忌むべき娘
香取の妻の唐突な謝罪に怒りのタイミングを逸した僕は、そのままなあなあな状態で招かれるまま、大石さんと一緒に香取さんの家にて彼女の振る舞ったお茶を飲むことになった。
「粗茶ですが」
「お構いなく」
旦那と妻に不倫された者同士の会話は、当然弾むはずもなかった。
温かい粗茶を啜りながら、僕はここから早く立ち去る術だけを考えていた。
「……あの、この度は本当……主人が」
「もう、いいですから」
僕は言った。
僕の中の行き場を失ったこの感情は、当然もういいとは告げていない。だけど、理性的になればなるほど、僕が彼女を責めることはお門違い。本来断罪されるべき加害者どもがこの世を去った今、僕達被害者で争うことは実に不毛だ。
ただ、理性的になればそう思う気持ちも、ふとした時に一瞬揺らぐのが実情だ。
「……慣れてるんですね、謝罪に」
僕の隣で、大石さんは粗茶を啜っていた。成り行きを見守るつもりらしい。
そんな中僕は、さっき決死の謝罪を見せた香取の妻に、皮肉めいた口調で言った。
「まるで、これまで何度も謝る機会があったみたいだ」
……そもそも、端からおかしな話だった。
自分の旦那の不倫相手の夫に会いたいと言い出したらしいことも。
その男と会うやいなや、土下座をすることも。
普通、少しでも躊躇うものだ。
嫌なこと、辛いことから、人間は逃げたい、と思うはずなんだ。
なのに彼女は……特大の地雷を自ら踏み抜いた。まるで手練れの爆弾処理班だ。
「……思われている通りです」
初めて。
僕と初めて、一瞬、香取の妻は躊躇った。
ただ、すぐに話し始めた。
「夫は遊び人で……女性関係のトラブルが絶えなかったんです」
「……」
「夫と死別したのは、三年前です。……最初のトラブルは、彼の死から二年も前でした」
「何があったんですか?」
「夫と不倫関係にあった方が、我が家を訪ねてきたんです」
……なんとなく明美と香取の間に何があったのか。わかった気がする。
「女の人の怒りの矛先は、あたしでした。取っ組み合いの喧嘩になって、最後は相手がナイフまで取り出す始末でした」
辛そうに、香取の妻が語った。
「夫は……側にいたのに、逃げ出して。警察さえ呼んでくれなかった」
僕は、生唾を飲み込んだ。
「結局、騒動に気付いた隣人が警察を呼んでくれて。ただあたしは、六針縫う怪我をして……。その後夫は、何食わぬ顔であたしの前に現れました」
「……最低だな」
「平然とした素振りでした。ただ、あたしがあいつは何なんだ、と尋ねると……初めて小さい声で謝罪をしました」
香取の妻の手が震えていることが気付いた。
「そんないざこざが、夫が生きている間に三件くらい立て続けに続きました。だからだと思います。あなたが、あたしが謝罪し慣れていると思ったのは」
「あんた、よくそんな男と別れなかったな」
「別れようと思いました。別れて……あの子を連れて、彼の居ない場所で暮らそうって。実家は兄が継いでいて帰れない。だから、この辺のアパートでも借りて、暮らそうって。事実、彼の死の間際は別居中でした」
「……そうですか」
「はい。離婚調停の真っ最中で。……彼の最期は、また女性トラブル。あたしが家から去った頃に交際を始めた相手と、更にもう一人恋人を作って。……最期はその女性に刺されて死にました」
「……」
「彼に、相応しい最期だと思いました」
……。
「ただ、同時にとても悔やみました」
「何を……?」
「どうしてあたしは、そんな相手と結婚してしまったんだろうって……」
「……」
「どうしてあたしは、あの男のために頭を下げないとならないんだろうって……」
「……さっきは」
俯く香取の妻に向けて、
「さっきは、どうして頭を下げたんです?」
僕は尋ねた。
「……あの子がいるから」
……迂闊だった。
「時々、狂いそうになるんです。あの子に、あいつの血が流れていることが」
迂闊な質問だった。
「でも、あの子はあたしの子なんです」
……。
「あたしと一緒に生活をしてくれて。あたしが大変そうだと手伝いを買って出てくれて。あたしが褒めてあげると喜んで……。あたしが、お腹を痛めて産んだ、大切な子なんです」
手の震えが、止まらなかった。
「あの子のために、精算したいんです。あいつが残したいざこざ全てを、精算したいんです」
拳を固めた手が、痛かった。
「だから、頭くらい下げるの、訳ありません」
食いしばる歯が、唇に食い込んでいた。
「だから……っ」
香取の妻は息を呑んだ。
殺される。
そう思ったのかもしれない。
……怒りで。
怒りで、我を忘れてしまいそうだった。
香取の妻に対してではない。
彼女は僕と一緒だ。
彼女は……被害者だ。
責めることなど出来ない。
彼女は、被害者なんだ。
……加害者は皆、死に逃げした。
もう、誰も彼らの行いを咎めることは出来ない……!
