326 父と息子
「そうだ」
エヴァルトは何本目かの煙草に火をつけて、深く煙を吸い込んだ。
「そうした経緯や、妻が生前どのようなスキルを持っていたかを、あの子はまったく知らないが」
この煙草も、セラフィーナを亡くした数ヶ月後、自暴自棄の中で吸い始めたものである。
アルディーニはソファーに深く腰掛けたまま、表情を作ることはなく、何かを考えるように目を伏せる。そんな若者に、エヴァルトは続けた。
「私は弱かった。……フランチェスカは奇跡的に産声を上げたが、存在を視界に入れる度、どうしてもセラフィーナを思い出す」
「…………」
「その癖に、セラフィーナとの約束が頭から離れない」
フランチェスカを守ってくれと、それが最期の願いだった。
「娘を遠ざけては、約束に背くことになる。かといって傍に置いたままでは、私自身の振る舞いがフランチェスカを悲しませる。どうあっても、セラフィーナへの裏切りだ」
「……裏切り」
「フランチェスカが私を許してくれなければ、今でも向き合えていなかっただろうな」
愛おしい妻を失ってから、呆れるほどに弱くなったと自覚している。セラフィーナは最期まで強かったのに、生きている人間がこの有り様だ。
「フランチェスカが真実を知れば、あの子はますます自分を責める」
「…………」
アルディーニも同じ意見なのか、否定の言葉は出てこない。エヴァルトは灰皿に灰を落とし、細い紫煙をくゆらせる。
「一方で、母の死の詳細を知らない事実が、深いわだかまりになっているのかもしれない」
フランチェスカは昔から、度々セラフィーナの話をねだる。
けれどもそれは決まって、温かで幸せな思い出の話ばかりだ。それ以上のことを尋ねようとしないのは、無意識にでも避けているのだろう。
「俺が、フランチェスカなら」
そんな前置きをひとつ落として、アルディーニは率直な意見を述べた。
「すべてを聞いた上だとしても、母の死は自分の所為だと考えます。あなたや大人が、どのような言葉を掛けようとも」
「…………」
「ですが」
アルディーニは引き続き思案しているらしく、緩やかなまばたきをひとつ刻んだ。
「たったひとり。……俺による言葉であれば、フランチェスカの自責を突き崩せる糸口はある」
その物言いが意味することは、エヴァルトが想像した通りだろうか。
それを敢えて尋ねることはせず、エヴァルトは煙草をゆっくりと吸う。アルディーニは、天井に立ち上る煙を見上げながら、不意に言った。
「俺の父さんも、あなたと似た心境だったと思いますか?」
「……さあな」
簡潔な返答を投げたのは、不明瞭な質問だったからだ。間違いなく、意図的に曖昧な問い掛けである。
だからこそ、代わりにこんなことを答えた。
「先代アルディーニ当主は、私たちにとって少し先の人生を歩く、ひとつの道標となる存在だった」
「はは。いわゆる『先輩』というやつだ」
「だが、私がお前の父君を思い出す際、浮かんでくるのはあの背ではない」
首を傾げたアルディーニを前に、再び煙草の灰を落として告げる。
「幼いお前の小さな頭を、随分とやさしく撫でていた。……そうして幸福そうに笑う、父親としての姿だ」
「…………」
アルディーニは、もう一度緩やかに瞬きをした。
「……ふうん」
どんな心情の相槌なのか、感情が読めない返りごとだ。
アルディーニは、表情を淡い微笑みに変えた。その上で膝の上に頬杖をつき、人懐っこく見える仕草で言う。
「煙草って、気分を変えるのに何かと良さそうですよね。俺が二十歳くらいになったら、あなたと同じものを吸ってみようかな?」
「………………やめておけ」
エヴァルトはげんなりした気分になり、それを煙にして吐き出した。吸い殻を灰皿に押し付けて、馬鹿げた提案を却下する。
「お前が体を壊すことがあれば、フランチェスカを泣かせてしまう」
「……えー」
アルディーニは少し拗ねたようなふりをして、エヴァルトがテーブルに置いたドライフラワーのうち、赤薔薇の方を手に取った。
「それなら、あなたも禁煙してくださいよ」
「考えておく」
「はは。心にも無さそう」
微笑みをすぐに消したアルディーニが、ソファーに深く座り直す。赤薔薇を口元に寄せながら、いつもよりも穏やかな声音を紡いだ。
「……あなたが時々俺にする、不思議な対応」
「なんだ?」
「俺が当主を継いだばかりの頃は、真っ先に大人として扱ってきた癖に。一方で未だに、妙なところで子供扱いをしてくる……」
アルディーニの双眸が、ゆっくりと閉じられる。
「あれが、あなたなりに細君との約束を守ろうとした結果なのは、よく分かりました」
「…………」
この子供を気に掛けてやることも、セラフィーナの願いのひとつだった。
彼女がどんな運命を見ていたのか、今となっては分からない。遺された人間に出来ることは、本当に僅かでしかないのだ。
(……ようやく寝たか)
本当は寝台に寝かせたかったが、それこそ相手は幼な子ではない。起こさずに対処することは、難しいだろう。




