4.転身
オーナーが、ホテルをフラクシヌス教団に譲渡した。
半世紀の内乱が終結し、ラキュス・ラクリマリス共和国は、キルクルス教のアーテル共和国、フラクシヌス教で湖の女神派のネモラリス共和国、フラクシヌス教で主神派のラクリマリス王国に分裂した。
どちらも、少年が十八の青年になった年のことだ。
平和になって聖地巡礼が再開され、ホテル業は急に忙しくなった。
オーナーは、内乱中に破壊された神殿の再建費用を賄う為、教団にホテルを寄付し、運営費として教団から収益の一部だけを受け取ることにしたと言う。
所有者が変わっても、戦災孤児だった青年は変わらず働き続けた。
客室清掃、ベッドメイク、設備の保守、備品倉庫の整理、厨房の下働き、大食堂の配膳と片付け、ポーター。細々した仕事が一気に増えたが、休みには欠かさず西神殿へ参って祈りを捧げた。
フィアールカ神官はあれからずっと、癒し手として西神殿で勤めている。
「最近、忙しくてなかなか来られなくて……」
「いいじゃないの。坊や、それだけ出世して、みんなから頼られてるってコトでしょ?」
あの夜襲から十年が過ぎ、フィアールカ神官より頭ひとつ分、背は伸びたが、相変わらず子供扱いだ。
「水の縁が繋がって、ご家族と会えますように」
平和になっても、家族の消息ひとつ聞こえない。
ラクリマリス王国は、神殿が喪われた都市の再建を放棄した。
自力で【跳躍】できるようになったものの、故郷の記憶はあやふやで、楽しかった日々の思い出は、あの夜の炎に焼き尽くされてしまいそうだった。
料理長は厳しい人だったが、決して彼に火を扱う作業をさせることはなかった。
二十五歳になって、フロント業務を任された。
慣れない業務に四苦八苦している所へ、珍しくフィアールカ神官が尋ねてきた。
白地にひとつの花の御紋を縫い取りした神官服ではなく、私服だ。【耐寒】や【耐暑】などの呪文が刺繍された淡い緑のコートが、彼女の濃い緑の髪を一層、鮮やかに見せる。
あの夜から十七年。
彼女はちっとも変っていない。
長命人種だったと気付くと同時に、成人後は年々徹夜が苦しくなる彼とは、生きる時間が違うのだと思い知らされた。
「ご宿泊ですか?」
「いいえ。今日はご挨拶だけ。ひとつの花の御紋を返上して、もっと直接、人助けできる仕事を始めたから」
「何のお仕事ですか?」
「運び屋よ」
何を運ぶのか。
問う前に新しい仕事を始めたフィアールカの口から語られる。
「アーテル領に取り残されたフラクシヌス教徒や力ある民を運ぶのよ。お客さん連れて来るから、よろしくね」
ここの宿泊料は庶民にはとても手が出ない。
フロント係の青年は、曖昧な笑みを返した。
もしかすると、家族を連れて来てくれるかもしれない。
そんな淡い期待と、それを子供じみた願いだと笑いたくなる気持ちが、青年の胸を掻き乱した。
呪文を知っていても、知らない場所には【跳躍】できない。
フィアールカ神官が、キルクルス教徒の多いアーテル地方にも土地勘があったとは意外だ。
アーテル共和国政府は、ラクリマリス王国との断交を宣言。
半世紀の内乱による破壊から再建されたばかりだと言うのに、北ヴィエートフィ大橋の通行を禁止した。アーテル領ランテルナ島側の袂に戦車を配備し、厳しく監視の目を光らせている。
ラキュス湖は湖の女神パニセア・ユニ・フローラのご加護で、実体化した魔獣は殆ど居ないが、実体のない魔物は無数に居る。
魔物に手も足も出ないキルクルス教徒が、アーテル領内の港を再建することはなく、両国の行き来はほぼ途絶した。
フィアールカの「仕事」で、ネーニア島に渡れなくなった人々は助かるだろう。
アーテル領で生まれ、“悪しき者”として迫害を受ける力ある民なら、尚更だ。
