわからない。もしかしたら間違いの方が多かったかもしれない。
憎まれることもあったかもしれない。
嫌われることもあったかもしれない。
裏切られることも、あったかもしれない。
でも、僕は全ての顛末の果てに今を生きている。
辛くても。
苦しくても。
嬉しくても……。
幸せでも……っ!
どんなことであれ、自分が選んだ道の果てに生きている。
だからこそ僕は出会えたんだ。
明美に。
美波さんに。
凜花に……っ!
皆に出会えたから、僕は救われた。
今、幸せだと感じられているんだ……っ!
「……もっと早く、気付けていればよかった」
僕は呟いた。
「もっと早く気付けていれば、僕は過ちを犯すことはなかった」
目からは、涙が溢れていた。
「こんなにもたくさんのことを与えてくれた人達を、苦しませずに済んだ……っ」
「……大切な人達に、恵まれてきたんですね」
「……ああ、そうだ。そうなんだ」
「過ちも同じです。幸せと同じで……自分の気持の問題なんです」
「でも、僕は自分を許すことが出来ない」
さっきまではそうじゃなかった。
でも今、たくさんのことに気付かされた今……そうではなくなった。
現金で、醜い自分が、もっと嫌いになりそうだった。
「どうすれば良いんだ。僕は……どうすれば」
「わかりませんか?」
僕は黙って頷いた。
「簡単ですよ、清水さん」
「……」
「たくさんのことを与えてくれた人達に、たくさんのことを与え返せば良いんです」
たくさんのことを与え返す。
「それだけで、良いんです……」
「僕に出来るだろうか……?」
「出来ます」
「こんなにも醜い僕に、そんなことが出来るだろうか……?」
「出来ますよ」
「……何を根拠に」
「簡単です」
クスッと、大石さんは微笑んだ。
「あなたの周りにたくさんのことを与えてくれた人が集まった理由。それは、あなたが既に皆さんにたくさんのことを与えていたからです」
僕が……?
「与えてくれない人に周りに、人は集まりません」
この僕が……?
「あなただから、きっと皆さんは何かを与えてくれたんですよ、清水さん」
大石さんの言葉が胸に突き刺さった気がした。




