325 運命の約束
『あのね、エヴァルト』
セラフィーナはぽすっとエヴァルトに身を預け、とある事柄を切り出してくる。
『あなたはきっと、フランチェスカを大切に育ててくれるって分かってる。だけどもうひとつ、約束をしてほしいの』
『約束?』
セラフィーナはひとつ頷いて、こう言った。
『これから先の未来で、フランチェスカを取り巻く子供たち。その子たちのことも、どうか一緒に気に掛けてあげて』
『セラフィーナ』
『先に生まれたリカルド君や、これから生まれるソフィアの弟か妹。私の所為で巻き込んでしまったロンバルディの子供たちも、それから……』
エヴァルトの指に指を絡めて、セラフィーナは目を閉じる。
『レオナルド君もよ。特にこの子は、私たちの未来の息子になるんだもの』
その願いに、エヴァルトの胸がざわついた。
『……どうしたんだ?』
出産を間近に控えており、不安が募っているのだろうか。
その物言いは、まるで不在を託すかのようだ。アルディーニ家の夫人が臥せっていることを、勘付かせてしまったのかもしれない。
『なんでもないわ』
その声音は、自分に言い聞かせるようでもある。
『幸せだから、未来の約束を増やしたかっただけ。……それだけなの』
『…………』
『きゃ!』
そのまま柔らかく抱き締めると、セラフィーナは驚いた様子のあと、溶けるような笑みを浮かべてこう言った。
『ありがとう。……大好きよ、私のエヴァルト!』
セラフィーナが、『裏切り者の聖女』として命を狙われたのは、その翌日のことである。
***
『……セラフィーナ!!』
『……ごめん、なさい……』
夥しい血が溢れる中、屋敷の門前に蹲ったセラフィーナは、両手で必死に腹部を守っていた。
『ごめんなさい。……エヴァルト、ごめんなさい、フランチェスカ……』
『話すな……!』
彼女が襲撃者に撃たれたのは、心臓に近い左の肩口だった。
すぐさま致命傷になる負傷ではない。ただし、あまりにも出血が多すぎる。エヴァルトは傷口を手のひらで押さえながら、セラフィーナに向けて何度もこう告げた。
『しっかりしろ、大丈夫だ。傷を塞がせる、待っていろ』
治癒スキルを持った人間なら、屋敷に何人も抱えている。安心させるために呼び掛けながらも、状況のまずさは理解していた。
(母親がこれほどの血を流せば、赤子は……)
スキルで傷は塞がっても、流れ出た血液が補える訳ではない。胎内で守られる子供にとって、それがどれだけの危機を意味するだろう。
それと同時にセラフィーナの命も、傷の治癒だけでは維持できない。子供を身籠もっている状況下で、どれほどの手段が取れるだろうか。
『私の、所為で……』
『違う』
セラフィーナが呼吸をする度に、傷口から新しい血が溢れる。
(セラフィーナは聖樹浄化のスキルを失った。それを信じなかった聖樹の管理者が、隣国からセラフィーナを追ってくるとは……)
セラフィーナが聖樹育成の試みを放棄し、裏切ってファレンツィオーネに逃げたのだと、そんな妄執に駆られたらしい。
すでに息絶えたその愚者によって、妻と子の命が奪われようとしているのだ。
『エヴァルト。……エヴァルト……』
『ここにいる』
治癒スキルを持った構成員たちが駆け付ける中、エヴァルトはセラフィーナの手を握った。
いくつもの光が迸るものの、深い傷はそれだけでは塞がらない。何人もの人間がスキルを重ねるが、セラフィーナの指先は、どんどん白く染まってゆく。
『当主、王城医務室への転移準備を。血液増幅のスキルを持つ医者が……!!』
『頼む』
部下に指示を出しながらも、絶望的であることを知っていた。その医者はここ数日、アルディーニ当主の妻を救命するために、スキルを使用し続けているのだ。
(このままでは、セラフィーナと赤子は……)
最悪の事態が過ぎった、そのときだった。
『……あなたは』
セラフィーナの指が、弱々しい力で握り返してくる。
『私のことを、ぜったいに、守ってくれる?』
『……当たり前だ……』
それならば、目の前の現状はなんだろうか。
矛盾をしていると分かっていても、否とは答えられなかった。ただただ縋るような心情で、セラフィーナの手を握り込む。
『よかった。……それ、なら』
セラフィーナは、そのくちびるを微笑みに綻ばせた。
『私のそんな運命を、この子にあげる』
『……セラフィーナ……?』
エヴァルトと固く結んだ手を、そのまま腹部に押し当てる。
妻が何をしようとしているのか、エヴァルトはようやく気が付いた。
『ファレンツィオーネの剣。世界最強の剣聖である、私の夫……』
『……やめろ』
『これからは、この子を、守ってあげてね』
我が子に向けた祝福の言葉が、エヴァルトにとっては絶望に響く。
『……フランチェスカ。私たちの、大切な……』
『やめてくれ、セラフィーナ!』
次の瞬間、出会った日に見たものと同じ光が、彼女の手の中で瞬いた。
『…………っ』
同時に、エヴァルトのくちびるへ押し当てられたのは、血の気の失せたくちびるだ。
『運命変化』のスキルを使った反動に、いまのセラフィーナが耐えられるはずもない。それでも、冷たいキスを交わした後、セラフィーナは淡く笑っていた。
世界で一番美しい微笑みは、今もなお鮮やかなままだ。
***
あれから十七年の月日が経ってすら、すべてが色褪せることはない。
「……私は妻を、守れなかった」
「…………」
『数日前に生まれた』と聞いていたはずの赤子は、今やアルディーニ家の当主になっている。
当然ながら、出来事のすべてを仔細に話した訳ではない。たとえば、王室の医者が彼の母親を診ていたことなども、エヴァルトの胸の中だけに留めたことだ。
それでも長くなってしまった話を、アルディーニは黙って聞いていた。
その上で、ぽつりとこう呟く。
「……それが、フランチェスカの母君の最期」




