286 捧げたもの
頭の混乱を抑え込むべく、目を閉じて静かに切り替える。
(何が起きたか分からないなら、予測して対策を立てるしかない。きっと私は洗脳されて、クレスターニの傍にいる……クレスターニのスキルを、咄嗟に『変化』させた上で)
まずは状況をそう仮定し、次に考えるべきことに移る。
(最優先は、無事に皆の所に帰ること。レオナルドの迎えが来ていない理由で、思い付くのは……)
フランチェスカは、先程まで座っていたソファーに戻ると、ふかふかの座面に腰を下ろした。
(ひとつめ、『私が洗脳されてから、まだ数十分くらいしか時間が経っていない』こと……これは考えにくいかも。だって、知らないドレスと靴に着替えまでしてるし)
せめて誰かに着替えさせられたのではなく、自分で着替えたことを祈るばかりだ。そうでなければすべてが解決した後、レオナルドや父が何をするか分からない。
(でも、私の爪の伸び具合……ここに来てから切った訳じゃないのなら、記憶にある長さと変わってない。日数が経っていたとしても、一日か二日くらいかも)
そのことに、ひとまずはほっとする。
(ふたつめ、『私が結界の中に居るせいで、レオナルドから探せなくなっている』。これは十分に有り得そうだよね? それと最後は……)
少々困った気分になって、フランチェスカは浅く息をついた。
(――洗脳中の私が、レオナルドのスキルを解除した可能性)
レオナルドたちは、フランチェスカが洗脳された状況を、果たして察知しているだろうか。
知られていても、知られていなくても、ひどく心配を掛けていることに変わりはないはずだ。
「ごめんね、レオナルド。……ごめんなさい、パパ。グラツィアーノ」
前世の記憶を取り戻したあとも、届かない謝罪を祖父に紡いだ。
(お祖父ちゃんに、死んじゃったことを謝った日を思い出すな。……それでも、あの時よりはずっと良い)
元気を出して、自分自身にそう言い聞かせる。
(今世の私はまだ生きてる。取り返しのつかない結果になる前に、今度こそ帰らなきゃ!)
レオナルドが掛けてくれたスキルについて、フランチェスカはおおよそ聞いている。
監視や追跡、特定の条件下で音声を届けるものなど、十数個のスキルが守ってくれていた。フランチェスカからそれを解除する方法も知っているのだが、問題があるのだ。
(私自身からは、レオナルドのスキルが今も有効なのか、無効になっているのかも分からない。洗脳中の私が解除しちゃってるかどうか、確かめようがないんだよね……)
追跡スキルが有効なら、無理やり結界を突破すれば、レオナルドに居場所を届けられる。
だが、もしもそれが無駄足に終わる場合、事態は悪化するだろう。
(だけど、私にはもうひとつ希望がある)
それを思い、ソファーの肘掛けをぎゅっと握り込んだ。
(レオナルドが私に掛けたのは、レオナルドが洗脳されたときの危険を考えて、私から解除できるものばかり。……でも、レオナルドのことだもの)
俯いて、見知らぬ靴を履いた自分の足先を見据える。
(きっと他にも、私にスキルを掛けてくれてる。私も存在を知らないけれど、レオナルドと私のどっちが洗脳されたとしても有効な、そんなスキルを)
そうやって、心からレオナルドを信じられるのだ。
(……すごいなあ。レオナルドは)
やさしい声と微笑みを思い出し、フランチェスカもくちびるを綻ばせた。
(思い出すだけで、心がじんわり暖かい。……よし、頑張ろう!!)
両手の拳をぐっと握り、気合を入れて頭上に掲げた。
(まずは『話し合い』かな。窓硝子を割ろうとしたんだもん、そろそろ……)
フランチェスカが推測した、ちょうどそのときだ。
「――入るよ」
おざなりなノックのすぐ後に、返事も待たず扉が開く。
そこに立っていたのは、水色掛かった銀の髪を持ち、不機嫌そうな顔をした少年だ。
「ルキノ!」
「…………」
フランチェスカが大きな声でそう呼べば、美しい少年は顔を顰め、ますます不快感を露わにする。
この少年は、隣国の王子『ルチアーノ』であり、洗脳とは無関係にクレスターニを崇拝する信奉者だ。
「やっぱりここは、クレスターニの拠点なんだね」
フランチェスカがそう確かめると、ルキノはそれに答えるのではなく、なんだか不思議なことを言った。
「……君、戻ったんだ」
「もどった?」
これは一体、どういう意味だろうか。
「あ……もしかして、自分の意思が? 戻ったよ、戻った! ほら」
両手でガッツポーズを作って主張するものの、内心では警戒を続けている。
(とはいっても、私が自分の意思を取り戻していられるのは、きっと一時的なものだ)
そのことを、フランチェスカは理解していた。
(これまで洗脳されていた人たちもみんな、クレスターニに支配されていない時間は、その人の意思に戻って行動してたもの。私はまだ、洗脳状態から逃げられた訳じゃない)
「可哀想だね。クレスターニさまの駒で居られる時間の方が、きっと幸せだったのに」
表情を曇らせたフランチェスカには言及せず、ルキノはふっと暗い笑みを浮かべる。
「もっとも、あのお方に自ら人生を捧げた僕の幸福には、到底及ばないだろうけれど」
「……幸福……」
大聖堂の地下で尋ねられなかったことを、フランチェスカは切り出した。
「ヴェントリカントの王太子であるあなたが、どうしてクレスターニに聖樹を渡したの? それが国を明け渡すことになるって、分かっているはずなのに」
「聞きたい?」
フランチェスカを見下すように笑ったルキノが、人差し指をくちびるの前に立てる。
「教えてあげない」
「…………」
明確な拒絶を示したルキノが、続いて窓へと目を向けた。
「そんなことよりも君、何やったの? 結界がすごい反応したって」
「窓硝子、靴の踵で割れないか試したの。こういうときの弁償用に、日頃からお小遣いを貯めてるのになあ」
「は?」
「誘拐されるの、ずーっと前から慣れてるから……」
訳が分からないという顔をしたルキノが、はあっと深く息を吐いた。
「まあいいや。それじゃ、連れて行くからさっさと立って」
「? 行くって、まさか」
瞬きをしたフランチェスカを見下ろして、ルキノがふっと嘲笑を浮かべる。
「お待ちかね。――クレスターニさまへの、お目通りだよ」




