第十八話
一週間が経ち、川べりをホタルのように我が物顔でハエが徘徊し始める頃、マグニの奏でるマーメイド・ハープも、曲とまではいかないがちゃんとした音を出すようになっていた。
マグニの話をしながら、リットとグリザベルは宿の部屋にこもっていた。
ここまでくれば一つ一つ音を繋ぐ集中力が大事だと、グリザベルはしきりにリットを急かせた。
まだ時間が掛かるというリットの言葉を聞き入れて本を読み始めたが、何度も同じページを行ったり来たりさせて落ち着かない様子だった。
「落ち着かねぇなら、マグニのところに行ってたらどうだ? ノーラは行ってるぞ」
「出来上がっても、リットなら歩いて知らせに来るだろう。我はいち早くマグニに知らせたいのだ」
「オマエが走るより、オレが歩く方が早えよ」
開け放たれた窓から突風が吹き入れ、グリザベルが手に持っている本のページをはためかせる。
風に煽られてロウソクの炎は揺れ動き、白い煙を残して消えた。ロウソクに火をつけ直した時には、グリザベルの手元に本はなかった。どうせ今読んでも頭に入らないので、読むのを諦めたようだ。
リットも一度手を止めて、閉じた目の目頭を押さえる。暗い中、ロウソクの明かりを頼りに小さい虫を見続けることは、目に疲労を溜めていた。
「ランプをつけたらどうだ?」
「ランプの光だと、妖精の鱗粉が強く反射して目が痛えんだよ」
ピンセットでハエの胴体をつまみ、お尻に油を塗って妖精の鱗粉を付着させる。単純な作業の繰り返しは、目から肩、腰へと疲労を蓄積させていった。
右の瓶の中には普通のハエ。左の瓶の中には妖精の鱗粉を塗ったハエがいる。瓶から逃げ出さないように、ハエを取り出すのも中に入れるのも神経を使う。
「一応マグニの言うとおりキラキラしてるけど、こんなもんがあったら逆に集中力を無くすだろう」
そう言ってリットは、ピンセットでハエを掴み妖精の鱗粉を塗る作業に戻った。
「その光は舞台の役目。舞台上と練習場を区別させることが大事なのだ。練習場ではなく舞台上ならば、失敗しても最後まで演奏しようとする気になるではないか」
「そういうもんかね。練習で弾けない奴はどこだろうと弾けないと思うけどな」
リットは期待とか諦めという気持ちよりも、どうでもいいという気持ちの方が強くなってきていた。飽きっぽいマグニならば集中するよりも、光を目で追い出して却って集中力を掻く気がしたからだ。
「顔に出ておるぞ。そう心配しなくとも、気絶する音からしっかり聞ける音になったのだ。曲を奏でる日も遠くはない。――だからこそ、こうして急かしておるわけだ!」
グリザベルが作業中のテーブルを強く叩いた。
テーブルに肘を乗せていたリットは、そのはずみでピンセットを手放してしまう。ピンセットから開放されたハエは、尻を光らせ部屋を縦横無尽に飛び回ると、窓際で不機嫌に頬杖を付いているチルカの前で一度止まり、窓から出て行った。
「そう言えばハチの時といい、オマエ虫と話せるんだな」
「……何が言いたいのよ」鼻をすすりながらチルカが言う。
「結局のところ、妖精ってのは虫の仲間なんじゃねぇか?」
いつものように煽るような口調ではなく、ふと思った疑問をリットは口にした。
「……殺すわよ」
「いや、なかなかおもしろい見識かもしれんぞ。他の飛ぶ種族は、大抵ハーピィのような羽毛を持っておる。しかし妖精というのは羽の構造がトンボに近い。それに蝶のような鱗粉。神の御業か、太古の虫達が自らそう望み進化を遂げたのか……」
アゴを指でつかみ、いかにも思案中というポーズを取りながらグリザベルが話す。
「……コウモリだって羽があるじゃない」
「確かに。コウモリと関わりが深い魔族のサキュバスはコウモリに酷似した羽を持っておるな。それに、ドラゴンのように力任せに飛ぶ種族も、風の抵抗で翼が折れないように硬い鱗で覆われておる。虫とも鳥とも違うな。まぁ、一説として、そういう話もおもしろいということだ。気にするでない」
「アンタの先祖が、ウジ虫だって言われて気にしないんだったら納得してあげるわ」
チルカの顔はいつも通り三角になって睨みつけているが、声にいつもの張りがなかった。
「なんだ、調子悪いのか?」
「風邪よ。この寒いのにずっと水浴びさせられたから」
「湯に入ればよかったろ。コップ一杯分のお湯なんてすぐ沸くぞ」
「アンタねぇ……。そういうことを思いついてたなら先に言いなさいよ!」
叫び終えると、チルカは盛大に咳き込んだ。
「教えてやろうとしたら、臭い口を開いている暇があるなら手を動かしなさいって言われたからな。自業自得だ。せいぜい苦しめ。オレが筋肉痛に苦しんだようにな」
