第二十三話
入り組んだ廊下と闇。感覚を麻痺させるには、この二つだけで充分だった。それだけで、自分達が何階にいるのかわからなくなってしまう。
地下や塔を上り下りする階段はどれも似たようなもので、滑って転げ落ちないように、壁に片手をついて歩いてるうちに、今どの辺りにいるかというのは、意識の外へと簡単に飛んでいってしまう。特に、左右の壁が襲ってくるような閉塞感のある螺旋階段では、息が詰まりそうで、そもそも考えることすら億劫になってしまう。
しかし実際には、何を考えようが考えまいが、頂上まで上り、また下ってくるということの繰り返しなので問題はなかった。
それは階段だけではない。一部屋ずつドアを開けて中を確認する。この単調な作業の繰り返しは、廃城と成り下がり、闇に呑まれ、迷路になってしまった城の中で、永遠に続くのではないかと思えるほどだ。
この闇というのは慣れることがない。何度まばたきを繰り返しても、一晩目を閉じて眠っても、目が乾いて涙がこぼれるほど見つめても、そこにある闇はいつでも新しい闇だった。
同じ闇はなく、瞬々得体の知れない蠢きの不安感だけを押し付けてくる。闇が当たり前の存在になっても、見慣れることはなかった。
言うなれば浅い眠りの夢の中にいるようだ。全身に力を入れて一生懸命歩くのに、何故だかほとんど前に進めない。しかし場面は移り変わっている。
しかし、周りに誰かがいるというだけで、それが恐怖となって襲ってくることはなかった。夢は夢、想像は想像のまま留めておける。これが一人ならば、早々に参ってしまい、あてもなく走り続け闇に呑まれて消えていってしまうだろう。
まるで、闇の中に足を踏みれたばかりの頃のようだ。言いようのない未知の不安に、心臓の縁を撫でられてるかのような感覚。
理由ははっきりしていた。一瞬にして振り出しに戻ってしまったからだ。
城の中をシラミつぶしに探し、既に通った道には松明の煤を使いマークを付けていた。つまり、通ったことのない道や、入ったことのない部屋のドアにはなんもマークがついていないということだ。
しかし、今リット達の目の前にあるのは、一番最初に意気揚々とつけた大きなマークだった。
思わず座り込みそうになった全員を「まだ中庭は見ておらぬ。絶望と手を繋ぐのならば、絶望しか見えなくなってからでよい。あとで希望を見つけても、二つを持つことは出来ぬぞ」と鼓舞したのはグリザベルだ。「魔力の流れは確実に違っておる」と確信めいたものを感じていた。
至極当然の意見に、話し合うこともせず中庭へと向かった。生活のニオイがないのは、川沿いの道でも、山道でも、廃屋敷の中でも、廃城の中でも同じだった。
当然この中庭でも同じことなのだが、足元に生える草の絨毯が、張り詰めた心の糸を優しく揉みほぐしてくれたので、ようやく口からため息以外のものを出せるようになった。
中庭を適当に歩いたところで、「さて……どうしたものか……」とエミリアが心の衰弱をあらわに言った。
「いっそじゃんけんでもして、誰かのせいにでもするか?」
慰めに茶化しを混ぜて言うリットの肩に、慰めにだけ同意したヴィコットが手を置いた。
「そう焦ることもないだろう。長い時間を掛けてここまで歩いてきたんだ。一日ですべてを終わらせなくてもいい。疲れると、集中力も散漫になるもんだ。鍵を探すのと一緒だ。漁ってる時は見つからないが、ふとした時にあっけなく出てくる」
そう言うと、ヴィコットはその場に腰を下ろした。
その行為は全員が避けていたものだ。一度座り込むと、そのままもう二度と立てなくなるような気がしていたが、あまりにヴィコットが自然に座ったので、そんな思いは吹き飛んでしまった。
最初にリットが家に招待でもされたかのようにヴィコットの隣に座ると、続いてノーラが長い息を吐きながら座り、その頭の上に同じく長い息を吐きながらチルカが落ちるようにして座る。グリザベルが「それがよい。我はもう動けぬ」と弱音を吐くと、ハスキーが「では、テントの用意でもしましょう」と、荷物をおろしテントの準備を始めた。
闇に呑まれてからのいつもの光景に、エミリアは思わず笑みをこぼした。そして緩んだ口元から笑い声も漏らすと、「焦っていたようだ。すまない」と、いつもの光景を作り出してくれたヴィコットに深々と頭を下げた。
「そうだろう。さらっとやるのがまたいいんだ。遠慮なく惚れて、是非とも恋い焦がれてくれ」
