330 届かない祈り
※昨日も更新しています。前話をお読みでない方は、ひとつ前のお話からご覧ください。
【第5部6章】
(……どうしよう)
屋敷の地下、美しい礼拝堂の中に蹲り、『フランチェスカ』は耳を塞いでいた。
(失敗してしまった。クレスターニさまのお役に立てなかった。記憶を取り戻しておいでって、そう命令を授けてくださったのに……!!)
つい先ほど、クレスターニの執務室で、彼の前に立ったときのことを思い出す。
『やっぱり上手に出来なかったんだな。フランチェスカ』
『あ…………』
神にも等しい存在は、フランチェスカの父と同じ色の瞳をこちらに向けて、甘い声で優しくフランチェスカを叱る。
『レオナルドに会えば、君から不自然に欠けた記憶が戻ると信じたんだが』
この人を失望させてしまった。
言外にそのことが伝わってきて、『フランチェスカ』は息を呑む。
『君に掛かっている洗脳は、本来のスキルから歪んでいる。……歪んだ洗脳状態においては、記憶の欠如という不具合が起き、俺に君の秘密が明かされない』
『…………っ』
『本来の、記憶を保持しているらしい君に話させようとすると、人格がこの状態に切り替わるんだものな。なるほど、君にとって都合の良いスキルに変質させられたものだ』
クレスターニの笑顔は穏やかなのに、体の震えが止まらない。
『も……申し訳、ありません。クレスターニさま』
『いいや』
クレスターニはそっと苦笑して、フランチェスカを見下ろした。
『君にとって難しいことを頼んでしまった、俺が悪いよ』
『…………っ』
許しを授かったはずなのに、どうしてこんなにも怖いのだろう。
見放されるという恐怖心が、『フランチェスカ』の内側に張り付いた。クレスターニは、それすら見透かしているような笑みのまま、フランチェスカの頭を撫でる。
『この屋敷で守り、大事にし続けるべき君を、安易に外に出してしまった。その所為で、怖い思いをしたんだろう? ……可哀想に』
クレスターニはフランチェスカから離れ、執務室の扉へと向かった。
『ルチアーノが眠ってしまって起きないらしいな。君は何か知っているか?』
『いいえ、何も……あ、あの、クレスターニさま!』
クレスターニは振り返ると、扉を開けて手で示す。
『部屋に戻って、ゆっくりおやすみ。――今夜は君の母の悪夢を、見ないといいな』
『…………っ!!』
それから自分の寝室には戻らず、『フランチェスカ』は地下に向かって、礼拝堂に座り込んでいた。
(ごめんなさい。クレスターニさま)
祈りを捧げる像はここにない。
空虚な祭壇の前で項垂れて、フランチェスカはまだ耳を塞いでいる。
(ごめんなさい)
『フランチェスカが生まれて来なければ、母君は死なずに済んだのにな』
クレスターニは、フランチェスカを心から心配してくれる。
『他の人間に打ち明けても、薄い言葉を吐かれるだけだろ? 母親が死んだのは、娘の君の所為じゃないって。……そんな嘘、聞かされたって辛いだけなのに』
(ごめんなさい。ママ)
押し潰されそうになる不安な気持ちを、クレスターニだけが理解してくれた。
『君の大罪は俺が許すよ。フランチェスカ』
(クレスターニさま……)
ぎゅうっと体を縮こまらせて、強く目を閉じる。
(クレスターニさまの役に立たなくちゃ。……だって、私のしてきた悪いことは、全部あのお方が許してくださる……!!)
