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それからまたしばらくして。
春祭りまでひと月ほどとなってくると、学園内もざわめきが大きくなってきていた。生徒たちの浮足立った様子に、シェリーまで楽しい気持ちになる。
養護室の窓から中庭が見えるのだが、生徒たちが与えられた場所で頭を突き合わせている姿も増えてきた。ああでもないこうでもないと試行錯誤しているのは、手助けしたいと思ってしまうし、成長を見ているようで誇らしくもある。
むずかしい顔をしていた生徒が、ぱっと閃いた表情に変わったのを遠目に見て、にこにこしていると扉を叩く音がした。
「リディアンさん、こんにちは」
顔を覗かせたのはリディアンだった。
彼はたまに養護室を尋ねてきては、休んでいる生徒がいないときだけ世間話をしていく。
シェリーは内心で首をかしげた。今日の彼は、少しいつもと様子がちがうようだ。
「すまない、シェリー。実は鉢植えを落として割ってしまって。花もすっかり折れてしまったから……」
シェリーの顔を見て、リディアンはぴしっと背筋を正した。
そして申し訳ないとその体全体で述べながら、深く深く頭を下げる。
シェリーは目を丸めておろおろした。唐突な謝罪もそうだし、花が駄目になったという報せも、驚くほかない。
「リ、リディアンさん! 顔を上げてください」
いつまでも頭を下げられていては、いくらシェリーだってたまらない。
「落としてしまったのなら、しょうがないですよ。そういうこともあります。謝罪は受け取りましたから。ね?」
シェリーのほうが慌ててしまって、言いたいことがうまくまとまらなかった。
けれども、リディアンには伝わったのだろう。ほっとしたように表情をやわらげ、ゆっくりと頭を戻した。
「本当にすまない。かわりにはならないだろうが、俺が咲かせたものを持ってきた」
手にしていた包みを解いて、シェリーへ差し出す。
深紅の薔薇。
見事な大輪が堂々と咲き誇っている鉢植えだった。
「あなたにきっと似合うと思って。受け取ってくれるとうれしい」
そう言って頬をかくリディアンに、恥ずかしくて赤くなったシェリーはこくこくうなずく。授業へと戻っていく後ろ姿にかろうじてお礼しか返せなかった。
深紅の薔薇を窓辺に置き直して、シェリーはまじまじと眺める。
赤と深紅は似ているが同じではない。
あなたに似合うと思って、とリディアンは言った。自分はこんな豪華で威風堂々とした花が似合うのか。少なくともリディアンにはそう見えているのだろう。不思議な気持ちになった。
さらりと肩をすべった髪が、深紅の花弁をくすぐる。
金色でさらさらとした髪は、シェリーの唯一自慢できるものだ。あの庭で、お祖母様が褒めてくれてから念入りに手入れをし、同じころアルフェリアにもきれいだと言ってもらえた。
それからもっと念入りに櫛で梳り、丁寧に洗い、丁寧に乾かすようにしている。あのアルフェリアの言葉は、今でもシェリーの大事なものだ。
この髪に、彼が赤い薔薇の花を飾ってくれたこともあった。よく似合うよと言ってくれた。でもそれはもう、何年も前のこと。
今は、深紅の薔薇が似合うのか。あの、赤い、大好きな薔薇はもう、似合わなくなってしまったのだろうか。ああ、アルフェリアにもあの薔薇が駄目になってしまったことを言わなければ。
そう思うと、さみしくなってしまった。だからシェリーは頭を振って、考えを追い出すと新しい鉢植えに如雨露で水をたっぷりそそぐことだけに集中する。
深紅の薔薇の世話を始めてから、リディアンが前よりも頻繁にやってくるようになった。
生徒がいるとわかると笑って手を振るだけ、誰もいなければ授業であったことや生徒たちの様子を話してくれる。
シェリーの仕事について助言をしてくれたり、薬草の調合を手伝ってくれたりすることもあった。