ヴィコットがガハハと笑い声を響かす横で、リットはふいに立ち上がった。そして、片手にランプ持つと「ハスキー、薪拾いだ。ついてこい」と誘った。
城にある一室。その中で「よかったんでしょうか……」とハスキーが不安げに呟いた。
「いいんだよ。テントなんて誰が張っても同じなんだからよ。でも、薪拾いは違う。力があるオマエがいないと、オレの持つ量が増える」
「頼ってもらえると嬉しいですね」
「オレもオマエが単純で嬉しい」
リットが言うのと同時に、集まった音痴が一斉に発声練習をしたかのようにひっくり返った音でピアノが鳴った。
二人は音の元凶を見たが、すぐに視線を戻した。
「ところで、リット様……」
「なんだよ」
「なぜ楽器ばかりを壊すのでしょうか?」
「どうせ薪にするなら、高いもののほうがいいだろ。絵画は燃やすと油臭えからな」
リットは辛うじて一本だけ弦が残っていたヴァイオリンを壁に叩きつけて壊した。
「同感だな。ハスキーの言いたいこともわかるが、こういうものは歴史に残す必要がない。特に一個人の悪趣味なものはな」
先程椅子を叩きつけてピアノを壊したのはヴィコットだ。
ピアノの椅子は苦しげな表情のケンタウロスが支えるような格好をしている木彫り細工で、側板の装飾には実際の金や宝石を使った巨万の富を思わせる絵。そしてピアノの蓋、大屋根の裏には優雅に食事とワインを楽しむ人間たちの絵が描かれている。極端なまでの人間賛歌の構図を、ピアノで表現したものだ。
「本っ当、人間ってのは浅ましい生き物よねぇ」
チルカがピアノの弦に触れると、指先が鋭利な刃物になったのではないかと思えるほど、驚くほどたやすく弦が切れた。切れた弦の勢いに、思わずチルカは目を丸くした。
「なんで……オマエがついてきてんだよ」
リットが声をかけると、チルカは大きく開いている目をゆっくり細めた。
「男三人コソコソしてるからでしょう。そんなの気になって後をつけるに決まってるじゃない」
「なにがコソコソだ。ちゃんと薪を拾いに行くって言っただろう」
「薪を拾うだけであんなそそくさ行くわけ? で、つけてきたら案の定よ。こんな楽しそうなことしてるんだもん」
「拗れた思春期の少年みてぇなこと言ってんなよ。言っとくけどな。気を使って男だけ誘って出てきたんだよ。そのほうが、溜め込む奴の疲れが取れると思ってな」
チルカは半笑いとため息を両方混ぜた声をだすと、今度は呆れた顔をリットに向けた。
「黙って気を使うなら、ヴィコット並に上手くやりなさいよ。下手なんだから、しっかり言葉にしないと誰にも通じてないわよ」
「じゃあ、黙っててくれ。どうだ言葉にしたぞ。通じたか?」
「通じたわよ。答えはこう――アンタに指図される覚えはない」と、チルカは満面の笑みでリットに返した。
「それで、本当の理由はなんだってんだよ」
「なにって、アンタと違って気を使えるノーラと、自分勝手で話題を変えられるグリザベルを残してきたのよ。そのほうがエミリアの疲れも取れるでしょ」
チルカは先程の言葉とは打って変わって、アンタの考えはお見とおしと言わんばかりの視線をリットに向けた。
結局チルカはリットの意を汲んで、それなら自分もいないほうがいいだろうと判断して出てきたということだ。
「オマエも気を使えんだな」
「アンタ以外には使ってるわよ。言っとくけど、私がエミリアになにも出来ないわけじゃないわよ。なにもしないことのほうが大事なこともあるの。どうせアンタにはわかんないでしょうけどね」
「言われてるぞ、ハスキー」
リットがピアノを分解しているハスキーに声をかけると、ハスキーは律儀にチルカの方を向いて、「すいません」と頭を下げた。
「まっ、確かにアンタだけじゃなく、クソ真面目なアレにも言えることね。で、アンタこそ本当はどうなの?」
「なにがだよ」
リットは元ヴァイオリンだった木片を一箇所に集めながら言った。
「なんだかんだいつも機転を利かせるじゃない。これからどうすんのよって話」
「そうだな……とりあえずは――」リットは小さな木片を指で弾いてチルカに渡した。「憂さ晴らしに、金持ちの私物を燃やすってとこだな」
ヴィコットとハスキーが両手に薪を抱え、リットが小脇に薪、片手にランプを持ち中庭を歩くと「ほら、いっちに、いっちに」というチルカの声が響いた。
リットは足を止めると「なんなんだよ。さっきから」と文句を言った。
「いいから足を動かしなさいよ。アンタだけよ、足並みを乱してるの」
