第十五話
腐っている。国も人も心も。道端に倒れる人を見てオレはそう思っていた。
やせ細った腕が子供を包み、うわ言のように神に救いを求めている。しかし母親の祈りは届かずに、赤子は生きることを諦めた。
土にまみれカビが生えたパンにはハエがたかっている。道端に落ちているパンを拾い上げると、骸骨と変わりないやせ細った体の男が食べ始めた。
眼の焦点は合っておらず、ただ漫然と口に運ぶ。水分のない口内はパンを食べるのにも時間が掛かる。老いたロバが道草を食べるようにもしゃもしゃと、小さな欠片で目一杯頬張っているようにも見えた。
そして、三分の一程食べたところで、男は息絶える。
落としたパンを今度は違う男が拾い上げて食べる。
悲惨な光景に思わず足を止め、町の死に行く音に耳を傾けていた。
服の裾を引っ張られた。汚い手だ。垢まみれで土に汚れた小さな手が呼んでいる。
「なんダ?」
手よりも汚れた服を着た女の子が、じっとオレの顔を見ていた。やがて裾を掴んでいた手は、オレの手を握り走りだす。力は弱かったが、何故か抵抗することなくオレはついて行った。狭い路地を抜け、裏通りへと抜けると、女の子が大声を上げた。
「ママー! 勇者様が来たよ!」
そう言うと、女の子はオレから手を離し、母親と思われる女性の元へと走っていった。
「こら、マリー! 表通りに出たら危ないって言ったじゃないか!」
頭を軽く叩かれたマリーは、それでも嬉しそうにしている。
「えへへー。勇者様だよ」と言って、オレを指さした。
母親はオレの顔を見るとギョッと目を見開き、子供を背中に隠した。
無理もない。オレはオークだ。恐れられた目にはなれている。――侮蔑の目にも。立ち去ろうと思った瞬間、母親がこちらに向かって歩いてきた。
「アンタ、勇者かい?」
「……違ウ」
「だろうね。勇者っていうよりも盗賊のなりだよ」
オレは黙って背中を向けたが、母親はオレの肩を掴む。
「ちょっと寄って行きなよ」そう言って壁の壊れた家を後ろ手に親指でさすと、「アンタに見せたい物がある」と言った。
招待された家は廃墟だった。窓は割れ、カーテンも下半分が破り捨てられていた。
割れた窓から入ってくる土埃のせいで、いくら掃除をしても汚れている。母親は椅子の汚れを手で払うと、オレに座るように促した。
両手を口の端に合わせ筒の形を作ると、奥の部屋へ呼びかける。
「アンジー! 絵本を持ってきておくれ」
片方の蝶番が外れたドアが倒れそうになりながら開くと、十六歳位の女の子が出てきた。
栗色の髪はパサつき汚れている。青空によく似た瞳でオレを見ると微笑みかけた。「いらっしゃい。お客さん?」
汚れた服のせいか、汚れた顔のせいか、汚れた髪のせいか、彼女の笑顔はとても輝いているように見えた。
「勇者様だよ」と母親が一言言うと、「まぁ、本当」とアンジーも同意するように言った。
「だから、違ウ」
「でも、ほら!」
アンジーは絵本をテーブルに置いて広げると、ページを捲った指をさした。
絵本はどこにでもよくある、勇者が囚われの身のお姫様を救うといった内容だったが、勇者は人間ではなかった。
最初は人間だったと思われるが、色褪せ、滲み、肌の色が緑になっている。
オレの肌と同じ、汚い緑色だった。
「……でも、これはオレじゃなイ」
「わかってるさ。でもマリーにとっては、この町を救ってくれる勇者様なんだよ。何度も何度もその絵本を読んでるからね」
ボロボロになった絵本はマリーの手垢が付いており、特に最後のハッピーエンドのページは何度も開いた跡があった。
「この町を出て行けばいイ」
「無理よ」
「どうしテ」
「この町は自由都市。……そう言えば聞こえはいいけど、ただの無法地帯よ。元々はリューグナー国に属していたのだけれど、なぜか急にこの町を捨てたの。自立したのではなく、強制的に自由都市にさせられたのよ。そして、すぐにガラの悪い人達がやって来て、王様のように町を支配し始めたの。力という恐怖で……」
アンジーがそこで言葉を飲むと、代わりに母親が話し始めた。
「アンタがやって来たように、町に入るのは簡単さ。でも、出るのは簡単にはいかない。人が増えるのはいいけど、人が減ると奴らの楽しみが減るからね」
「楽しミ?」
「……この町には畑がない。どうやって食べ物を調達するかわかるかい?」母親の言葉に、オレは黙って首を横に振った。
「奴らが食べ物を置いていくのさ。それも奪い合いになるような微妙な量をね。そしてその様を見て楽しんでるのさ」母親は一つため息を挟むと続けた。「夢も希望もないだろ? ……アンタもどのみちこの町から出られないんだ、少しこの家に居てくれないかね? あの娘に夢を見させてやりたいんだよ」そう言って、いつの間にか寝ているマリーの頭を撫でた。