妖精の鱗粉が充分な量が取れるまでの一週間。リットはチルカの言いなりになっていた。主な内容といえば、とにかく走らせることだった。何回にも分けてヨルムウトル城へ用事を言いつけ、息を荒げて戻って来たリットに「犬のようね」とほくそ笑む。
無理難題をふっかけるのではなく、気力と体力を奪ったろところで嫌味を言う。そして、なにも言い返せず床に横たわるリットを見て勝利の味を噛み締めていた。
「服従期間が終わったけど、アンタの惨めな姿はしっかり脳裏に焼き付けたわよ。森に帰ったら、人間の奴隷が出来たって皆に話してやるわ」
「それだけ悪態をつけりゃ、心配することはなさそうだな」
「アンタに心配されたら、気持ち悪くて死んじゃうわよ」
「おい、大丈夫かチルカ? 顔色が悪いぞ。ベッドでゆっくり横になれよ。それともハチミツを温めてやろうか?」
「具合が良くなったら覚えなさいよ……。ハチミツは貰うわ」
「余ってるんだから勝手に飲めばいいだろ。自分で温めろよ。ロウソクの火はつけたままにしておいてやるから」
リットは最後の一匹のハエをビンに入れる。布を貼って蓋をすると空気穴を数か所開けた。
「こんなフラフラの状態でロウソクに近づいたら、なにかの拍子に燃えるかもしれないじゃない」
「太陽神の加護があるんだから大丈夫だろ。焼けて焦げたら、ダーク・フェアリーにでもなるかもな」
「神様。どうかコイツに罰を与えてください」
「太陽神ってのは、そんな陰気なことをする奴なのか?」
「知らないわよ。神様のどれかが気まぐれでアンタに罰を与えることを祈ってるだけよ。神様じゃなくて悪魔でもいいけどね」
チルカは地獄に落ちろと、リットに対して親指を下に向ける。
「悪魔に会ったら、悪魔に成り損ないの生き物が、虫の羽を手に入れて管巻いてたって紹介しておいてやるよ」
「おい……リット。喧嘩をしている暇があるなら、はよマグニの元に行こうではないか」
グリザベルは間に割って入ると、リットに支度をするように急かせた。
既に何百匹ものハエに、妖精の鱗粉を塗って外に離していた。リットに近寄ってきたハエは、ランプの光を反射させて光っては消えていく。
「おっ、旦那。準備出来たんスかァ?」
「おう、やっとな」
リットはリュックからハエの入った瓶を取り出してノーラに見せた。
瓶の中のハエをランプで照らすと、妖精の鱗粉とガラスに光が反射して、まるで妖精でも捕まえたかのように光った。
「美味しそうだねー」
瓶の中のハエを見つめてマグニがつぶやく。
その言葉に驚いたノーラは裏返った声を上げた。
「え? 食べるんスか?」
「鶏っぽい味がするよ」
「ほうほう。――どれ」
「どれ、じゃねぇよ」リットは瓶の布を剥がそうとするノーラの腕を掴む。「だいたい、マグニは鶏なんか食ったことねぇだろ」
「ないよ。だからイメージイメージ。人間は鶏っぽいって言っとけば食べるってノーラが言ってたから」
「マグニに余計な知識を与えたのはオマエか」
「だって冒険者は、ヘビもカエルも鶏っぽいって言いながら食べるじゃないスか。見た目が悪いものを食べる時は、鶏っていう決まりなんじゃないんスか?」
ノーラはむかし旅の途中で一緒になった冒険者に、鶏っぽいから食べてみろと勧められたのを覚えていたらしい。
「他に例えようがねぇからだよ。ヘビの味を知らねぇ奴に、ヘビの味だって言っても伝わらねぇだろ。あと冒険者だって虫は食うぞ」
「じゃあ、ハエも一緒っスよ」
「オマエがどうしても食いたいって言うなら、もう止めねぇけど。妖精の鱗粉で甘く味付けはされてるだろうが、腹にウジがわいても知らねぇぞ」
「やめときやーっス」
ノーラは手を上げて宣言する。
「マグニは食べても平気なのか?」
「さぁ?」
マグニはきょとんとした顔で首を傾げた。
「さぁって……食うんだろ? ハエ」
「あっははーっ、まさかー! 食べないよー。ボクは美味しそうって言っただけだもん。ハエは羽があって邪魔そうだしねー。ボクが食べるのはミミズとかー、アカムシとかー、ウネウネってしてる奴。魚とか貝とかも食べるけど」
「まぁ、ミミズををいくら食べても、腹一杯にはならねぇだろうしな。その腹を見りゃ、雑食なのはわかる」
リットはマグニの腹を見た。いつ見てもぽっこりと出た腹だ。お腹の下は魚になっているので誤魔化されているが、これが人間だったならばむっちりとした太ももになっているだろう。
「ミミズも美味しいんだけどねー。量的におやつかなー。リットも食べてみる? 獲って来てあげようか?」
「食えねえこともないだろうけど、どうせ獲ってくるなら魚にしてくれ」
「りょーかい!」
マグニは左右に腰を捻り準備運動をすると、川に飛び込もうと構えた。
「待て待て、今はハープを弾くのが先だ。もうすぐグリザベルも追いついてくるから、少し待ってろよ」
「あれ? グリザベルと一緒に来なかったの?」
