依頼
「香取裕二という男を探してくれ」
美波さんと凜花が幼稚園に向かった後、僕は会社に休暇を取る連絡をして探偵事務所へ向かった。
そして、大石さんに新たな依頼を出した。
事情を知っている大石さんは、僕が机に置いたスマホを受け取って、目を細めていた。
「……本当にあったんだ」
「半信半疑だったのか」
「……うぅ。だって」
しどろもどろに大石さんが言った。
一瞬、色々言ってやりたい気持ちに駆られたが、事実そこから男の正体を見つける糸口を見つけたのだから文句は言えまい。
「えぇと、清水さん。それじゃあ、この男が奥様の不倫相手だった、ということでよろしいでしょうか?」
「まだ、確証はないけどね」
「……じゃあ、どうしてそう思ったかを教えてください」
そう言うが、大石さんは僕の言葉も待たずに机から離れた。
香ばしい香りが漂い始めた。
どうやら、コーヒーを淹れてくれているらしい。
「長話になるでしょうから」
大石さんは微笑んでいた。
大石さんが淹れてくれたコーヒーを啜ると、少しだけ頭の中がクリアになった気がした。
「まず、あなたの言う通り、妻の機種変更用のクラウドサービスから、この男の情報は発見した」
そして、どこから話すか迷った僕は、昨日ここを出た後の話を、初めからすることにした。
「まったく。この情報を見つけるだけで難儀したよ。あの女、クラウドサービスのログインパスワードをスマホに記録させてなかったんだ。パスワードのリセットをするため、あいつの好きなものを当てることになったけど、それで四苦八苦した」
「へえ、何が好きだったんです?」
「……」
「清水さん?」
「僕になってたよ。登録上は」
「……そうですか」
冷ややかな空気が流れた。
「ともかく、パスワードを変更して、あいつの機種変更のクラウドサービスに入ることが出来た。そして見つけたのが、こいつの連絡先だ」
僕は気を取り直して、スマホに指を指した。
「こいつの連絡先は、スマホの方には登録されていなかった。クラウドサービスだけに残っていたんだ」
「それだけでその人が不倫相手だと?」
「それだけじゃない」
「その理由は?」
「……こいつは、あの女の元恋人だ」
「なるほど」
大石さんは、顎に手を当てた。
「ありえない話ではないですね。元恋人と再会を果たして、過去の気持ちを再燃させて、過ちを犯してしまった、と」
「ああ、僕もそう思ったよ」
「それで?」
「ん?」
「この男の今いる場所、心当たりはあるんですか?」
それを探して欲しいからここに来たんだ。
そう言おうと思ったが、僕には一つ宛があった。
今度は、僕は自分のスマホを机に置いた。
「多分、こいつらの地元だ」
「地元、ね……」
「この二人は幼馴染だった」
「でも、あなたの奥様のように上京をしている可能性だってある」
「香取裕二で検索をした。そしたらヒットしたよ」
僕の画面には、香取裕二の検索結果が表示されていた。そこには、明美の地元の県での、数年前のテニスの個人戦の大会結果がいくつか散見された。
「こいつはテニスをやっていたんだ。大学も地元の大学だ。きっとまだ地元にいる」
「就職の時に上京した可能性は?」
「アマチュア時代にもいくつか地元の大会に出ているじゃないか」
「その人が、あなたの元恋人だという証拠は?」
「名前と地元が一致している! 充分だろう!」
柄にもなく、大きな声を出してしまった。
ここで今のように大きな声を出したのは……まあ、珍しいことではない。
自分の考えが否定される度、ついつい僕は感情的になってしまう。
だけど、彼女は僕に臆した様子はない。
それもまた、いつものことだった。
探偵の仕事を営む彼女は、自分が僅かでも疑ってかかったことには今のように理論立てて納得するまで質問攻めをしてくるのだ。
つまり、今僕がこうして感情的になる。
彼女が僕に質問攻めをしてくる。
これは、彼女が僕の説が間違っている、と思っている証拠だった。
「……大石さん、僕の説、どこか間違っているだろうか?」