何故この街に留まったのかわからない。いつの間にかオレは、この腐った町で短いようで長い三ヶ月を過ごしていた。
家の修理に模様替え、力のあるをオレをいいように使っている気もしたが、オレ自身もこの家族ごっこを楽しんでいたのかもしれない。
「聞いてる?」
頬を膨らませたアンジーが、オレの顔を覗きこんでいた。
「聞いてなかっタ」
「もうっ。窓に木板を打ち付けた方がいいかしらって聞いてたの。日差しが入らないのは寂しいけど、こう土埃ばかりが入ってもね」
アンジーは困ったように笑った。マリーのように架空の勇者としてではなく、母親のように一瞬怯えたような表情を見せるわけでもなく。アンジーは最初から、オレをオレとして見てくれていた。
「また聞いてない」
「……ごめン」
「私がお喋りなだけかもね」と、アンジーはまた笑った。
家の土埃を外に掃き出していると、「おねえちゃーん」と、マリーが走ってきた。手に持っていた枯れ草の冠をアンジーに被せると、絵本のお姫様とアンジーを指して「おねえちゃん」と言い、絵本の勇者とオレを指して「勇者様」と言った。
開かれた絵本のページの勇者と姫は抱き合ってキスをしている。
「こら! からかわないの!」と、アンジーが頬を紅く染めた。
「からかってないよー。だって、おねえちゃんお姫様みたいだもん!」
「そ、そんな事言ったら迷惑でしょう!」
「迷惑じゃ……なイ」
「え……」
「いや……そノ……」
「ふたりとも顔真っ赤ーっ!」と、マリーはからかうように笑い、アンジーが怒る前に走って逃げていった。
居心地が悪いような、ずっと続いて欲しいような。色んな感情が混ざった無言が、二人の間に流れる。
「あの……」
アンジーが口を開きかけた時、遠くから喧騒が響きだした。
蹄が地面を蹴る音、下劣な笑い声、悲痛な叫び。マリーが走っていた方角だ。
一も二も無く、オレは表通りに向かって走っていた。
表通りにはマリーがいた。
後は馬に乗った人相の悪い男三人と、麻袋に穴をあけたような服を来た女が転がっている。
「……わたし。……わたし、悪くないもんっ!」
マリーが絞り出し叫んだ声に、馬上の男は瞳を鋭くした。
「いいや。悪いのは嬢ちゃんだ。オレ達が仲良く遊んでるのを邪魔したんだからな」
「遊びじゃないもん! お姉さん泣いてたもん!」
「鬼ごっこをしてたんだ。逃げる奴を追いかけるのは当たり前だろ。ほら、タッチして鬼の交代だ」
男は転がった女に向かって、刺さるように剣を投げつけた。
流れる血を見てマリーは叫びにも似た大声で泣きじゃくる。男は煩そうに耳を手で塞ぐと、地面に唾を吐いた。
「鬼ごっこに石は邪魔だな。転んだら危ない」そう言ってニヤニヤとしたいやらしい笑みを浮かべると「オレの前にあるのはなんだ?」と、他の男達に聞いた。
「石だな」感情もなく淡々とした声で答える。
「それじゃ、転ばないように掃除しないとな――」
男が手綱を引くと、馬は鳴き声を上げて棹立ちした。下ろされる脚は真っ直ぐにマリーの頭を狙っている。
「勇者様ーーっ!」
そうマリーが叫ぶと、視界は緑に染まった。同時に馬が鳴く。先程の荒々しい鳴き声ではなく、悲痛な鳴き声だった。
「なんだオマエは!」
男は殴られた馬ごと地面に倒れこみ、痛そうに身体を押さえながらオレを睨んでいる。
マリーが喜びの声を上げた。
「勇者様!」
「勇者だぁ?」
男たちはオレの風体を見て、驚きと嘲笑が混ざった声を上げる。
「……違ウ」
「だろうな。どう見てもオマエは勇者に退治される側だ。で、どいてくれないか? オマエがそこにいると、邪魔な石をどかせないんでな」
男は、オレが片手で抱いているマリーを見ている。
マリーはオレの腰に腕を回し、震える身体を懸命に抑えこもうとしていた。
「この町は力が支配するんだロ?」
「そうだ。つまり、オレが一番偉い。王様だ」
男は転がった女の背中から剣を引き抜いて言った。
「オレは……勇者じゃなイ」
「さっき聞いた。――どけ!」
男は剣の切っ先をオレに向けた。
「オレは……勇者じゃなイ。オレはこの町の……。新しい王様ダ!」
話しているオークは丸太の上に座り、至福の表情を浮かべて浸っている。
「いいから、イイトコロだけ摘んで話せヨ。結局アンジーって娘とは……。その……やったのカ?」
ブホホは鼻息を荒くして、話を続けるように急かす。
「……村を救った英雄と、その英雄に思いを寄せる女の子がどうなったかっテ? わざわざ言う必要はあるかナ?」
