309 狼の憤り
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ラニエーリ家の当主補佐であるダヴィードは、強い苛立ちを抱えていた。
(……今、何処に居る)
夜の娼婦街は、世界にあるすべての醜い感情を、ひと塗りの煌びやかさで覆い隠した場所だ。
聞くに耐えない大声の酔客が、嘘という甘い蜜に溺れてゆく。香水と煙草の香りが混じり、笑い声と歓声の混濁する通りの中、何もかも全てが煩わしい。
(どうしてお前が、クレスターニに洗脳されなくちゃならねえんだ)
脳裏に浮かぶのは、赤い薔薇色の髪を持った少女のことだ。
彼女がクレスターニ側に落ちたと聞いたとき、焼き付くような怒りと吐き気が湧いた。あの男に乗っ取られるときの苦しみを、ダヴィードは鮮明に覚えている。
(今日で五日目。まともな進展もないままで、夜が来やがった)
身体中の血管が沸騰しそうなほどの憤りに、舌打ちをした。
ダヴィードの殺気が漏れ出ているのか、泥酔した男すらもこちらを避けて歩く。そんな中、わざわざダヴィードに声を掛ける者が居た。
「あら。ダヴィード坊や」
「…………」
近付いてきたのは、夜風に泳ぐドレスを纏い、その上に毛皮を着込んだ女だ。
「この所よく見掛けるわね。ひょっとして、ここにお気に入りの女の子でも出来たのかしら?」
「有り得ねえ。俺はただ、姉貴を商談に送って来ただけだ」
「怖あい。せっかくの男前なのに、そんな顔をしていたら台無しよ?」
くちびるを薔薇のように赤く塗った彼女は、こちらを見上げて妖艶に笑う。
その甘い声が、他の誰にも届かない囁きを口にした。
「――赤い『薔薇』は、今夜も売り出されていないみたい」
「…………」
彼女の危険が報告されなかった事実と、依然として行方は分かっていない現状が、ダヴィードに複雑な心境を生み出す。
「館でスープでも飲んで行く?」
「いらねえ」
「そ。残念」
何事もなかったように歩き出したダヴィードのことを、女はもちろん呼び止めない。そんな調子でダヴィードの傍には、更に幾人かが近付いてくる。
「港に着いた大きな船。重い荷物を下ろしたみたい、人買いは関与していなさそうね」
(どんな筋から集めた情報も、あいつの行方には届かない)
「最近様子がおかしいって噂だった伯爵は、大きなご病気が見付かったそうよ。ご乱心の理由はそれだって」
(鑑賞品のように閉じ込めて、何処にも出さないつもりか。……気色悪い真似をしやがって、冗談じゃねえ)
「人探しに特化したスキル持ち、お客さんに当たってみたけど駄目。みんなカルヴィーノ家かアルディーニ家に雇われたんですって、何処かと戦争でもするのかしら?」
娼婦街の出口まで歩き切ったダヴィードは、煉瓦造りの娼館の壁を強く殴った。
「っ、くそ……」
数時間前、焦燥に駆られるダヴィードに、姉は言った。
『こういう時こそ格好付けな、しっかりするんだ。……フランチェスカちゃんは絶対に大丈夫、そう信じて行動するしか無いんだよ』
(相手はあの、クレスターニだぞ)
ダヴィードは、その卑劣さをよく知っている。
姉のソフィアだって、クレスターニを軽く見ている訳ではない。ダヴィードを冷静にさせるための叱責だと理解しているが、感情が納得を拒むのだ。
(クレスターニに洗脳されて、現実がすべて塗り潰される。何もかもが曖昧になって、自分のことすら信じられないまま、いつまた思考が乗っ取られるかも分からない……あの屈辱と苦痛を、あいつが味わっているのなら)
どうして自分は、差し違えてでもクレスターニを殺しておかなかったのだろうか。
(こうしていても埒が明かねえ。カルヴィーノ家から姉貴に情報提供依頼が来ている、俺もその線を辿って……)
深く息を吐き出した、そのときだった。
「――ああ。居た居た」
「!」
聞こえてきたのは、耳を疑いたくなるほどに普段通りの声音だ。
軽薄な話し方のようでいて、誰もが耳を傾けてしまう。そうしていつのまにか、すべての言葉を信じてしまいたくなる。
(まるで、洗脳されているみてえに……)
そんな話術の持ち主が、ダヴィードの前に立っていた。
「情報収集をご苦労だったな。ダヴィード」
「……アルディーニ……」
アルディーニ家の当主であるその男が、鮮やかな微笑みを浮かべている。
色街の煌びやかな灯りを背にし、外套のポケットに両手を入れたアルディーニは、白い息を吐き出してこう言った。
「な? リカルド。今の状況なら美術館よりも、ソフィアの仕事場に居るはずだって言っただろ」
「……確かに、お前の言う通りだったと認めよう」
(風紀委員まで……?)
アルディーニの後ろにいた銀髪は、日頃からダヴィードによく絡んでくる人物だ。ダヴィードが警戒心を露わにすれば、アルディーニはこんな風に笑う。
「ここは寒いから、ラニエーリの屋敷にでも寄らせてもらおうかな」
「は? てめえ、何を勝手に……」
「――さあ。可哀想な狼」
「!」
アルディーニが浮かべる表情さえ、いつもとなんら変わらない。
(こいつ……)
だというのに、その金色の瞳には、研ぎ澄ました刃のような光が揺らいでいるのだ。
「薔薇の捜索を手伝わせてやろう。俺たちは同志だ」
「…………」
甘い蜜を与えるふりをして、他者の全てを支配する。
その振る舞いが、誰かを思わせるような気がした。




