67 その頑なな壁を壊して
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重いバケツを抱え、屋敷の外からここまで全力疾走してきたフランチェスカは、荒い呼吸を繰り返しながら泣きそうになっていた。
「やっぱり死ぬ気だった。……よかった、まだ手遅れじゃなかった……!」
フランチェスカの髪からは、ぼたぼたと雫を滴っている。
目の前にいるレオナルドも同様で、水たまりが燃え上がる炎を塗り潰し、そこだけ火の勢いが衰えている。
つい先ほど、父を支えて雨の降る外に出たフランチェスカは、黙って見ているだけの管理人をよそにこう叫んだ。
『アルディーニ家の皆さん、手を貸してください!! 誰でもいいからバケツに清潔な水をたくさん、それと包帯を!!』
屋敷の中に入れるのは、事前に申請されていた面々だけだ。けれども外に出さえすれば、レオナルドが残してくれていた構成員たちにも動いてもらえる。
彼らは驚いていたようだが、ひょっとするとレオナルドが何か命じて置いてくれたのかもしれない。
フランチェスカの頼んだ通り、すぐさま近場の井戸水を汲んできてくれた。
『お嬢さん、一体なにを……うわ!?』
『フランチェスカ……!?』
フランチェスカはバケツを掴み、その水を頭から豪快に被る。ただでさえ雨の降る中、髪もドレスもずぶ濡れだ。
父やアルディーニの構成員たちが驚いているが、説明をしている時間は無い。
『お願いです、パパを急いで病院へ! とあるスキルで傷は塞がっていますが、たくさん血を流したんです……!』
『そ、それは構わないが。君はどこに……』
『屋敷に戻ります!』
フランチェスカならば『申請済み』で、会合の時間内は屋敷にまた入ることが出来る。もうひとつ水の入ったバケツを抱え、そのままもう一度飛び込んだ。
『フランチェスカ!』
(ごめんねパパ。でもパパは、自分の治療を優先して……!!)
バケツの水を用意してもらったのは、ゲームの展開を想定してのことだ。
(いまはゲームシナリオの一章終盤。この世界は、前世で知っているゲーム世界のシナリオと、大枠で近いことが起き続けてる!)
いまはゲームと状況が違う。それでも、フランチェスカがレオナルドと出会ってから積み重ねた知識は、『この世界とゲームでは似た出来事が発生する』ことを物語っていた。
(ゲームでは、一緒に薬物事件の調査をしていた主人公とリカルドが、レオナルドによってこのお屋敷に閉じ込められる。――そこで、屋敷は火事になる)
シナリオ上、レオナルドが火を着けたとされていた。であれば事情がどうであれ、このあと屋敷は炎に包まれる可能性がある。
(それに想像が当たっていれば、レオナルドはうちのパパが撃たれた銃の傷を、そのまま引き受けてしまってる……!)
そんなことを想像して、胸の奥が締め付けられるようだった。
(痛いよね、レオナルド。……苦しいよね、ごめんね……)
それなりに鍛錬はしていても、重いバケツを持ったまま階段を駆け上がるのは辛かった。
けれど、この先にレオナルドがいるはずだ。
レオナルドはフランチェスカの捻挫を替わったときも、父の代わりに銃創を得ても、表情に出すことすらしなかった。
(嫌な予感がする。レオナルドは何か、とんでもない無茶をしようとしているのかもしれない……)
彼に出会ったばかりの頃なら、そんなことを想像すらしなかっただろう。
けれどもいまのフランチェスカは、レオナルドのことをよく知っている。
前世のゲームで敵として描かれた彼でもなければ、この世界で若き当主として恐れられているだけの姿でもない。
(私の友達になってくれた。人を助けたいってわがままを聞いてくれた。私の怪我だけでなく、私の大事なパパの怪我も持って行ってくれた……!)
頭から被った水が冷たく、服が肌に張り付いて動きにくい。屋敷の中を駆け抜けた体は呼吸が乱れ、心臓はどくどくと脈を打っていた。
だが、それでも止まらない。
(レオナルドを、私が助けに行かないと……!!)