きっと、彼女のようにするしかないんだ。
彼女のように、僕も精算するしかないんだ……っ!
彼女のように、心の支えを持って、精算して……新たな一歩を踏み出すしかないんだ……!
でも。
でも……っ。
……彼女には、心の支えになる子供がいる。
血を分けた愛する我が子がいる……!
……なら、僕は?
……ふらつく足取りで、家に着いた。
香取の妻との会話の後半は、ほとんどが記憶がない。幸い、彼女達に手を出したということはないはずだ。
そうでないと僕は今、きっと家路になんて付いていない。
「おかえり」
家の中から声がした。
凜花の声だ。
パタパタと足音が聞こえて、彼女は僕の足にしがみついた。
「おかえり、パパ」
「……」
「あのね。今日幼稚園でね……」
凜花の話が、耳に入ってこない。
耳に入ってこないのではない。
聞きたくないのだ。
彼女の声を聞きたくないのだ。
「凜花」
「ん?」
「疲れたから、離れてくれないか」
楽しそうにしていた凜花が、途端静かになった。
「うん……」
寂しそうに僕から離れた凜花に、幾ばくかの罪悪感が浮かんだ。
ただ、それと同じくらい満たされる何かがあることに気がついた。
これまで、ぽっかりと胸に空いていた部分に……どす黒い何かが埋まっていくのがわかった。
「……お父さん、夕ご飯は?」
「いらない」
「えっ……?」
「いらないから」
ようやく黙った凜花に、また胸の穴に何かが埋まった。
階段を昇って。
寝室に入って。
ベッドに腰を落として。
……僕は一人、頭を抱えた。
「もう駄目だ……」
あの日からこれまで、僕は何度も邪な道に堕ちそうになった。
でもその度、理性に諭され。
美波さんに救われ。
そして、忌むべき相手への復讐心で耐えてきた。
でも……。
でも、もう駄目だ。
無理なんだ。
忌むべき相手の妻に、僕の実情をわからされ。
娘に、忌むべき妻の姿を見せられ。
そして、忌むべき張本人達は、死に逃げしやがった……!
僕のこの気持ちは一生満たされない。
僕のこの怒りは一生静まらない。
……いいや、違う。
ただ一人。
たった一人……。
忌むべき二人と血を分けた奴が、この世にまだ残っている……。
「同じ目に遭わせるんだ」
これまではそれは絶対に駄目だと思っていた。
「僕と同じ目に遭わせてやるんだ……」
でも、僕のタガは外れてしまった。
「あいつにも……」
もう全てがどうでも良かった。
「凜花にも、この苦しみを味わわせてやる」
……初めてだった。
今日、僕は初めて娘に冷たく当たった。
一日サボってごめん。
頭の中でこんな展開書こうというのは決まっているのだが、色々と辛くてな・・・。
主人公も行くところまで行った感があるが、ここまで大概既定路線。
つまりやっぱ作者が諸悪なんすわ。