頼りになるし、やさしいお兄さんのように思う。けれども、相手はどういうつもりで足しげく通ってくれているのだろうか。一抹の不安と、彼の厚意を無碍にもできず、シェリーはどうしたものかと考える。
この日も、演習場から帰ってきたとき、養護室のすぐ近くでばったり会う。部屋に向かいながら穏やかな会話が始まった。
「あなただから言うけれど。実はね、近衛隊への推薦の話があって」
斜め上から降ってきた言葉に、シェリーは目を丸くした。
「ええ! すごいっ」
「しっ! まだ確定はしていないから、なんとも言えないからね。近々、試験を受けることになったんだ」
声をひそめているけれど、誇らしげな様子にシェリーもささやかな拍手を送った。照れくさそうに笑った彼は、こほんとひとつ咳払いをしてから、まっすぐとシェリーを見つめる。
「もしうまくいけば、あなたにはなかなか会えなくなってしまう」
きゅっと靴の裏が音を立てた。
突然の艶を含んだ言葉に、もう目の前に部屋の扉があるのに、思わずシェリーは足を止めてしまう。
その肩で揺れた髪を、武骨な手がそっとなでた。
「あなたも、ここに根を張る前に王宮で働くことも考えてみたらどうだい? 治癒師は引く手数多だ。俺が上官に話をしてみるよ」
甘く微笑んでそう言うリディアンに、今度はちがう意味で言葉を失ってしまった。
これから試験だというのに、すでに受かった気でいるとは随分な自信家なのもそうだけれど、それよりもどうして彼のなかにシェリーの進路まで含まれているのだろう。
シェリーはゆっくりと息を吐き出した。ぎゅっと手を堅く握る。
「お気持ちはうれしいですが、わたしはここで頑張りたいと思っています」
「それは、アルフェリア先生がいるから?」
思いのほか真剣なまなざしを受けて、シェリーはどきりとした。アルフェリアへの気持ちを見透かされているのだろうか。けれども、動じている暇はなくすぐに首を振る。
「アルが基準ってわけじゃありません。もちろん、彼がいてくれてうれしいですが」
「うれしい? 本当に?」
わずかに目を見開いたリディアンは、小さなため息をついた。今度は彼が首を振ってシェリーとの距離を一歩詰めた。すぐ横に立った彼に、シェリーは急いで自分も一歩下がる。
この状態は、歓迎できるものではない。一般的な女性はそうでも、シェリーにはちがうのだ。それをきっと、リディアンはわかっていない。
「幼馴染だと聞いたけど、もういい大人になったんだ。もっと外に目を向けるといいよ。あまり一緒にいると、あなたまでつまらない人間だと思われてしまう」
聞き分けのない子どもを相手にするかのように、いやにゆっくりとしたやわらかな声だった。
シェリーは一度またたくと、もう一歩下がって距離を取る。すぐ後ろに養護室の扉。なにかあっても、大丈夫。
心の中で言い聞かせながら、それを悟らせないようにしっかりと相手を見上げて、目をそらすことなく口を開いた。
「ご忠告は、お気持ちだけ受け取ります。わたしは、誰とどう付き合うか自分で決められるので、どうぞお気づかいなく。見た目や噂だけで判断するのはとてももったいないことだと知っていますから」
「シェリー」
「近衛隊への昇任試験、頑張ってくださいね。応援しています」
それでは、仕事もありますので失礼します。ぺこりと頭を下げて、素早くシェリーは養護室に滑り込んだ。口の中で鍵かけの呪文を唱えることも忘れない。
心臓がばくばくしている。走ってもいないのに息が上がった。
しばらく扉の前に留まった足音が離れていったのを確認してから、思わず大きな息を吐き出してしまった。
まったく、どうしてあんなことを言われなければならないのだ。
養護室に誰もいないことをいいことに、シェリーは思い切り顔をしかめる。日ごろからやさしくしてくれていて、周りからの人望も厚いリディアンまでも、ああして人を悪く言うのか。善意を持って悪意を伝えてくるのか。
