枷
しばらくして、美波さんが我が家にやってきて、僕達は三人での夕飯を食べ始めた。
「凜花ちゃん、最近好き嫌いせずにちゃんとご飯食べられているね」
「うん!」
「今日は何だか嬉しそう。何か良いことあった?」
「うん。お父さんが、嬉しかったみたいだから」
「えー、そうなんですか? 清水さん」
ニヤニヤする美波さんの視線が僕に向けられて、僕は苦笑した。
「一体、何があったんですか?」
「まあ、良いじゃないか」
「えー、教えてくださいー?」
「ほら、ご飯が冷めてしまうから」
そう言って僕は、その場を濁した。
別に、凜花に嘘をついたから言い訳するのに戸惑った、というわけではない。
ただ……。
僕はまだ、僕が明美の不貞相手を探していることを、美波さんに話していないのだ。
だからまだ、美波さんに今日起きた良かったことを話すわけにはいかなかったのだ。
二人の笑顔を見ながら、僕も一緒に夕飯を食べていた。
時折、さっきみたいに話を振られたが、生返事を繰り返していた。
頭の中では、ずっと考えていた。
どうやって、香取に復讐しようか、と。
ようやく……。
ようやく、僅かながらも明美の不貞相手の手がかりを得たのだ。
もしこれがぬか喜びであったとして、喜ばずにはいられない。
考えずにはいられない。
……前々から、時折考えていた。
復讐の手段は。
勿論、凜花をあいつにくれてやる気は微塵もない。
だけど、慰謝料なんかをむしり取るくらいで、この怒りが収められるはずもない。
邪な考えが、初めの頃は良く浮かんでいた。
鈍く光るナイフが、鮮血に染まるイメージを何度繰り返したかは、もうよくわからない。
いっそ、この手で奴を殺せたら、この気持ちも少しは晴れるだろうか。
それとも、罪悪感で押しつぶされてしまうだろうか。
答えは出ない。
そして、答えを考えるよりも先決で考えなくてはいけないことが多くて、僕は答えを出すことを先送りにしてきた。
不思議な高揚感を覚えていた。
二人の前で、異形な笑みを浮かべてしまいそうな、そんな高揚感だった。
「清水さん、本当に……何だか機嫌が良いですね」
凜花を寝かした後、美波さんがリビングに戻ってきて、僕へ言った。
微妙な笑みを浮かべる美波さんからは、少しだけ僕に呆れている様子が見て取れた。
「一体、何があったんです?」
「もう少ししたら、きっと話すよ」
「えー。今話してくださいよ」
「今は駄目だ」
「どうしてです……?」
怪訝な顔をする美波さんを見て、高揚感のせいで余計な心配をさせていることに僕は気付いた。
落ち着くように、小さくため息を吐いた。
「まだ、早いからかな」
ふと思った。
僕の今の考えを彼女が知ったら……彼女は一体、何を思うんだろう?
元より、彼女にはいつかこのことは話すつもりだった。
だけど、僕は一体、どこまで話すつもりだったんだろう……?
多分、明美の不貞相手が見つかったまでだ。
それ以上は……話すつもりは皆無だった。
介入されたくなかったんだ。
これから僕が行う復讐劇を、彼女に……介入され、妨害されたくなかったんだ。
「……なるほど。そういうことですか」
今更、まずいと思った。
介入されたくない気持ちがあると今更気付いて……まずいと気付かされた。
美波さんの前で安易な考えを見せて、悟られたらどうするんだ、と。
そして今……。
僕の額から、汗が伝った。
美波さんは、口を開いた。
「凜花ちゃんの卒園式の格好を考えていたんですね?」
「……へ?」
思いもよらぬ、明後日な回答だった。
「わかります。わかりますよ。凜花ちゃん、凄い可愛いですもん」
「……うん」
「ただ、卒園式のフォーマルを買うのは一月くらいが普通ですよ。ちょっと早いです」
「……そう、なんだ」
「はい」
「……あれ、もしかしてあたし、間違っていました?」
「いいや、合っていたよ。ただ、まだ先なのかと落胆をしていたんだ」
適当な嘘をついた。
美波さんは、「ああ、そっか」と嬉しそうに手を叩いた。
「まあ、まだちょっと早いのは事実ですが……どうです? もう買いに行ったら」
「え。でも……」
「別に、フォーマルが店頭に並んでいないわけではないんです。大体九月くらいから、その手の服は並んでますよ」
「そうなんだ」
僕は苦笑した。
「さすが。詳しいね」
「まあ、良く父兄の方から相談されるんですよ。いつの間にか覚えてしまいました」
「……そっか」
ふと、疑問を抱いた。
「そういえば、美波さんはどうして、幼稚園の先生になったんだい?」
「子供が好きだからです」
即答だった。
「君らしいね」
「清水さんにそう言って頂けると……なんでしょう。すごく、嬉しいです」
しばらく、僕達は黙りこくった。
「それじゃあ、おすすめのお店、教えておきますね。清水さん」
「ありがとう」
僕はお礼を口にして、続けた。
「それじゃあ、いつ行こうか」
「……へ?」
彼女が首を傾げたから、僕も倣って首を傾げた。
「……あたし、一緒に行くなんて言いましたっけ?」
「え、一緒に来てくれないの?」
「……そうじゃ、ないです」
「そうか。それは良かった」
僕は微笑んだ。
「君がいてくれて、いつも……助けられてばかりだ」
「……」
「本当に、いつもありがとう」
「……あたしもっ」
美波さんの声は、不自然に上擦っていた。
「あたしも……っ。いつも、あなたに助けられてばかりです」
「そんなことないだろ?」
「あ、あります……っ。あたし、おっちょこちょいだから。落ち着いた清水さんがいてくれているおかげで、なんとかなっているんです!」
「……」
「だから……ありがとうございます」
「……うん」
「……清水さん」
「なんだい?」
「もうすぐ、凜花ちゃんは卒園ですね」
「……うん」
「枷は、なくなりますね」
「うん……」
「じゃあ……また、買い物に誘ってくれますか?」
「……」
「いいえ、買い物に行く時に、あたしがいるのは当然だって、言ってくれますか?」
僕は、しばらく答えを渋った。
潤む瞳の美波さんを見て、少しの加虐心に駆られてしまったのだ。
……最低な男だ。
本当に、最低な男だ。
そんな男にこんなことを言ってくれる彼女もまた……。
思わず、苦笑してしまった。
「うん」
僕は、静かに頷いた。




