322 運命の聖女
マッチを擦って火をつけると、深く吸うことで肺を満たす。フランチェスカが連れられて以降、目に見えて本数が増えたとグラツィアーノが案じていたが、エヴァルトにも当然自覚はあった。
「……あなたは」
「?」
エヴァルトが煙を吐き切るのを待たず、アルディーニはこう続ける。
「娘の為に、俺を都合よく使い捨てるべきだ。休息など、悠長な指示をしている場合ではないでしょう」
「フランチェスカの幸福を願うのであれば、あの子の大切な人間も尊重しなければならない」
「…………」
そのことを、アルディーニ自身も理解しているはずだ。
「お前の言葉が、フランチェスカの洗脳を解く可能性がある。そのことは、先ほどの光景を見て理解した。――その鍵は、母親の死に伴うフランチェスカの罪悪感を、晴らすことかもしれないという点も」
「だったら尚更、さっさと教えてもらえませんか」
「言っただろう。私の妻と娘、それぞれに交わした約束があると」
聖夜の儀式のリハーサルで、フランチェスカを久し振りに背負って帰る際、こんな風にねだられた。
『パパがママと結婚するまでのお話を、今度はその子にも、聞かせてあげてほしいな』
「これから話すのは、私と妻の話だ。……ただし」
紫煙の苦みに眉根を寄せながら、エヴァルトは切り出す。
「フランチェスカには伝えたことのない真実を、お前に話す。『アルディーニ』」
「…………」
***
運命の日、当時十六歳だったエヴァルトは、腹から夥しい血を流していた。
撃たれた場所は他にもある。右脚と、左の肩口だ。土砂降りの雨の中、とある馬車を庇って転落したのは、死角の多い崖の下だった。
『……隣国の「聖女」奪取を阻止することが、我らの国王陛下より賜った命令だ』
地面に広がる血を眺めながら、カルヴィーノ家当主である父の言葉を思い出す。
『同盟国に裏切り者がいる。隣国の「聖女」はどうやら、その国に身柄を狙われているのだ。隣国から我が国に援軍の要請が入り、当家がその栄誉ある任務を遂行することとなった』
聖女とは、随分大仰な呼び名だった。
教団にも、そんな役職を持つ者は存在しない。それは隣国ヴェントリカントが独自に付けた、とある女性の肩書きだという。
『エヴァルトよ。陛下への忠誠、その命をもって示せ。――たとえ死ぬことになろうとも、ご期待に背くな』
『……は。父上』
結果として、『聖女』と呼ばれた女性を乗せた馬車は、壮絶な襲撃に遭ったのである。
隣国側の兵は、思った以上に統率が取れていなかった。王室や貴族家の間のしがらみ、教団との軋轢によるものだと聞いてはいたが、このままでは聖女を守り切れない。
(敵の狙いは彼女の誘拐、あるいは殺害だ。他国に『聖女』を誕生させるくらいなら、脅威となる前に殺す気でいる)
エヴァルトはそう判断し、戦略を単騎突破に切り替えた。
『剣聖』のスキルが使用不可となり、残るふたつのスキルも使い切って、残る盾は自分の体しかない。そう考えて吊り橋の前でひとり留まり、一台の馬車だけを逃したのだ。
こうすることで、命令を守れる。
(恐らくは、このまま死ぬだろうが……)
実際のところ、本当は全てがどうでもよかった。
カルヴィーノの次期当主として、さまざまな期待が注がれる。しかし、エヴァルトが『忠臣』として完璧に振る舞えるのは、こなすことが出来たからというだけの理由だ。
命じられた通りに生き、家の意向に沿って王に仕え、やがて命令を果たして死ぬ。
こんなものを、忠誠と呼ぶはずもない。だが、幼い頃から赤い血溜まりの中で生きてきたエヴァルトには、そうした人生さえも色のないものに思えていた。
そんなとき、彼女に命を救われたのだ。
『――見付けた!!』
『!』
死に掛けたエヴァルトの前に現れたのは、美しいひとりの女性だった。
甘そうな紅茶の色の長い髪に、赤い瞳。その赤は、エヴァルトの髪色と同じ色のはずなのに、見たこともないような鮮烈さを感じさせた。
『君は……』
土砂降りの中、蹲ったエヴァルトを見下ろす彼女に、信じられない気持ちになる。
『逃したはずだ。「聖女」が何故、ここに……?』
『決まっているわ』
その髪もドレスも雨に濡らし、瞳に強い光を灯らせて、聖女と名付けられた女性は言った。
『私の剣士。――あなたのことを、助けに来たの』
『……!』
守護対象として紹介されたときから、奇妙な令嬢だとは思っていた。
表情を動かさないエヴァルトを見て、『殺し屋みたいな怖い顔ね』と言った割には、エヴァルトに菓子を差し出して笑う。
自分が命を狙われているというのに、前後を走る他の馬車のことを心配して、逃すため囮になろうとした。
エヴァルトがひとり残る判断をしていなければ、彼女は間違いなく、今頃生きてはいなかっただろう。
『ごめんなさい。私があなたを、巻き込んだ』
『……早く逃げろ。君の世話係にも裏切り者がいる、すぐに新たな追っ手が来る……』
『……あなた、この傷……』
血とは無縁に生きてきた令嬢も、出血の多さを察したのだろう。
『もう、助からない』
ただでさえ血を流しすぎた上、この雨で体温が低下している。受け身によって骨は無事でも、この崖を登ることは難しい。
『私はここで死ぬ。それで構わない、分かったら……』
『……いいえ』
女性はひとつ呼吸をして、エヴァルトの手を強く握り込んだ。
『――あなたの運命は、私が変える』
『…………?』
そうして溢れ出した光と共に、『聖女』は美しく笑ったのである。
『……これ、は……』
その日から、聖女セラフィーナの存在は、エヴァルトの運命のすべてを変えた。
***
『……私の持っているスキルのうち、変わっているものはふたつかしら』
数日後、高熱を出したままのセラフィーナは、寝台の中でそう笑った。




