112 語られる昔
フランチェスカとグラツィアーノが転移してから、恐らく一時間ほど経つだろう。
自力で戻ってこようとした場合、普通はもっと時間が掛かるものだが、この男に限っては遅すぎる気もした。
「フランチェスカは?」
「風呂入ってもらって着替えていただいたんで、あとは念のため医者に看せてる最中です。……どこも怪我はなさそうでしたけど」
「それは何より」
アルディーニは白々しく笑った。けれどもフランチェスカが無傷なのは、恐らくこの男の功績なのではないだろうか。
「……一応お礼を言っておきます。あんたの指示が的確だったお陰で、お嬢を効率的に探すことが出来ました」
「ああ、もっと感謝してくれてもいいぞ。いつかお前がしくじったときも、俺が『的確に』対処してやるから」
グラツィアーノが眉根を寄せると、黒髪から雫を滴らせているアルディーニは目を眇める。
「フランチェスカがお前にどんな秘密を明かそうと、そんなのは些事なんだ」
「……?」
「だってお前が敵に洗脳された場合、俺がお前を殺すからな」
軽やかに言ってのけるその口ぶりは、言葉の内容にまったく沿っていない。
「……あんた」
「フランチェスカが悲しまないように、死体も残さない。殺した痕跡すら全部消す。……だから安心しろよ」
グラツィアーノに見せた笑顔は、まるで親しい友人に語り掛けるかのようだった。
「それが嫌なら、せいぜい不覚を取らないようにすることだな」
「……そいつは、有り難いことで……」
やはりこの男は、油断ならない人物だ。
グラツィアーノはアルディーニを睨み付け、さっさと一階の談話室へ向かうことにした。宿泊者が寛げるように作られた部屋で、フランチェスカが診察を終えているはずだ。
そうしてエントランスを去ったグラツィアーノの耳に、アルディーニの声は聞こえてこない。
「さて」
レオナルド・ヴァレンティーノ・アルディーニは、同じくエントランスに入ってきた銀髪の青年を振り返る。
「それではリカルド。……俺たちは秘密裏に、サヴィーニ閣下のご依頼について進めるとしようか?」
「…………」
***
「……本当に、お嬢さんが無事で良かった……」
「ごめんね、フランチェスカちゃん……!!」
襲撃のあった翌日、フランチェスカは報告とお詫びとお礼を兼ねて、ラニエーリ家女当主ソフィアの元を訪れていた。
フランチェスカに抱き付いているのは、昨日襲撃現場に居合わせた娼婦の女性だ。
彼女は森の中で何度も転んだらしく、あちこち擦り傷だらけにもかかわらず、フランチェスカのことを懸命に心配してくれた。
「謝るのは私の方です! 居合わせただけのお姉さんを危ない目に合わせて、本当にごめんなさい」
「川原で助けてもらった挙句、今回はこんなことになるなんて……しかも森の中で何度も転んで、なかなかフランチェスカちゃんが落ちちゃったことも伝えに行けなくて」
「お姉さんが助けを呼んでくださったから、レオナルドたちに助けてもらえたんです。だからどうか、泣かないでください」
「ううう……な、なんていい子なの……!」
「ほらほらイザベラ。そろそろお嬢さんから離れてあげな、あんたも今夜のお客さんの支度があるだろう?」
ソフィアに諭され、女性はくすんくすんと鼻を鳴らしながら立ち上がった。フランチェスカにとっては年上の女性だというのに、ひとつひとつの仕草が愛らしく感じてしまう。
「じゃあね、フランチェスカちゃん……。またお詫びさせてね?」
「お気になさらず! でも、またお会い出来たら嬉しいです!」
「ふふ。……ありがと……」
ぱたんと扉が閉まったあと、ソフィアが大きく息をつく。
「ごめんねお嬢さん。お嬢さんのおうちにも、改めてお詫びの遣いを出さないと……この森に不届き者を入れた上、うちの御者がまんまとやられちまったのがそもそもの原因だ」
(うう、罪悪感が……! 私がどんな展開になるか知っていて馬車に乗ったなんて、ソフィアさんは思いもしないよね)
フランチェスカはぶんぶんと首を横に振り、笑顔を作る。
「本当にお気になさらずに! レオナルドとグラツィアーノが助けてくれたから、私は大丈夫です!」
「…………」
ソフィアは目を伏せたあと、テーブルの上のティーカップを手に取りながら口を開いた。
「昔の話をしていいかい? ひとりの美しい娼婦が、この森でひとりの貴族に恋をしたお話さ」
「?」
おもむろに語られる物語に、フランチェスカは首を傾げる。ソフィアの真意に気付くのは、それから少し遅れてのことだ。
「当然身分違いの恋だ。なにせ相手は侯爵家の四男坊で、由緒正しい家柄の青年。娼婦仲間は本気になるなと止めたが、相手の男はその娼婦を大事に扱っていてね」
(……あ)
「当時十三歳だった小娘の私からも、ふたりは相思相愛に見えた。状況が変わったのは不幸な事故により、四男だったはずのその男が、侯爵家の当主になることが決まった時期……」
ソフィアの瞳がフランチェスカを見据え、静かに告げた。
「その娼婦が、男の子供を授かったことが分かった時期でもある」
(……これって多分、グラツィアーノの……)




