最悪 その②
最悪など存在しない
死ね
歓喜せよ
2
百合班班長の香久山桜が、負傷した架陰を抱えて、森の中を走っていた。
もうすぐ森を抜け、人里のある場所に出る。
その時だった。
まるで油の海に飛び込んだかのような、ぬるっとした気配が、二人の頬を撫でた。
「…これは…」
香久山桜の眉間に皺が寄る。
彼女に抱えられていた架陰の頭の中に、悪魔の声が響いた。
(架陰…、来タゾ…、スフィンクス・グリドールガ…)
「………」
架陰は静かに頷いた。
間違いない。この気配は、ハンターフェスの時と同じ、四天王スフィンクス・グリドールのものだ。
スフィンクス・グリドールの能力は、【千里眼】。その名の通り、半径四千キロの空間を全て見通すことができる能力だ。
「あの、香久山さん…」
「桜でいいわよ」
「桜さん…、これは、少しまずい状況です」
「え…」
「スフィンクス・グリドールが、この山に入ってきました」
「……っ!」
香久山桜の顔が強張った。「やっぱりか」と言いたげだった。
架陰は脇腹の痛みに耐えながら言った。
「桜さん…、ここは二手に別れましょう」
「ダメよ、架陰くん、キミは怪我をして…」
「回復薬を飲みました。なので、もうすぐ全快します」
「それでも…」
「スフィンクス・グリドールの能力は、【千里眼】です。このままだと、見つかってしまいます」
「だったらなおさらよ」
香久山桜は諭すように言った。
「四天王を甘く見ちゃいけないわ。多分、スフィンクス・グリドールは私たちの居場所をもう既に把握してる…。すぐにでも追ってくるわ。だったら、二人で逃げた方が、逃亡成功率は上がる…」
「いえ…、ダメなんです」
スフィンクス・グリドールの能力は万能ではない。【千里眼】は、架陰同様、悪魔から借りた能力。
以前のように、自身から放たれる悪魔の気配を調整して、スフィンクス・グリドールの視界を憚ることが架陰にはできるのだ。
だが、香久山桜はそれができない。
香久山桜の傍にいると、いくら彼が気配を消しても、スフィンクス・グリドールにはばれてしまうのだ。
「僕は大丈夫です。だから…」
架陰はもぞもぞと暴れて、彼女から降りようとした。
だが、香久山桜は架陰の身体をぎゅっと抱いて、逃がそうとしない。
「ダメ…、絶対にダメ…」
「あの、降ろしてください…」
「ダメなの…」
香久山桜はそう言って譲らなかった。
「私は…、百合班の班長よ? 班長って言うのはね…、みんなの統率者なの。そして、みんなから信頼されないといけないの。そして…、一度任務に出れば、例え他班の人間であろうと、身を挺して護らなければならない…」
ギリッ! と歯を食いしばった。
「ここで宣言しておくわ。私たちの目的は、副班長の【狂華】をスフィンクス・グリドールから取り戻すこと。スフィンクス・グリドールに追われているキミを護ること!」
走るスピードを速める。
「このまま森を抜けて、人里に出るわよ! そこに車が停まっているから! 一気に逃げ出すわ!」
そう言った瞬間だった。
二人の頭上を、黒い陰が横切った。
はっとした時にはもう遅く、二人の目の前に、白衣を身に纏ったスフィンクス・グリドールが着地した。
トンッ! と、軽やかな音が立つ。
砂塵が舞い上がる。
白衣が揺れる。
スフィンクス・グリドールの瞳が、架陰を見る。
「やあ、久しぶりだね…、市原架陰…」
「スフィンクス・グリドール…!」
架陰の背筋に冷たいものが走る。
のは一瞬だった。
香久山桜は胸元に手を入れると、彼女の体温で生温かくなった黒い玉を取り出し、スフィンクス・グリドールに投げつけた。
さっと、着物の袖で架陰の顔を覆う。
キインッ!
と、劈くような音と共に、辺りに白い光が広がった。
閃光玉が炸裂するのと同時に、香久山桜は地面を蹴って跳び、スフィンクス・グリドールの頭上を乗り越える。
スフィンクス・グリドールは「やれやれ…」を肩を竦めた。
地面を蹴る。
そして、香久山の背後に回り込むと、彼女の背中に蹴りを入れた。
「くっ!」
香久山と架陰は、二人同時に地面に叩き落された。
スフィンクス・グリドールは「あ~、目がチカチカする」と軽い口調で言いながら、二人の前に立った。
「閃光玉か…、悪くなかったよ。判断も早かった。だけどね…、この程度じゃ、僕は欺けないよ。音…、気配で全てわかる」
香久山は架陰を庇うようにしながら立ち上がる。
そして、背中の腰帯に差していた薙刀を抜いた。
「名刀…、ソメイヨシノ」
薙刀の桜色の刃を地面に突き立てる。
途端に、地面から薄紅の光が湧き上がり、それは桜花吹雪となって辺りを埋め尽くした。
視界が、ホワイトアウトする。
「おやあ…」
スフィンクス・グリドールはへらへらと笑いながら、その桜の花吹雪を見ていた。
「面白いね…、これが、ハンターフェスの時に城之内カレンを打ち破った能力か…」
その③に続く