一旦冷静になり、大きなため息の後、僕は尋ねた。
「わかりません」
「そうか。わからないか」
あれだけ質問攻めをした癖に、あっさりとわからないと言うなんて、とは思わなかった。
仕方ない。
情報がないのだから。
「ただ、引っかかるところはあるんだろう?」
そう僕が尋ねると、少し意外そうに大石さんは僕を見ていた。
「どうして?」
「え?」
「どうして、そう思ったんです?」
「……何を言うか」
僕は、呆れたようにまたため息を吐いた。
「もう一年近く、こうして顔を合わせているんだぞ。そりゃあ、気付く」
「……ふふっ」
大石さんは笑った。
「そうですか。あはは。そうですか」
「……何がおかしい?」
「いえその……あはは。すみません」
……大石さんは、中々笑い止まなかった。
「清水さん」
「……なんだ」
「あなた、いつか悩んでいましたね。部下との人間関係について」
「……」
「大丈夫です。あなたならきっと」
何を根拠に言っているんだ、この女は。
「こんなにも相手を見ているのだから。きっと、大丈夫ですよ」
「……根拠のない言葉だな」
「すみません」
おほん、と大石さんは咳払いをした。
「それじゃあ、本題に戻りましょう」
僕は頷いた。
「あたしが、清水さんの説に同意出来なかった理由。それは、いつかの調査が理由です」
「いつかの……?」
「はい。……奥様の地元に伺い、聞き取り調査をしたことが理由です」
「……ああ」
合ったな、そんなこと。
「先程言っていましたね。奥様とその男は幼馴染だって。だったら、実家も近所のはず」
「……なるほど」
「そうです」
「もし今でも香取が地元に住んでいるのなら、大石さんが聞き取り調査に出向いた時に見つかっているはず、ということか」
「その通りです」
大石さんは頷いた。
「それなりに詳しく聞き取り調査はしたつもりです。それこそ、不審者に間違われるんじゃないかってくらい。それでも彼が引っかかることはなかった。だとしたら、近隣住民から忘れられるくらい前に、香取が地元を離れた、と考えるのが妥当ではないでしょうか?」
「……君の聞き取りが甘かった可能性もあるんじゃないのか?」
「そうです。だから言ったんです。わからないって」
……認めるんかい。
僕は内心で突っ込んだ。
……ただまあ、現地に直接調査に行き、空振った彼女だからこそ引っかかったのだろう。僕の説と近隣住民の態度のギャップが。
こればかりは、現地に直接赴いたわけではない僕にはわかりようがない話だ。
「まあひとまず、容疑者と思しき男が見つかったのは収穫でしたね。一歩どころか千歩くらいの大進歩です」
「残りの道程は、あと何歩必要になるんだろうな?」
「さあ? でも、空虚な一年よりは全然マシです」
「それは確かに」
「清水さん。ひとまず依頼は引き受けます」
「ありがとう」
「……ただ」
「ん?」
「やっぱり、何でもないです」
「……そうか」
言いかけたのなら言えよ。
そう言いたくなったが、言葉を飲み込んだ。
彼女が言葉を引っ込めた、ということは、憶測で語りたくない話だからということだ。
憶測話で気持ちを乱さられるだなんて、時間の無駄だ。
「清水さん」
「……なんだ」
「また一月、時間をください」
「……」
「一月後に、必ず成果を上げてみます」
成果を上げる、か。
例えば、自分の部下からそんな殊勝げな言葉を聞いたら、内心では本当かよ、と思ってしまう。
だけど、下手なことを言って相手のやる気を削いだら嫌だから、頑張れよ、とか、わかった、だとか、適当な言葉をかけるだけでいつも済ませてしまう。
……部下との人間関係、僕なら大丈夫、か。
その言葉にどれだけの根拠を込めたのかは知りようがない。
ただ、一年近く一緒に頭を悩ませあった彼女の言葉なら……少し信じてみようと言う気になる。
これが信頼関係というものなんだろう。
しみじみと思った。思わされた。
「期待して待っています」
「はいっ!」
嬉しそうに、大石さんは笑った。