運び屋フィアールカは約束通り、一泊や二泊の短期ではあるが、客を連れて来てくれた。いつも彼女が先払いするが、その資金の出所はわからない。フロント係が尋ねるのは憚られた。
「この地でキルクルス教の教義を厳格に守ってたら、生きて行けないのよ。私は無用の不幸を生む教えをこの地からなくす為に、今の仕事をしてるの」
「キルクルス教徒を追い出すのですか?」
それでは、また戦争になるだろう。
「いいえ。半世紀の内乱前は、彼らも魔法を“絶対悪”だなんて言ってなかったのよ。いつ、どこで、信仰が変質したのかわからないけど、共存できてた時代の教えに戻せるならそうしたいし、できないなら」
「排除するのですか? それでは……」
「違うって言ってるでしょ。思い知らせてやるのよ。魔術なしでは、この地で生きられないってことを。……この命を懸けてでも」
フィアールカの微笑みは、キルクルス教徒が「魔女」と呼んで恐れるのも頷ける凄絶な美しさがあった。
「この願いが叶うのなら、私は命だって惜しくはないのよ」
涙の涸れ果てた彼には、フィアールカの願いを咎める理由などなかった。
運び屋に転身して十年経っても、フィアールカは出会った頃と変わらない。
フロント係は重い物を持ち上げる時、「どっこいしょ」などと口走る自分が滑稽だった。
「生きてさえいれば、いつか水の縁が繋がって会える」
淡い期待が、数日前の夢のように日々を漂う。
彼がフロント係、フィアールカが運び屋になって二十年の歳月が過ぎた。
緑色の髪に白い物が混じるようになった彼は、実直に勤め上げた日々が認められ、ホテルの支配人に任じられた。
日々を生きるのに精いっぱいで、出世しようと言う目的はなかったが、断る理由もない。オーナーから有難く拝命し、これまで以上に実直に勤めた。
割のいい仕事をみつけて他へ移り、或いは結婚して辞め、開業当時から勤める者は殆ど残っていない。
気付いた途端、夜と朝の間に取り残された明けの明星のような心地がした。
寝付けない夜、そっとホテルを抜け出して、まだ明けきらぬ運河の畔を歩いてラキュス湖に出た。
穏やかな風が渡り、湖面に漣が立つ。
一条の光が夜の闇を拓き、島がまた新しい夜明けを迎える。
女神パニセア・ユニ・フローラの【魔道士の涙】から溢れた滴がこの地を潤し、涙の湖を作りだした。
フナリス群島は、広大な涙の湖に浮かぶ小さな島々だ。
女神の象徴である青いヒナギクの花が、昇り始めた朝日に揺れる。
「この願いが叶うのなら、私は命だって惜しくはないのよ」
あの時のフィアールカの微笑みが、今もこの胸に在る。
明け行く空に星々が溶けてゆく。
ぽつんと取り残された明けの明星を見て、あの夜、街を包んだ炎を思い出したが、涸れ果てた涙は戻らなかった。
「あら、珍しい。こんなとこに」
神殿の方から歩いてくるのは、運び屋フィアールカだ。
あの夜襲から四十年の歳月が過ぎ、世の中が変わっても、彼女は変わらなかった。
「聞いたわよ。支配人になったんですって?」
「はい。恐れ入ります」
「すっかり立派になって。もう“坊や”なんて呼べないわね。出世おめでとうございます。デンニーツィさん」
初めてフィアールカから呼称で呼ばれた。
今日からは、家族の安らかな眠りをラキュス湖に祈る、と明け行く空に誓った。
ホテルの支配人は、本編では呼称も出ないレベルのほんのちょい役。
運び屋フィアールカは、本編の「588.掌で踊る手駒」~「590.プロパガンダ」参照。
フラクシヌス教の聖地は、本編の「684.ラキュスの核」参照。
グロム市で失脚した貴族の館は、本編の「678.終戦の要件は」参照。
北ヴィエートフィ大橋は、本編の「「103.連合軍の侵略」「144.非番の一兵卒」「173.暮しを捨てる」「176.運び屋の忠告」「395.魔獣側の事情」参照。




