72 陽だまりの中
【プロローグ】
レオナルドの寝室には、『うちのパパを守ってくれた怪我のお見舞い』と称してやってきた、無防備な婚約者が訪れている。
レオナルドに真摯な言葉を掛けてくれ、甘やかすように叱ってくれる、心底から愛おしい婚約者だ。あっさり帰すのが惜しくなったから、レオナルドは彼女をたぶらかした。
来月の七月に行われる期末テストについて、予想出来る範囲を教えようかと提案したのだ。
すると彼女はきらきらと目を輝かせて、『嬉しい! レオナルドの教え方、すっごく上手だもん』と喜んだ。
大切な女の子からそんな風に言われては、裏切れるはずもない。単なる口実だったのに、ついつい真剣に授業をすることになる。
彼女と一緒に過ごしていると、レオナルドにはいくつもの『計算外』が起きるのだった。
そんな勉強会の最中、部下に指示をするため一度部屋を出たレオナルドは、戻ってきてすぐに婚約者の名前を呼ぶ。
「……フランチェスカ?」
「んんう……」
寝室の窓際には、簡単な書き物などをするためのテーブルがある。
二脚並べた椅子の片方に座り、そのテーブルに突っ伏したフランチェスカは、小さな寝息を立てていた。
(思ったより、席を外す時間が長くなったからな)
レオナルドが即興で作った問題用紙は、律儀にもすべて埋められている。
ひとりで問題を解き終わったあと、レオナルドの帰りを待っているあいだに、そのまま眠ってしまったようだ。
足音を立てずに傍へと行き、その横顔を見下ろした。無垢に眠っている寝顔を見ていると、ふっと思わず笑ってしまう。
「全問正解。よく出来ました」
彼女の前髪を指先で梳けば、さらさらと指から零れてゆく。こんな風に触れたって、フランチェスカは目を覚ます気配が無い。
(本当に、君は俺の前で無防備すぎる)
その無防備さに振り回されるのと同じくらい、信頼されていると感じて手放せなくなるのだった。
「フランチェスカ。眠るなら、こっちにおいで」
小さな声で語り掛け、彼女を横抱きに抱き上げる。この部屋にはソファだってあるのだが、迷わずにベッドの方へ連れて行った。
やさしくそこに寝かせると、フランチェスカは形の良い眉をきゅっと顰める。
「んんー……」
「よしよし。いい子いい子」
そう言って頭をぽんぽん撫でると、ほっとしたように口元を綻ばせた。
レオナルドの好きなフランチェスカの瞳は、閉じた瞼によって覆い隠されている。
素直な色に透き通り、彼女の感情を正確に表す双眸を見ることが出来ないのは、なんだか焦らされているようにも感じた。
「フランチェスカ」
彼女の眠りを妨げないよう、柔らかい声音でその名前を呼ぶ。
長い睫毛や通った鼻筋、血色の良い頬に小さなくちびる。何もかもが、嫌になるほど可愛くてたまらない。
もしも彼女に口付けたら、一体どんな顔をするのだろうか。レオナルドが目を眇めると、フランチェスカが幸せそうに微笑んだまま口を開いた。
「……レオナルド……」
「!」
僅かに息を呑んだあと、レオナルドは笑う。
「分かっている。……『友達』だものな」
フランチェスカはレオナルドに、欲しかった光を与えてくれた。
炎の中にすら飛び込んで、この華奢な手でレオナルドを引き戻した。
そこに恐怖心や躊躇はなく、何処までも真っ直ぐなまなざしで、『一緒に生きて』と言ったのだ。
「フランチェスカ。……俺は、君のことが大切でたまらない」
微笑みながら囁いて、フランチェスカの手を取った。
くちびるではなく手の甲に、親愛の挨拶にも使うことがある口付けを落とす。
「――――……」
そうして思い出すのは、彼女を泣かせてしまった日のことだ。
フランチェスカはあの日、レオナルドが治療を受け終わるまで傍にいてくれた。
それを無理やり帰らせたのは、彼女の父親も大量に血を流しており、フランチェスカがそれを案じているはずだったからだ。
するとそれからしばらくして、フランチェスカの世話係でもある番犬が一度だけ顔を見せた。
グラツィアーノという名前の番犬は、レオナルドを静かに睨みながらこう言ったのである。
『うちの当主は怪我をして、お嬢があんなにたくさん泣いた。俺はこの一件を、何があっても看過できません』
ちりちりと焦げ付くかのような、強い怒りを宿した目だ。
『あんたにも全力を出してもらう。それが出来ないなら――……』
『なあ、番犬』
言葉を遮るようにして、レオナルドは悠然と笑みを返した。
『――フランチェスカを傷付けた人間に対して、俺が生存を許すと思うのか?』
『……っ!』
そのときのことを思い出しながら、フランチェスカの頭を撫でる。
「早く見付けて、ちゃんと殺しておかないとな」
レオナルドはそれからしばらく、フランチェスカが目覚めるまでの間、可愛らしい寝顔を見詰めていたのだった。
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