「宿屋を出たのは一緒だ。歩くのが遅えから置いてきたけどな。――ほら来た」
遠くからランプの明かりが上下に揺れながら近づいてきた。
まるで山を登っているのではないかと思うほど重い足取りで、グリザベルが向かってくる。
「遅えぞ」
「しかたなかろう。川の……合流地点は……村から……遠い……のだ。いつものように……船が置いてある場所で……良かったではないか」
グリザベルは肩で息をしながら、リット達の集まっているところまで歩いてきた。
「村の近くで変なことすると、村長のコニーに怒られるんだよ」
「街灯が……歩きまわってる……時点で、充分変な村ではないか……」
「そのせいで、変なことには過敏になってんだ。少しは反省しろ」
「反省する。……反省するから、少し休ませてくれ。ふぅ……、城を出てから疲れることばかりだ」
グリザベルは座りやすそうな石を探して腰掛けた。
「城にこもって、影執事に面倒を見てもらってるから気付かねぇんだ。人生ってのは疲れるもんなんだよ」
「……好き勝手生きてるリットに言われとうないわ」
そう言うと、グリザベルは疲れを吐き出すように息を吐いて肩を落とした。
「そういえば旦那。その瓶の中のハエは外に出さなくていいんスかァ?」
「これはマグニがハープを弾く時に光を当てて逃がすんだ。そこら辺を飛んでる一匹が光を反射させても広がらないからな。十匹くらい纏めて光を反射させて飛んでいってもらわねぇと」
「ほう」
ノーラはわかっているような、いないような曖昧な返事をした。
「それじゃ、さっそくいってみよー!」
マグニはハープを持って川に飛び込むと、大岩目掛けて泳いでいった。
「いいのか? グリザベルはまだ疲れてるんだろ?」
「……よい。疲れていても音は聞こえるからな」
そうは言ったが、マグニの演奏する姿は見たいらしく、グリザベルは顔を大岩にいるマグニに向けた。
「いっつでもいいよー!」
マグニは大岩に腰掛けてマーメイド・ハープを構えた。
リットはハエの入ったビンを川べりに置くと、布の蓋にヒハキトカゲのオイルを染み込ませた。
マッチを擦って火を付けると布を燃やした。
ヒハキトカゲのオイルを染み込ませたおかげで布はあっという間に燃え尽き、瓶の入り口から次々と炎を反射させたハエが飛び出していく。
光を纏ったハエが空に向かって流れていった。そして、川を彷徨っていたハエたちに光を受け渡し始める。十数匹の光が数十の光に、数十の光が百に。ハエたちは点滅を繰り返し、いつしか億千の星のような光を作り出していた。
マグニはしばらくその光景に見とれていたが、いつしか自然にマーメイド・ハープの弦に触れていた。
そして弦をはじく。
マグニの演奏は歪んだ音から始まった。雑然とした音は顔をしかめるには充分過ぎるものだったが、徐々に音が変わり始める。
覚束ない手つきで響くハープの音は、いつの間にか音色になり、音階を奏ではじめた。
高く澄んだ音は鼓膜を優しく包むように響き、低く乾いた音は甘い響きを耳に残す。
いつしかハエはホタルへ、ホタルから星空の光へと変わったような錯覚に陥るほど、幻想的な光景が広がる。
やがて、マグニが鳴らす音の羅列は感情を持ち始めた。
ハエ達もそれを感じるのか、飼いならされた動物のようにマグニの周りを飛び回る。
しかしハエのお尻に塗った妖精の鱗粉の反射が弱くなり、少しずつ光を失っていく。ハエが完全に光を失うと、マグニの演奏も途中で止まってしまった。
「そこまでいけば気力でどうにかならねぇのか?」
「無理だよー。演奏途中に緞帳が落ちたら、やる気なんてなくなっちゃうよ」
「腹と性格に似合わずナイーブな奴だな」
「お腹は関係ないでしょー! 人のお腹を見てオリーブだなんて失礼しちゃうよ」
「失礼な作りをしてのは、オマエさんのオツムと耳の穴だ。」
リットは川べりから空になった瓶を持ち上げる。
結局、マグニがマーメイド・ハープを弾いている間、川の水の変化はなかった。ちゃんと弾けるようになるまでは、まだ少し時間がかかりそうだった。
「妖精の白ユリのオイルを調合して、最初にもっと強い光を浴びせないと保たねぇな。ハエの数ももっと増やすか。それにしても、マーメイド・ハープに虫を従える力もあるとはな」
「うん? そんなのないよー。マーメイド・ハープは水に関することにだけしか効果はないはず」
「そうなのか? ハエの動きを見る限り、操ってるように見えたけどな」
「間違ってはいないと思うぞ。ハープの空気の振動に導かれて、ハエは操られたかのように動きをしたのだろう」
グリザベルも先ほど見た光景を思い出しながら言う。
「マグニが生臭いから集まってきたっていう可能性は?」
「ない! と、我は信じたい……」




