281 薔薇の欠片
【第5部1章】
この国を覆う真っ白な雪は、多くの轍や足跡に踏み締められ、もはや氷の鎧のようだ。
王都の中心地に建つホールには、高位の貴族たちが真昼間から、新年を祝うために集まっている。石造りの広大な停車場に、一台の馬車がゆっくりと停まった。
その場で待機していた男たちが、黒薔薇の紋が入った馬車を護衛するように囲み、恭しく扉を開ける。
そうして、自分たちよりも遥かに年下の人物に向けて、忠誠を示した。
「お待ちしておりました。――当主」
「ん」
降り立ったのは、いささか整いすぎた美貌を持つ、黒髪に金眼の青年だ。
その薄い色素の瞳には、雪に反射する光が眩しいのだろう。彼が掛けているサングラスは、小さな顔を半分ほど覆うような大きさの丸いデザインで、流行に敏感な貴族たちが欲しがる一級品だ。
「欠席者は?」
「おりません。すべてリストの通りです」
青年は長身ではあるものの、いまだ成長途中であることを思わせる、引き締まって細い体付きをしている。
いかめしい大柄な大人を率いるには、やや不釣り合いな印象だ。にも拘らず、彼はいかにも慣れた様子で歩きながら、部下たちの問い掛けに返してゆく。
「ジョルダーノ家からの商談は、当主の読み通りの提案がありました。どのように戻しましょう」
「巧妙に誤魔化してはいるようだが、あいつは金に困っている。条件を吊り上げても呑むはずだ、極限まで縛り付けておけ」
微笑みを浮かべてはいるものの、それでも声音は冷淡だ。それに応じる部下たちも、当然のように若き当主へと判断を求めた。
「港の品については、『入念な検品』をしている様子です。三人ほど追加で回しても?」
「移動の前に手配しておいた。あとは思う通りに動かしていいよ、好きにしろ」
「は」
ホールのエントランスに続く階段を、青年が登り始める。
部下の男は立ち止まり、その背中へとこう尋ねた。
「ブルーノの処分はどのように?」
「んー……裏切り者にしては、十分に泳がせてやった方だからな」
青年はサングラスを外しながら、ことんと首をかしげる。
そうして部下を振り返ると、長い睫毛に縁取られた双眸を細めて、可憐な少女のように笑うのだ。
「そろそろ、俺が殺しておこう」
「――では、後ほど連れて参ります」
放り投げられたサングラスを、部下の男が受け止める。
「行ってらっしゃいませ。当主」
「ああ」
そうして青年、アルディーニ家の当主レオナルドは、パーティーホールへと入っていった。
(……さて)
外套を預けて乾杯用のグラスを受け取ると、とある男性の姿を探す。赤い薔薇のような髪色は、レオナルドが切望する少女と同じ色だ。
レオナルドは片手を顔の高さに上げて振り、わざと軽い調子で声を掛けた。
「お待たせいたしました。『おとーさま』」
「…………」
レオナルドに眉根を寄せたのは、フランチェスカの父であるカルヴィーノ家の当主、エヴァルトだ。
「お前に父と呼ばれる筋合いはない」
「『まだ』の間違いでしょう? ……おっと失礼!」
レオナルドはわざとらしく口元を覆い、悪戯だと分かりやすい笑みを向ける。
「まだ認めていただいた訳ではないのに、無礼な口を」
「ふん。……心にもないことを」
互いにこんな話をしながらも、思考は彼女で埋め尽くされていた。
(……フランチェスカ)
発動させ続けているいくつかのスキルが、彼女の身体の無事を示している。
それでも予断は許さない状況だ。レオナルドは、内心の感情をすべて微笑みで隠し、無表情のエヴァルトへこう告げた。
「それでは今日も『仕掛け』といきましょうか、お義父さま」
「…………」
「フランチェスカを奪還するためには、すべてを使う。そうでしょ?」
エヴァルトは、フランチェスカと同じ色の瞳でレオナルドを見据えたあと、この場に集った大勢の貴族たちにまなざしを向けた。
「当然だ」
「ははっ」
たとえ、この場にいる全員を殺すことになっても構わない。
レオナルドはグラスを片手に、まずはひとりの貴族へと近付くのだった。
***
『フランチェスカには、いくつものスキルを施しています』
あの日、カルヴィーノ家の賓客室に通されたレオナルドは、エヴァルトに一部の事実を告げた。
『害意があるスキルを弾く結界。物理攻撃を、壊れるまでは弾く防護。それと、特定の人間の接触を拒絶するスキル』
『……』
『他にも複数の仕掛けがある。たとえあなたが相手であっても、すべてを話すつもりはありませんが……』