二階まで駆け上がったとき、三階からごうごうと音が聞こえてきた。
(やっぱり、炎の音!!)
煙はまだ少ない。普通の火ではなく、レオナルドのスキルか何かによる炎なのだろうか。
こんな燃え方だと、外にはなかなか火事だと気付かれないだろう。急いで扉を開けようとして、燃えるような温度のドアノブに触れる。
『!!』
あまりの熱さに顔を顰めるが、構っていられない。フランチェスカは扉を開け放ち、熱風の中で目を凝らす。
そして、炎の中で膝をついたレオナルドを見付けたのだ。
そのままバケツの水をぶちまけて、レオナルドとジェラルドの全身を濡らした。
炎の被害を抑えられたことに安堵するものの、レオナルドから広がった水に濃い赤色が滲んでいるのを見付け、さっと青褪める。
「レオナルド!」
フランチェスカが呼んだ瞬間、レオナルドが我に返ったように目をみはった。
「やっぱり、パパの傷を――……」
「っ、来るな……!」
「!!」
駆け寄ろうとした目前に、氷の壁が立ちはだかる。フランチェスカの行く手は阻まれ、燃え盛る部屋と分断されてしまった。
(何これ、レオナルドのスキル!? それだとレオナルドは三つ以上のスキルを持っていることに……そんなの世界のシステムに反してる、有り得ない! だけど、レオナルドが今まで私に見せたスキルが『最強の敵』のものとしては弱く感じられたのは、それが全容じゃなかったから……?)
そう考えれば、これまでの違和感にも納得が出来た。
(最上級ランクの人ですら三つまでしか持てないはずのスキルを、レオナルドはそれ以上扱える。……本当にそうだとしたら、反則級のチートだ)
フランチェスカは、前世でのゲームユーザーの『考察』が、まったく外れていたことを実感する。
(こんな強すぎるキャラクター。ゲームの中に、入手可能である操作キャラクターとして実装されるはずがない――……!!)
ゲーム内で最強の黒幕と謳われたレオナルドは、炎の中で佇んだままだ。
彼がどれほど強くても、いまは窮地に違いない。レオナルドをもってしても、この状況を打破する方法が限られているのだろう。
「レオナルド、ここを通して!!」
氷の壁をどんっと叩いて、フランチェスカは声を上げた。
「大体読めたよ、おじさまの防御スキルで遮断されないよう、物理攻撃じゃなくて炎を使ってるんだね!? 屋敷の結界に攻撃スキル判定されないよう、直接燃やすんじゃなくてじわじわと周りに火を着けてる!! 逃がさないために氷で拘束してるんでしょ!? ……確実に殺せるよう、レオナルド自身も避難しないままで……!!」
「…………」
「そんなことさせない。だから、ここを通して!!」
分厚い氷を殴っても、フランチェスカの拳ではびくともしない。けれども声が届いていることは、レオナルドの背中を見ていれば分かった。
「……今ここでセラノーヴァを殺し、止める手段はこれしかない」
「絶対に違うよ!! レオナルドだって分かってるでしょ!? 私がレオナルドの傍に行けば、そんな手段を取らずに済むって! お願いだから氷を消して、そっちに行かせて……!!」
「――駄目だ」
「!」
ぽつりと零されたその声は、炎の音に消えそうだった。
「俺のスキルで生んだ炎が、ようやく部屋に燃え移った」
部屋の中に、少しずつ黒い煙が混じり始めている。
「煙を吸えば命は無いし、君が炎に巻かれる可能性もある。……部屋が崩れたら、それで終わりだ」
「レオナルド……!」
淡々と語る口ぶりは、そうやって燃え落ちる部屋を目の当たりにしたことがあるかのようだ。
「危険な場所に近付かないでくれ。――君さえ生きていてくれて、『平凡で普通の人生を過ごす』夢を叶えてやれるなら、後はどうでもいいんだ」
炎の中で、ジェラルドを見下ろしたレオナルドが笑ったような気配がした。
「……あのときの兄貴は、こんな気持ちだったのか」
「……っ!!」
フランチェスカはくちびるを結び、廊下に転がったバケツを引っ掴む。拳ではどうにもならなかった氷の壁を、渾身の力によってバケツで殴った。