チルカの言葉通り、ハスキーとヴィコットはリズムよくその場で足踏みをしていた。ヴィコットはノリよく付き合っているだけだが、ハスキーはそれはもう嬉しそうな表情で「いやー懐かしいですね。もう遠い昔のことのようです」とリゼーネにいた頃を懐かしんでいた。
「なんなら和も乱してやるよ」と、リットはチルカの掛け声とはちぐはぐに、やたらとゆっくり歩き出した。
「アンタって、本当……人の心をかき乱すのが得意よね。人の迷惑を考えなさいっての」
「まったくだぞリット。オマエは先頭を歩いてるからいいかもしれんが、後ろを歩く身にもなってくれ」と、ヴィコットも文句を言う。
リットがあまりに適当に歩くので、足元を見ないととてもじゃないが歩けなかった。しかし、いつものじゃれ合いのような意味のない行為が、思いがけず功を奏した。
ヴィコットはおもむろに「足跡だ」と呟いたのだ。
「そりゃ、足跡はつくだろうよ」とリットが言うと、ヴィコットは「今の草が伸びる状況でか?」と答えた。
リットが視線を落とすと、リット達の靴ではない。別の方向へ向かっている足跡があった。そして、その足跡には草が生えていない。はっきりとした土色を残し、一人分。まっすぐどこかへと向かっていた。
大きさからして女性のもの。その歩幅からして、エミリアでもグリザベルでもない。二人の足跡ならば、今は疲弊しているためもっと間隔の短いものになっているからだ。というのは、ヴィコットの推理だ。
その推理がなくとも、一度草の生えた場所をもう一度ランプで照らしても、もう一度生えてこないのわかっていたことだ。二人の足跡ではないことが確信となった。
すぐさまそれをエミリア達に伝えると、さっそくその場へ向かうことになった。
元の場所へは草が生えないので、先を少し進み、照らし合わせてみると、やはり二人の足跡とは違っていた。別の者の足跡が、手招きをするように城壁へと誘っている。
用心深くその足跡を辿っていくと、外へと出る小さな扉の前まで来た。錆びた音を響かせてその扉を開けると、足跡はさらに続いていた。
ほどなくして、その足跡はある建物の前で途切れることになる。
「離れの塔か……おあつらえ向きだな」
と、一番最初に声を漏らしたのはグリザベルだ。
「闇に呑まれていて、城壁の外は確認できなかったからな……」エミリアは塔の扉を見た。鉄製の扉は錆びている。それ以外特徴はなかった。「印はない。まだ未踏の場所だ」
「ならば進むべきだ」とグリザベルは力強く言った。
「そりゃどうかな」とリットは肩をすくめた。
「どうした? 臆したか、リット。臆して戻れば、進むべき未来への道は消えるぞ」
「そのセリフ気に入ってんだな。でもな、手持ちのランプは二つだ。三つ必要なんだろ? 本当に戻んなくていいのか?」
「……戻る」
荷物を持ち、心機一転と仕切り直したリット達は塔を登り始めた。狭苦しい螺旋階段は、城の中にあった塔と変わらない。一つだけ違うのは、中間に部屋がないということだ。頂上にあると思われるディアドレの部屋まで階段のみ。まるで人払いでもしているかのような長さの階段だ。
元から疲れていたリット達は、間で一度休憩を取ると再び階段を上り出した。
心臓が高鳴っているのは、疲労のせいだけではない。期待と不安も入り混じり、心臓が助けを求めるかのように内側から胸を叩いている。
だが、決して出ていこうとはしない。
捕らえられた自らの心臓に、食事でも運ぶかのように、ゆっくりと息を吸い。励ますように少し早く息を吐く。俯瞰的に自分の心臓を励ましているような、変な状況だった。
しかし、それは長く続かなかった。期待と不安の正体であるドアが現れたからだ。
それはまるで、心象風景のようだった。まるで自分の心のドアに手を伸ばすようだ。
エミリアは首だけ振り返り、全員の目を見て深くうなずくと、現実のドアに手を伸ばした。
そしてドアを開けると、目に飛び込んできたのは風景ではなく、一瞬の閃光だった。それも目が眩むほどの閃光だ。
目を押さえ、状況がわからないリットの耳には、「見よ……まだ動いておる」というグリザベルの声だけが入ってきた。
リットが再び目を開けた時には、閃光は閃光でなくなっていた。
今まで、瑠璃色のオイルのランプの光や、焚き火の優しい光ばかりだったので、少々の強い光にも目が眩んでしまったのだ。
閃光の正体である。床に敷き詰められた宝石の暴力的な反射は、視界を数秒奪うのには充分すぎるものだった。