暖炉の前、円卓を挟んで向かいに座したエヴァルトに、レオナルドは目を眇める。
『少なくとも、フランチェスカには指一本触れさせません』
スキルの酷使を続けていることで、頭痛がする。
それを決して表に出すことはせず、代わりに微笑んでこう告げた。
『たとえ銃や攻撃スキルを使っても、彼女を傷付けることは出来ない』
『……だが』
表情を変えないエヴァルトの、地を這うように低い声音が紡がれる。
『お前のスキルで、クレスターニの洗脳は防げなかったのだろう?』
『…………』
レオナルドは、ひとつ息を吐く。
『その理由については、すでに仮説を立てていますよ。これも、話す気はないですけど』
『貴様……』
『とはいえ、ご指摘には返す言葉もありません。……フランチェスカを守れなかった失態を、心からお詫びします』
その言葉が、それほど意外だっただろうか。
エヴァルトは僅かに目を見張ると、やがて深い深い溜め息のあと、こう口にした。
『……娘を守ることが出来なかったのは、私の方だ』
『…………』
心の底から絞り出すかのような、自責の声だ。
(クレスターニの洗脳は、誰に及んでいるか分からない。クレスターニ側に居るルキノに仕込んだスキルのことも、話すのは下策だな)
ここで口を噤んでおくのは、当然の判断だろう。娘を想う父親の気持ちなど、レオナルドは想像する気もない。
(とはいえ……)
フランチェスカを想う感情であれば、話は別だ。
『アルディーニ、お前の責を問うつもりはない。フランチェスカは、我がカルヴィーノ家が総力を上げて……』
『お父君』
レオナルドはひとつの判断を下し、上着の内ポケットから、とあるものを取り出した。
『……これは?』
エヴァルトが怪訝そうに見下ろしたのは、粉々に砕けた宝石の欠片だ。
『ガーネット。俺がフランチェスカに贈った耳飾りの、赤い薔薇の装飾です』
『まさか……』
『フランチェスカが本当はスキル所有者であることを、あなたもご存知なのでしょう?』
レオナルドも同じであることを、この問い掛けで暗に示す。
エヴァルトがすでに持っている情報についてであれば、いまさら洗脳による漏洩を警戒しても、無駄なことだ。裏を返せばこうした点は、なんの憂いもなく『話し合い』をすることが出来る。
『フランチェスカには、彼女が持つ強化スキルの使用に必要な代償……「素材」となる宝石の一種を使った耳飾りを渡しました』
『!』
『敢えて伝えはしなかったものの、フランチェスカはそれを汲んでくれた。恐らくは洗脳される直前に……』
赤い欠片を摘み上げて、それを暖炉の火の光に翳す。
『フランチェスカはこの宝石を消費して、自分のスキルをクレスターニに使っています』
だからこそ、賢者の書架の絨毯に、砕けたガーネットの欠片が散っていたのだ。
『強化スキルと進化スキルは、スキルレベル2までの範囲であれば、素材の消費は不要ですからね。状況から見ても、フランチェスカが使ったのは……』
レオナルドの言わんとしたことを、エヴァルトが継ぐ。
『……第一段階から代価が必要となる、変化のスキルか』
『ご名答』
レオナルドはわざと微笑みを作り、エヴァルトとの見解を擦り合わせた。
『つまりフランチェスカは、クレスターニの洗脳スキルを、あいつも知らない別のスキルに捻じ曲げた可能性があります。もちろん、あくまで想像でしかありませんが』
『…………』
『それでも、俺たちのフランチェスカのことです。彼女は絶対に、クレスターニの手に堕ちた訳じゃない』
彼女の髪色と同じ宝石を、静かに眺める。
『目的と、それを成しうる手段を持って、敢えて俺たちとの敵対を選んだ』
『…………フランチェスカ』
そう口にする一方で、レオナルドの本当の感情は、ここにはなかった。
(……フランチェスカならきっと、こんな眩い希望を強く信じて、誰かに説く)
そんな想像を巡らせて、ゆっくりと目を伏せる。
(フランチェスカはこの世界で、誰よりも幸せであるべきなのに)
腹の奥底に煮えたぎるのは、どろどろに熱されて溶けた鉄のような、醜く昏い感情だ。
(俺の、俺だけの愛おしいフランチェスカ。この世界すべてを犠牲にしてでも、俺は必ずフランチェスカの敵を殺す。彼女に伸ばした指をへし折り、彼女を見た眼球を抉り出して、償いをさせよう。……たとえ、『誰』が相手でも)
そこまで思考を巡らせて、静かに目を伏せる。
(もう殺してくれと懇願してからが、始まりだ)
フランチェスカのように生きるなど、レオナルドに出来るはずもないのだ。




