318 愛と祈り
エヴァルトの足元に伏したのは、フランチェスカがけしかけたことで負傷した、神父や司祭だ。彼らは洗脳されているだけで、決して悪人ではない。
娘がこの状況を作り出している事実は、エヴァルトにとって耐え難いものだろう。
「こうすることで傷付くのは、お前自身で……」
「どうしたの? パパ」
フランチェスカの声に、エヴァルトが言葉を止める。
「大事に育ててきた愛娘が、パパの知らない一面を見せているだけで、そんなに嫌なんだ」
父親とまったく同じ色をした瞳が、冷たさを帯びて眇められた。
「赤ちゃんの頃の私すら、知らないパパが?」
「……!」
エヴァルトが、フランチェスカの言葉に息を呑む。
「私、大聖堂の地下で幻聴を聴いたよ。昔パパに言われた酷いこと、思い出しちゃった」
「フランチェスカ……」
「パパに嫌われていたときの夢を、今もまだ見る。でも、仕方ないよね」
そうしてフランチェスカは、寂しそうな微笑みを作るのだ。
「ママが死んだのは、私の所為だから」
「…………っ」
(……まずいな)
周囲の殺気に気を配りながら、レオナルドはエヴァルトに声を投げる。
「お父君、彼女の言葉を聞き入れては駄目です。それは意味のない音の羅列、あなたを惑わせるための攻撃だ」
「……違う。これは紛れもなく、フランチェスカ自身の言葉……」
「だが、今は洗脳されている」
そう言い切ったレオナルドを、エヴァルトが強く睨み付ける。それはまさに、子を守ろうとする親の殺気だった。
「たとえ洗脳されていようと、フランチェスカは私の娘だ」
(……俺がセレーナに撃たれそうになったとき、父さんも同じまなざしをしていた)
父の殺気に触れたのは、あのときのただ一度きりだ。
(これが、父親というものか)
洗脳された娘が、どれほど普段と異なる振る舞いをしていようとも、絶対に受け入れてしまうのだ。
(自分の子供がどのように変わろうと、どんな選択をしようとも、変わらない想いを注いで止まない。……それも、深い愛情の形なんだろう)
その感情を知ることはなくとも、理解に近いものを抱くことは出来る。
だからこそレオナルドは、エヴァルトとは異なる選択をするのだ。
「……あなたを傷付けるために選ばれた言葉を、フランチェスカの言葉と受け取るな」
「!」
フランチェスカが最も悲しむのは、父親に娘として大切にされないことではない。
母の死を、自分の所為にされることでもない。彼女のやさしさが何処にあるのか、この男の方が知っているはずだろう。
「フランチェスカなら、あなたを否定する言葉の選択はしない。こんな風に洗脳された彼女を、フランチェスカと同一視することすら論外だ」
「アルディーニ……」
「フランチェスカの魂は、洗脳されても、生まれ変わってすらも穢れない。そうだろう?」
レオナルドは、真っ直ぐにフランチェスカのことを見据える。
「――俺の愛おしい、フランチェスカ」
「……何を、勝手に……」
フランチェスカが、レオナルドのことを悔しそうに睨む。
「変なことを言わないで。私はクレスターニさまの物になったからこそ、本物なの」
「有り得ない。フランチェスカの美しい本質は、『お前』の中にはない」
「クレスターニさまが全部正しい……!! あのお方は、私を、許してくださって……」
「許す?」
本当に、このフランチェスカは訳の分からないことを言う。
「そんな必要はないだろう。だって」
不快な頭の痛みを押し殺しながら、レオナルドは笑った。
「君は、なんの罪すら犯していない」
「…………っ」
フランチェスカなら、自分以外のすべてにそう告げる。
「私、は……」
顔を顰めたフランチェスカが、両手で強く耳を塞いだ。
(いつだって、自分が犠牲になることを厭わない、優しい優しいフランチェスカ)
レオナルドの知るフランチェスカは、他人のために命を投げ出すようなことを、平気で選ぶ女の子だ。
フランチェスカの耳元には、レオナルドの贈った耳飾りのうち、彼女を示す赤薔薇だけが砕けている。
「私は、悪い人間で」
(君の行動の奥底には、確かな罪悪感が存在する)
前世のフランチェスカが死んだのは、祖父を庇ってのことらしい。
つまりはきっと前世から、何かを懺悔し続けている。直接聞いたことはないが、彼女が祖父に育てられていたことからも、両親の死に理由があるのだろう。
「……だって、ママを……」
(クレスターニは、それを揺さぶったのか)
体の傷は存在しなくとも、害されたことに変わりはない。
あの男は、やはり我々の敵なのだ。
「フランチェスカ、お前の所為ではない。あれは……!!」
レオナルドは、エヴァルトの言葉を視線で制した。
その上で、彼女に向かって呼び掛ける。
「『フランチェスカ』」
いまのフランチェスカは、これまでに見て来た洗脳対象者が、それを打ち破ろうとしている様子を思わせた。
「君は、悪党なんかじゃないよ」
「……嘘」
確かにレオナルドは嘘吐きだ。
だが、フランチェスカに向ける想いのすべてに、ひとつも嘘はないと言い切れる。
「君の母親が死んだのは、君の所為じゃない」
「違う、私の所為……!」
フランチェスカが首を横に振る。レオナルドは一歩踏み出して、彼女にそっと手を伸べた。
「私が居なければ、ママは今でも、パパの傍で……」
結界はレオナルドを拒まない。
レオナルドは、フランチェスカに微笑んで告げた。
「君の大切な人は、誰ひとりそんな風に思っていない」
「…………っ」
エヴァルトだけではない。
きっと彼女の亡くなった母、前世の両親や祖父だって、フランチェスカを責めた者はいないのだ。
「君が生まれて来てくれたことで、幸福になった人しかいない」
「そんなの、有り得ない……!!」
「君の罪は、何もかも存在しないと、俺が証明するから」
彼女の震える肩に触れて、奥底の魂にこう告げる。
「苦しまなくていい。君は、君を愛する者たちに願われて、ただ幸せに生きてゆく」
「……わたし……」
「そうならない世界なんか、俺が壊すよ」
レオナルドはやはり、フランチェスカに想いを囁くたび、何かに祈りたいような気持ちになる。
「愛している」
「…………っ」
誓いを立てて、その華奢な体を抱き締めた。
「だからどうか」
薔薇の飾りが揺れる小さな耳へ、レオナルドはひとつ願いを紡ぐ。
「君自身の想いで、ちゃんと俺の名前を呼んで」
「…………」
フランチェスカが、僅かに息を呑んだ気配がした。
これは、まだフランチェスカに出会ったばかりの暖かな春に、初めてレオナルドが望んだことである。
「――俺が名前を呼んで欲しいのは、世界でただひとり『君』だけだ」