そうすれば、『フランチェスカ』は救われる。
許されるためには、贖わなければならないのだ。そんなのは当たり前のことなのに、どうして頭が割れそうに痛いのだろう。
『フランチェスカ』
頭の中に響いたのは、クレスターニとは少しだけ違う声だ。
『――君は、なんの罪すら犯していない』
金色の瞳を持つ男の子は、フランチェスカを見据えてこう言った。
『君の大切な人は、誰ひとりそんな風に思っていないよ』
クレスターニと同質のまなざしで、まったく反対のことを告げられる。
あの瞬間を思い出し、フランチェスカは泣きたくなってしまった。
『君が生まれて来てくれたことで、幸福になった人しかいない』
(……そんなのは、嘘……)
『君の罪は、何もかも俺が、存在しないと証明するから』
離れた場所で、礼拝堂の扉が開く音がする。
『苦しまなくていい』
フランチェスカは顔を上げ、ゆっくりとそちらを振り返った。
『君は、君を愛する者たちに願われて、ただ幸せに生きてゆく』
姿を見せたのは、クレスターニではない。
どこか近しい空気を持って、それでも明白に異なる想いを持つ、フランチェスカと同じ年の青年だ。
『そうならない世界なんか、俺が壊すよ』
短く切られてふわふわと毛先の跳ねた、吸い込まれそうな漆黒の髪。それと相反する、陶器のような白い肌。
長くくっきりした睫毛に、通った鼻筋、酷薄そうなくちびる。
それから、フランチェスカが選んで彼に贈った、その髪と同じ黒の耳飾り。
「……レオナルド……」
こちらに歩いてくる彼は、たとえこんな状況であろうとも、呆然とするほどに美しい。
「フランチェスカ」
「……っ、来ないで……!!」
満月をそのまま象ったような、金色の瞳がこちらを見る。
「君のことを、迎えに来た」
「!」
レオナルドの纏う香水は、クレスターニとは違った甘いムスクの香りだ。その香りを傍に感じると、どうしてかまた泣きそうになるのだった。
「……今度こそ、俺と帰ろう」
「嫌……!!」
はっきりと言葉にした裏側で、別の思考が揺らぎ始める。
(……どうして『私』は、レオナルドを拒むの……?)
そんな疑問が、頭の中に浮かんで来たのだ。
「私はそんなこと望んでない。クレスターニさまのお傍に居るの、放っておいて……!」
(本当にそれが、私の願い?)
クレスターニの傍らで、レオナルドの敵になることを選んだ自分を、他人のように見詰めてしまう。
「あなたもパパも、みんな、嘘ばかり」
(……ふたりは、嘘なんて、ついたかな……)
レオナルドが、座り込んだ『フランチェスカ』の前で立ち止まった。彼を強く睨んだまま、嫌な言葉がいくつも溢れる。
「私を大事にするふりで。本当は、どうでも良いくせに……! 言ったでしょう!? 私は、平凡な人生を望んでいるの……!!」
何度も口にしたはずの願いが、どうして上滑りするのだろう。
(……やめて)
心の中で、思わずそんなことを唱えていた。
「私が大事? だったら叶えて。あなたたち悪党から、解放してよ」
(駄目。私の声で、レオナルドに嘘をつかないで)
「裏社会の人同士が起こす問題に、どうして私のことを巻き込むの!?」
(そんなこと、願ったことなんて一度もない……!!)
叫びたいのに、自由に動くことなど出来なかった。
レオナルドを拒む言葉も、父を傷付けるような言葉も、口にすらしたくなかったのに。それでもすべてがままならず、途方に暮れたそのときだ。
「――フランチェスカは、そんなことを望まない」
「…………!」
レオナルドの言葉に、息を呑む。
「だって俺は、知っている」
「レオナルド……?」
ほとんど呟くような声音で、フランチェスカは彼を呼んだ。
月の瞳でこちらを見据え、レオナルドは優しい声で言う。
「君が望む『運命』は、自分ひとりが平穏で、平凡な幸せの中で生きられる世界じゃない」
「!」
そう告げて、まるで跪くように片膝をついた。
「自分の選択で救えるもの、すべてを巻き込んで『光』へと進む。どんな悪党だろうと、絶対に見捨てないのがフランチェスカだ」
その手が、フランチェスカの頬に触れる。
賢者の書架でも、セレーナ家の跡地に建った教会でも、この男の子に抱き締められた。それなのに、触れられたのは久し振りのような気がして、心地良い温かさに戸惑ってしまう。
「俺の愛おしい、フランチェスカ」
「…………!!」
レオナルドは、いつもフランチェスカを助けてくれた。
「戻っておいで。――君が、大切だ」