オークがそう言うと、周りから歓声が上がった。ある者は指笛を吹き、ある者は勇者の帰還を祝うように話していたオークの背中を叩く。
「で、次は誰が童貞喪失の時の話をするんダ?」
鼻息を荒くしたオーク達は、我も我もと手を上げ話を始めようとしている。
リットは、そんなオーク達を少し離れたところから見ていた。
「リット……。いつまでオーク達のほら話に耳を傾けながら、焚き火をしているつもりだい?」
「あいつらのほら話が本当になるまでだ」
リットはヒッティング・ウッドの木を燃やして、灰を作っていた。オークの魔力が流れていないので、ただの灰にしかならないが、もしかしたら普通の木にも魔力が流れているかもしれない。万が一の確率だが、オークが童貞を捨てるより確率がありそうだったからだ。
「……それこそ本当に十年は掛かるよ。僕はこんな男だけのところにいたら十日もしないで死んじゃうよ」
「オマエ催眠術とか使えないのか? よくやってるだろ? 女を騙して付き合う時とか」
「僕の口説きのテクニックを催眠術と言うのはやめたまえ! だいたい、できたらなんだって言うんだい」
「フェムト・アマゾネスにオークを押し付ける」
ローレンは呆れたように深く息を吐くと、妄想話を繰り広げ盛り上がるオーク達に目を向けた。
「無理だね。あのオーク達の実態を見たらフェムト・アマゾネスだって願い下げるよ」
「無理か……。見てくれだけは屈強なのにな……」
「種族は違えど、あんなに情けない男を見たのは初めてさ」
ローレンの目には、哀れみにも似た軽蔑の感情の色が浮かんでいるのが見て取れる。
「しかたねぇな。リゼーネまで行ってみるか。多種族国家ならヒッティング・ウッドも売ってるだろうし。全世界のオークが童貞ってことはありねぇだろう。……とりあえず、近くの街を探して馬車を借りねぇとな」
リットは枝を手に取ると、地面に数字を書いていく。ジャック・オ・ランタンがいないので、ここからヨルムウトルまで戻るのに使う馬車代。ヨルムウトルから自分の町までの馬車代。自分の町からリゼーネ王国に行くまでの馬車代。それと滞在費を考えるとかなりの金がかかる。
「計算というか、元々の金額が間違ってるよ。いくら馬車でもここまで金額は掛からないはずだ。貴族馬車にでも乗るつもりかい?」
「そうだ。しっかりと椅子にクッションがあって、幌を掛けた馬車に乗る。じゃねぇとケツが痛えからな」
「まぁ、キミのお金だし、好きにしたらいいよ」
「なに言ってんだ? ローレン。オマエが払うに決まってんだろ」
リットは地面に数字を書き終えると、枝を焚き火の中に放り投げた。
「待ちたまえ! なぜ僕が払わなければいけないんだい! 僕が馬車に乗るわけでもないのに」
ローレンは声を荒げると、焚き火の煙が口に入ったらしく、激しくむせ出す。
「グリザベルは美人だっただろ?」
「美人だったけど、それがどうしたんだい」ローレンは咳混じりに唾を飛ばしながら答えた。
「オレがヨルムウトルの城に行く為の条件を忘れたのか? ジャック・オ・ランタンの主が美人だったら、必要経費はローレンが全額負担するって話だっただろう」
リットは「覚えてるか?」と言うように首を傾げローレンを見た。
口をつぐんだローレンは、困ったように長い前髪に指を走らせた。前頭部をなぞり後頭部まで手を持って行くと、頭を押さえつけられたように項垂れる。リットとの約束は覚えているようだった。
しばらく焚き火の周りをウロウロ歩きまわると、ローレンは重い口を開いた。
「リット……。僕みたいな、いい男の条件を知ってるかい?」
「自尊心が高くて、軽薄で、口先の巧さとその場しのぎの機転だけで世渡りしている奴か?」
リットがローレンの顔を見ながら言うと、ローレンは顔を歪めた。
「……少し言葉を変えよう。一般的にいい男の条件を知ってるかい?」
「面がいいとか、金を持ってるとかか?」
「それじゃ、ただのいい男だ。僕クラスのいい男だと、他の男の格を上げることも出来る」
自信満々に笑うローレン。
その姿を見て、今度はリットが顔を歪めた。
「結局どういうことだよ」
「あのオーク達に自信を持たせて、フェムト・アマゾネス達とくっ付ける。オーク達が清楚な女性を好むのは、自分に自信がないからだ。自分に自信を持てば、女性の好みの幅も広がるだろう」
「……つまり、自分は余計な金を出したくないから、童貞の純情を弄んで、だまくらかして、悪い女と子作りさせて、責任を取らせるわけだ」
「ちがっ――。いや……そういうこと」
ローレンは立ち止まると、リットの答えを待った。
リットは腕を組んでしばし考えると頷いた。
「ん……。いい考えだ。それでいこう」