「お願い、こっちを見て!!」
がんっと鈍い音がして、削れた氷の欠片が飛ぶ。
「死んじゃ嫌だよ、レオナルド……!!」
けれどもそれは、この壁を壊す亀裂にすらならないものだ。
フランチェスカはバケツを両手で持ち、がんがんと氷を削りながら、ほとんど半べそでこう叫んだ。
「私もそっちに行く! おじさまを止める方法は他にちゃんとある、そうでしょ!?」
「…………」
「私のことを守らなくていい……!! 私が願ったことを叶えるために、私を遠ざける必要なんて無いの!!」
黒煙の勢いが増してゆく。この屋敷は天井が高い造りだが、充満するまではそうもたない。
「レオナルド!! お願いだから、ちゃんと私にも手を汚させて!!」
「……フランチェスカ」
「っ、もう……!! この壁、早く壊れてよ……!!」
バケツをぶつけ続けていた手が痛む。それでも、ここで怯むわけにはいかない。
「父さんや、兄貴と同じものを目指せる訳もない。俺は外道で、それを忘れたことはない」
「レオナルド……!」
「だから、こういう生き方をする」
そのとき、フランチェスカははっとした。
何度も叩いていた氷の壁が、僅かにみしりと軋むかのような、先ほどまでとは違う音を立てたのだ。
(炎に焙られて、溶けた氷が薄くなり始めてる!!)
その希望に縋りついて、もっとも炎に近い箇所に目星をつけた。
レオナルドは、多くの血を流してしまっている。フランチェスカがこうして足掻いていることも、もはや彼の意識には入らないのかもしれない。
「俺は、人から奪うことしか知らない悪党だ」
「~~~~……っ」
フランチェスカの声が、届いていない可能性もある。
けれどもフランチェスカは、渾身の力で彼に叫んだ。
「……ばか!!」
いつもなら、世界中のなんでも知っているような顔で笑うくせに。
どうしてこんなことを思い出せないのかと、フランチェスカは涙声で続ける。
「私に『友達』をくれたのが、レオナルドだけだってことを忘れちゃったの!?」
「――――……!」
その瞬間。
背中を向けていたレオナルドが、驚いたようにフランチェスカを振り返った。
「レオナルドはたくさん私にくれたよ。初めての友達も、私が無理を言ってねだった銃も、綺麗な薔薇の花も!! いまは自分の命を懸けてまで、私の願いを叶えてくれようとしている。そんな友達をここで亡くして、私が『平凡で普通の人生』を過ごしていけると思う!?」
「……フランチェスカ……」
氷の壁から、みしみしという音が大きくなる。
「ううん、友達だからじゃない……! もしもあのとき、レオナルドが友達になるって言ってくれていなかったとしても、おじさまを止めるためにレオナルドが死ぬなんて絶対に嫌!!」
大きく息をするだけで、煙の焦げ臭さまで肺に入り込むかのようだ。吸ってしまわないように気を付けながら、思いっきりバケツを振りかぶる。
「だから、レオナルド……!」
がんっと強くぶつけると、そこから一気に亀裂が入った。
フランチェスカは足を振り上げ、とある一点に狙いをすます。
「悪党なら、私をどう利用してでも一緒に生きて……!!」
「……っ!!」
そうして体重をかけるように勢いをつけ、ハイヒールの踵を打ち込んだ。
がらがらと大きな音を立て、氷の壁が砕け落ちる。部屋の中に飛び込んだフランチェスカを、レオナルドの腕が抱き留めた。
「――フランチェスカ」
「レオナルド!!」
ようやく会えた。
なんだかそんな風に実感して、泣きそうな顔でレオナルドに微笑む。
「……君は……」
恐らくは無意識であろう声が、囁くように紡がれた。
レオナルドの表情は、大切で仕方がないものを見詰めるようにやさしくて、ほんの少しだけ困ったようなまなざしだ。
「本当に、とんでもない女の子だな」
「……ふへ」
泣き笑いになってしまうのが恥ずかしくて、フランチェスカはわざと悪戯っぽく笑ってみせた。