どっと重たいものがのしかかってきたように感じて、椅子に座りこんだ。
もっとちゃんと怒ればよかったと、今更ながらに思う。シェリーはいつもそうだ。そのときは相手の勢いにのまれて、あとになってふつふつと怒りが湧いてくる。くすぶるそれをどうすることもできなくて、抱え込むしかないのも情けない。
はあとため息をついたとき扉を叩く音がして、はっと顔を上げる。リディアンが戻ってきたわけではあるまい。彼だってこのあと授業があるはずだ。すると、具合の悪くなった生徒だろうか。
慌てて開錠して扉を開けると、見慣れた姿が首をかしげていた。
「鍵なんてめずらしい。なにかあったのか」
落ち着きはらった声に、シェリーは肩から力が抜けるのを感じる。自分で思っている以上に、先ほどの一件で体が強張っていたらしい。
シェリーは内心で焦りながら言い訳を探した。
「ちょっと薬品の片づけをしていたから。生徒が駆けこんだら危ないと思って」
「そうか」
じっと向けられた瞳にひやりとする。けれども、シェリーの心配には至らず、アルフェリアは手にしていた包みを机に置いた。
「温室に行ってきたから、ついでに取ってきた。そろそろ在庫が減っているだろう」
「わあ! 助かる。取りに行かないとと思っていたの。ありがとう」
怪我の手当てや消毒に使う薬草は、日ごろから減りが早い。切らすことなく常備したいが、生のままでは保存が数日しかもたないのが難点だ。干すと効果がやや落ちるから、こまめに摘んでくるようにしている。
「……シェリー。そういえば、あの薔薇はどうした」
硝子の容器に水を入れて活けていると、椅子にぼすんと腰かけたアルフェリアの声が飛んできた。
思わず肩が跳ねたが、シェリーは正直に口を開く。
「ああ、それがね。落としてしまって」
振り返ってアルフェリアに向き合うと、彼は表情を変えずにさらに尋ねた。
「きみが?」
「えぇと、その」
「シェリー」
もらったものを他人に貸したことが気まずいのと、それを駄目にしてしまったのとで、シェリーはなんと言っていいのかと口ごもる。けれども、めずらしく声色を強めたアルフェリアに腹を決める。
もとより、彼には話すつもりでいたのだ。こんなことなら、自分からもっと早く話せばよかった。
「……リディアンさんに貸したの。彼、得意でないのに花を咲かせなければならなくなってしまったんですって」
無言になったアルフェリアに、シェリーはなんだか居たたまれなくて言葉を足す。
「本当に困っているようだったし、落としてしまったのはわざとじゃないからしかたがないわ。――せっかくあなたからもらったのに、ごめんなさい」
アルフェリアにしてみたらいい気持ちではないだろう。
肩を落として謝ると、ふうと細い息が空気を揺らした。
「……そういうことか」
小さな呟きに、シェリーは内心でほっとする。淡々としているが、怒ってはいないようだ。
わずかな逡巡を挟んだアルフェリアは、そこでようやくシェリーを見上げた。くしゃくしゃな髪の隙間から、オリーブの瞳が覗いている。
「きみが花を捨てることはないとは思っていたけれど。腑に落ちた」
一度うなずくと、彼はぎしりと椅子を鳴らして立ち上がった。ぬっと影がさして、シェリーの傍らにくたくたの長身が並んだ。
「きみに他意はないのならよかった。気にしないでくれ」
他意はない? わからずに口を開こうとするが、アルフェリアのほうが早かった。
「ああ、それと。無闇に触らせては駄目だよ」
さらりとシェリーの髪をなでて、アルフェリアは相変わらずの無表情でまっすぐとオリーブ色の瞳を向けた。きょとんとするシェリーに言葉を足すことなく、またあとでと手を振って行ってしまう。
なんのことだろうと、アルフェリアがなでた髪を無意識に手で梳きながらシェリーは首をかしげたけれど、答えをくれる人はもういない。




