334 父と娘
「……怪我は無いか?」
尋ねる声は、僅かに掠れていた。
「平気。レオナルドのスキルが、ずうっと守っていてくれたの」
父の腕の中で感じるのは、子供の頃から知っている煙草の香りだ。
「それに私は、パパの娘だから」
「……!」
フランチェスカの父は強い。
傷付けることが出来るとすれば、それは母と、娘であるフランチェスカだけなのだ。
「私、きっとパパにひどいことを言ったよね? 本当に、本当にごめんなさい……」
「いいんだ」
小さな頃、初めて父に抱き締められたときと同じ声音が、フランチェスカの耳元で紡がれる。
「お前が責を負う必要など、なにひとつ無い」
「…………っ」
父はきっと、本心からそう言ってくれている。
「……私ね、パパ」
やはり、必要なのは謝罪ではない。
フランチェスカが伝えるべきなのは、先ほど誓った通りの言葉だ。
「パパとママの娘になれて、本当によかった」
「……フランチェスカ」
いっそう父に縋り付く。
そうしなければ、子供のように泣きじゃくってしまいそうだ。
「ママが私を愛してくれていたって、会ったことがなくても知ってるの。……パパがいつも、本当にやさしい顔をして、ママの話をしてくれるから」
「…………」
父の手が、レオナルドとは違った触れ方で、フランチェスカの頭を撫でてくれる。
「私がママに愛されていた理由は、パパとママがお互いを大事にしあっていたから。……私のパパが、ママにとって世界一の旦那さまだったからだよ」
母がいまでも生きていたなら、きっと毎日そう言って笑った。
「この世界に、ふたりの娘として生まれて来られて幸せ。私は、この世界が大好き」
「フランチェスカ……」
「だからね」
顔を上げ、父のことを見上げて笑う。
「ありがとう。……私の、世界一のパパとママ」
「――――――……」
フランチェスカと同じ色の瞳が、見開かれて揺れた。
そうして父は、静かに首を横に振る。
「……礼を言うのは、私たちの方だ」
小さな頃、父に抱き上げられて眠った日のように、とんとんと背中を撫でられた。
「生まれて来てくれてありがとう。……私たちの、フランチェスカ」
「……うん……」
笑顔を作ろうと頑張ったのに、涙の雫が零れてしまった。
「……ごめんね。いくら敵の気配がないからって、危ないのに!」
恥ずかしくて拭おうとするけれど、本当は泣いている時間も無い。フランチェスカは急いで振り返り、見守ってくれていた婚約者を呼ぶ。
「レオナルド。パパに言えたよ、ありがとう」
「ああ」
銃声は静まりつつあるが、いつ敵が来るとも限らない。ずっと周囲を守ってくれていたレオナルドに微笑んで、それから父のことを見上げる。
「パパ。――私、レオナルドのことが好きになったの」
「!」
父がひとつだけ瞬きをした。
レオナルドも驚いたようだったが、これを告げたのにも理由があるのだ。
「だからね。お祖父ちゃん同士が決めた婚約でも、心配しなくて大丈夫」
「……そう、だったか」
「へへ。……安心してね!」
少しの気恥ずかしさもありながら、はにかんで告げた。
「私もいつかのママみたいに、ずっと傍に居たい人の花嫁になるよ」
「…………!」
父が息を呑んだのと同時に、レオナルドがフランチェスカの名前を呼ぶ。
「フランチェスカ……」
「あ……ひょっとして、まだ言ったら駄目だった!?」
こういうときの作法が分からず、フランチェスカは慌ててしまう。どうしてか何も言ってくれないレオナルドを見て、エヴァルトが珍しくふっと笑った。
「……その男を大事にしてやれ。フランチェスカ」
「!」
思わぬ形の肯定が嬉しくて、フランチェスカは大きく頷く。
「うん!」
「……おとーさま……」
物言いたげなレオナルドが、諦めたようにフランチェスカを見る。その上で、穏やかなまなざしを向けてくれた。
「つくづく君には敵わないな。俺のフランチェスカ」
「……レオナルド」
「だが……」
そのくちびるから、微笑みが消える。
「未来の話は後にしよう。――お父君、フランチェスカを」
「!」
レオナルドは、エントランスホールから伸びる階段を見上げた。
「他の連中にも、フランチェスカの顔を見せてやってください。撤退を含めた、後始末をお願いします」
「待って、レオナルド!」
レオナルドの考えが分かってしまい、フランチェスカは彼の手を掴む。
「クレスターニの所へ、ひとりで行こうとしているの? 駄目だよ、そんなことさせられない!」
「…………」
「……だって」
月の色をした瞳を見上げて、無性に不安な気持ちになった。
(私がここでクレスターニの話をする度に、見たことのない目をしてる)
双眸の奥で静かに揺れるのは、殺気とすら呼べないほどの暗い光だ。
「私も行く。一緒に……」
フランチェスカが言い募ろうとした、そのときだった。
「――――え」
体の周囲に、ふわりと淡い光が湧く。
(見たことがある。この光……)
「フランチェスカ!!」
レオナルドの左手と父の右手が、それぞれフランチェスカに伸ばされた。
次の瞬間、フランチェスカの傍に影が過ぎる。咄嗟に戦闘に切り替えた父が、すぐさまスキルの剣を掴んだ。
(クレスターニの、転移の光……!!)
それに考えが至ったのは、レオナルドがフランチェスカを捉えた瞬間だ。
「うあ……っ!!」
「――――っ」
転移による揺らぎを感じた数秒後、ほんの一拍の間隔を置いて、フランチェスカはゆっくりと目を開けた。
「大丈夫か? フランチェスカ」
「レオナルド……」
どうやら、レオナルドと一緒に強制転送をされたらしい。
心強い状況のはずなのに、心臓が嫌な鼓動を立て始める。転移させられたこの部屋を、フランチェスカは知っている。
「――――やあ」
「!!」
その部屋の奥にある執務椅子に、男は悠然と座していた。
「すまないな。急に呼び立てることになって」
雪の上に舞い落ちた灰のように、淡く濁った色合いの髪。
片目が前髪で隠れているのに、誰が見ても明白なほどの美しい顔立ち。はっきりとした二重で切れ長な目元に、それを縁取る長い睫毛。
「そろそろ来ると思っていた。想像よりは少し遅かったが、及第点かな」
「…………」
何も言わないレオナルドが、フランチェスカを庇うように前に出る。
深い緑のネクタイを結び、革の手袋を嵌めた手で頬杖をつく人物は、逆光の中で楽しそうに笑った。
「歓迎するよ。――レオナルド」
(……クレスターニ……!!)




