底知れぬ
一日の疲労を感じながら、家へと帰宅している時だった。
家の側、僕の鼻孔は香ばしい匂いにくすぐられた。
カレーの匂いが届くのは、我が家から。美波さん、今日はカレーを作ってくれたということだろうか。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「おかえりー」
キッチンから、二人の声が聞こえてきて、僕は小さく微笑んだ。
家に帰宅した拍子に、少しだけ自分の気持ちが緩んだことがわかった。
リビングに向かうと、エプロンをまとった凜花が目に飛び込んだ。
そんな凜花を必死にサポートする美波さん。
「そろそろ夕飯出来るよ」
凜花が言った。
「今日は、凜花が夕飯作ってくれているんだ」
「うん」
確か、凜花に初めて料理をさせたのは、明美が死んでからすぐのこと。
托卵が発覚して、一番僕の精神が荒んでいた時のことだ。
あの時は、突然料理をしたい、だなんて言い出した凜花に随分と狼狽させられたが……今では、彼女の献身的な態度に、だいぶ慣れつつあった。
「頂きます」
凜花の作ってくれたカレーを前に、僕達三人は手を合わせた。
「さあ、食べますか」
「うん」
ふと……僕は、テーブルを囲む二人からの熱視線に気がついた。
「何?」
「……べ、別に?」
美波さんは、嘘が下手な人だ。
しどろもどろになりながら視線を泳がす姿からは、言葉通りの意味は感じられない。
その点、凜花は俯いていて気持ちは読み取れない。
しかし、少しだけ暗い顔……いや、緊張している顔、だろうか?
よくわからないが、僕は気にせず娘の振る舞ってくれたカレーを口に運んだ。
途端、二人が余計に僕ににじみ寄った。
「……な、何?」
「……べ」
「……」
「別に?」
「それ、止めない?」
言いたいことがあるなら、はぐらかさずにはっきり言ってほしいと思ってそういった。
しかし二人の態度は変わる様子はない。
つまり、これは多分……僕が気付いて言葉を発さないといけないんだろう。
一体、何を……?
髪型を変えた、だとか。化粧を変えた、だとか。
そういう外見的変化は、二人からは見当たらない。
であれば……。
僕はもう一口カレーを口に運んで、俯いた。
二人が生唾を飲み込んだ。
そして、僕はもう一口、カレーを口に運んだ。
「……美味しいよ、凜花」
パーッと、二人は顔を晴れやかにさせた。
どうやらこれで、正解だったらしい。
二人にバレないように、僕はホッと胸をなでおろした。
「良かったね、凜花ちゃん」
「うん。先生、お手伝いしてくれてありがとう!」
「あー! しーっ。しーっ! それは黙っていようって言ったじゃない」
「あ……っ」
微笑ましい二人のやり取りを見ながら、僕は微笑んだ。
緊張の糸が切れたのか。
安心しきったのか。
それからの二人は、先程と打って変わって饒舌にお喋りを楽しんでいた。
そして、凜花の振る舞ってくれたカレーを食べ終わり、食器洗いを三人で行った。
しばらくして、凜花を寝かしつけに行ってくれていた美波さんがリビングに戻ってきた。
「……お酒、呑んでいるの?」
真っ先に、美波さんはテーブルに置かれたウイスキーに気がついた。
ロックで呑んでいるせいで、僕の頭は、既に少し酔っていた。
「……うん」
「久しぶりに見ました。賢さんがお酒呑んでいる姿」
「体に悪いから、止めているんだ……」
「そうみたいですね。……あなたがお酒を飲むのは、嫌なことがあった時だけ」
「よく知っているね」
「一年も一緒にいたんですもの」
テレビから、バラエティ番組の司会者の声が響いていた。
耳障りだった。
しかし、お酒のせいで気持ちは少し軽かった。
「……凜花のカレー、君も手伝ってくれたんだね。ありがとう」
「いいえ」
「美味しかったよ」
「……本当は?」
僕は返事をしなかった。
「一瞬、あなた暗い顔をしていた。本当はどう思ったんです?」
「……味が、悪くなかったことは事実だ」
「それじゃあ、どうして」
「……明美と」
僕は息を呑んだ。
「明美と同じ味だったんだ」
最初は、怒りなんて湧かなかった。
たくさんのことが一度に起きたから、怒りに駆られるタイミングを逸したんだと思う。
明美の急逝。
昇進による人間関係の不和。
娘の托卵発覚。
たくさんのことが同時に起きすぎて、僕は処理落ちしてしまっていたんだ。
ただ……。
ただ、美波さんに救われて。
凜花を守って生きていくと決意をして。
処理が滞っていた部分を処理していって……最後の最後、僕にはどうしても処理しきれないことが残った。
それは……。
言うまでもない。
理解も出来ない。
許せない。
許せる気がしない……。
「どうして凜花は、あんな女の娘なんだ……」
酒に酔ったせいか、うわ言のように口から漏れた感情は……妻への。元妻への。
明美への、底知れぬ……言いようのない、行き場のない、殺意を孕んだ……生涯、解消されることのない……怒り。
怒り、だったんだ。
「……血の繋がっていない凜花ちゃんを守って生きていく。そう決心したあなたの判断は、誰しもが真似出来るものじゃありません」
「……」
「でも、一度決めたからこそ……途中で諦めるような真似だけはしないと約束してください」
「……ああ」
「その憎しみを少しでも和らげられるよう、少しでもサポートしますから」
「……」
「だから……凜花ちゃんは悲しませないであげて」
今の僕は、美波さんから見て、どのように見えているのだろうか。
危うい、と見えているのだろう。
そうでないと、こんな発言は出てこない。
……そして、その見え方はそこまで的外れなわけではない。
酒に酔って、思わず口から漏れてしまった。
それだけとはとても言えない。
以前も思ったことだった。
明美と凜花が似ていることは。
でも、時間が経てば経つ程、その印象はいつか薄らいでいくと思っていた。
その事実を忘れる日がやってくると思っていた。
だけど、そんなことは一切なかった。
むしろ、日に日に増していく。
日に日に……明美と凜花は親子なんだ、と。
凜花は、僕の忌むべき明美の娘なんだ、と……。
わからせられてしまうんだ。
その度、自分の決意が揺らいでいるのがわかってしまって、こうして酒に溺れたくなってしまうのだ。
どうすれば良いのか。
僕は、どうすれば良いのか……?
自分の中で、その答えはもう出ていた。




