313 水色
その部屋は、無数の蝋燭によって照らし出された、小さな礼拝堂だったのだ。
会衆席の間に敷かれた深緑の絨毯が、祭壇へと真っ直ぐに伸びている。その壇上は空座になっていて、何も祀られていないようだ。
(空っぽの、礼拝堂……?)
祈りの場であるはずなのに、一体どうしてなのだろう。
しかしそれでも、この部屋は幻想的な空気に満ちている。燭台が等間隔に据えられた壁は、絨毯と同じ深緑色の壁紙に彩られ、更には金の彫り細工が施されていた。
見上げた先に広がるのは、一面に描かれた天井画だ。空の果てを思わせるような水色の中に、様々な種類の花びらが散らされて、その中で天使たちが遊んでいる。
「……きれい」
その場に一歩進み出て、フランチェスカは呟いた。
クレスターニと対峙した書斎でも、天井には美しい花の絵があった。けれども不思議と目を奪われるのは、大きく描かれた花々の絵よりも、壁や天井に施された彫り細工だ。
(壁と天井の彫刻が、絵よりもずっと目立つようになってる……?)
礼拝堂の中央に立って、その細工をじっと見詰めてみた。
(ヒイラギの、葉っぱだ)
紋様に使われているモチーフは、鋭い棘を持つ葉である。
(……ヒイラギ……?)
心臓が、とくりと強い音を立てたように感じた。
(私、やっぱり何かを忘れてる。……忘れさせられている)
鼓動が早さを増してゆく。それと同時に、頭の奥が眩むような心地がした。
「…………っ!」
こめかみの辺りを両手で押さえ、フランチェスカはその場に座り込む。黒いドレスの裾が、まるで水中の花のように膨らんだ。
(『思い出すな』って、叱られてるみたい……!)
脳の深い場所に、もうひとつの心臓が埋められたかのようだ。どくどくと痛みが増してゆき、眉根を寄せた。
(また気を失っちゃう。意識を飛ばされる! 気絶しないように思考を逸らす!? ううん、駄目……!!)
こうして痛みに襲われるのは、クレスターニにとって都合が悪いことに近付いている証拠だ。
(逃げるもんか。もっと痛くなるようなこと、考えないと……!!)
どうにか体を支えるために、右手を絨毯の上に突いた。
(『ヒイラギ』は何? きっと何かを象徴してる。何処かを、誰かを、クレスターニを……!! 五大ファミリーの家紋のどれでもない。隣国を象徴するものでも、ない……)
はあっと息を吐き出して、どうにか呼吸を繰り返す。ぐらぐらと揺れる視界の中、扉の開く音が聞こえた気がした。
(……五大ファミリー……?)
この国を裏から支配する、五つの家をそう呼ぶのだ。
(……そうじゃ、なかった)
強い痛みで息が苦しい。朦朧とし始めたフランチェスカは、それでも考えを回し続ける。
(そうだ。この国の裏社会で、大きな勢力を持つファミリーが五つだけになったのは、たったの七年前……)
それまでは、六つの家が存在していた。
『あの拉致事件は、すべてレオナルドが仕組んだことだ。当主になるため、敵対ファミリーと手を組んで、邪魔だった父と兄を排除した』
(『あの家』が滅んだ理由について、ゲームではそんな風に、言われていたはず)
ゲームの画面を思い出し、フランチェスカは俯く。
『敵が父と兄を殺したあと、レオナルドは本性を現した。そのまま「敵のファミリー」も皆殺しにしたのは、口封じをしたかったんだろう』
(アルディーニ家を裏切って、レオナルドの敵になったファミリー)
十歳のレオナルドによって、敵対組織は壊滅したと、ゲームの世界でもこの世界でも言われていた。
(その家がなくなるまでは、六大ファミリーって呼ばれていたはず。それなのに、無意識に考えから外していた……『ゲームの一章』からずっと、名前も登場していたのに)
フランチェスカは、緑色の絨毯にぎゅうっと爪を立てる。
(第一章はセラノーヴァ家のリカルド、第二章はうちを継ぐ予定のグラツィアーノ。三章はラニエーリ家のダヴィードで、四章はロンバルディ家のエリゼオ……五章はパパ。六章は、隣国の王子であるルキノだと、思っていたけれど)
そうやって順当に辿ってゆくのであれば、七章の主軸がレオナルドであることに、それほど違和感は覚えなかった。
(だけど、違ったのかもしれない。ゲームの最終章って言われていた第七章、『黒幕』をメインにするはずのシナリオで、何処かの『ファミリー』を中心にするなら……)
肩で浅く息を継いでいると、フランチェスカ自身の長い髪が頬に掛かる。この髪色は、家紋の赤薔薇を象徴する鮮やかな赤だ。
五大ファミリーの一族は、それぞれの家が家門に掲げる花の色を、髪の色彩に持っているのである。
(……この家の色は、みどりいろ、ばっかり)
クレスターニの髪色は、雪を濁らせたような灰色だ。
けれどネクタイや上着の裏地は、絨毯やカーテンと同じ緑だった。
(クレスターニは、レオナルドのことを嫌ってるみたいだった。……憎んで、いた……?)
六大ファミリーのそのひとつは、レオナルドが消してしまったのだ。
その名前にようやく辿り着き、決死の思いで口にする。
「……六大ファミリーの、セレーナ家……」
「――――へえ」
楽しそうな声音に顔を上げて、フランチェスカは息を呑んだ。
「すごいな。思い出したのか」
「…………っ!!」
上着のポケットに手を入れた美しい男が、微笑んでそこに立っている。
「……クレスターニ……」
「流石は、俺たちの可愛いフランチェスカ」
クレスターニは優しく言って、ポケットから手を出した。そのままフランチェスカの前に片膝をつくと、おとがいをぐっと上げさせてくる。
「多少の支配や洗脳では、君の運命は潰せないらしい」
「……っ、あなたは……」
強い頭痛に抗いながら、フランチェスカは声を振り絞る。
「セレーナ家の、生き残りなの……? レオナルドの、お父さんたちを」
大切な男の子の微笑みが、フランチェスカの脳裏に浮かぶ。
「……アルディーニ家を、裏切った……!!」
「っ、はは!」
男が返した鮮やかな笑みは、分かりにくい肯定なのだろうか。
『許せない』という強い怒りで、頭が沸騰しそうになる。フランチェスカは、自身の顎を掴んでいるクレスターニの手首をぎゅっと掴み、押しやってどうにか引き剥がした。
(セレーナ家がクレスターニに操られて、アルディーニを裏切ったんじゃない)
生涯で一番の敵意を持って、目の前の男を睨む。
(セレーナの一族かもしれないこの人が、自分の家族を裏切って洗脳して、アルディーニ家を――……)
そうまで思考したところで、フランチェスカは絶句した。
「…………っ」
クレスターニは何も言わず、フランチェスカを静かに見下ろしている。
(どうして?)
そこにあるのは、フランチェスカの父とまったく同じ、空のような水色の瞳なのだ。
(……どうしてパパと、同じ色なの……!!)
フランチェスカは、泣き出したい気持ちでくしゃりと顔を歪めた。
「なあ。フランチェスカ」
大切な男の子とよく似た言い方で、クレスターニがこう紡ぐ。
「俺に、教えてほしいことがあるんだ」




