第十七話
吊り上げられたばかりの魚が桟橋の上で跳ね回るように、チルカは木箱の蓋の上で転げまわった。
肩で息をしながら体を起こすが、リットの顔を見ると、またこらえきれずに吹き出し、また木箱の上を転がりまわる。
それを何度も繰り返し、笑いすぎて痛むお腹を押さえながら大きく深呼吸をして、なんとか自分を落ち着けると、「アンタは本気のバカね」とリットに言った。
「奇遇だな。まったく同じことをオマエに言ってやりてぇ」
リットは奇行とも思えるチルカの行動に、冷ややかな目を向けていた。
小さな体を全部使ってバカにすることは今までも何回かあったが、自分の体を汚してまですることはなかった。しかし今は、ろくに拭いてもいない木箱の上を転げまわったせいで、チルカの肌も服も埃と泥にまみれてしまっていた。それだけリットの話をバカバカしいと感じていた。
そのリットの話とは、川の真ん中にあった倉庫小屋で見つけたイモのことだ。ランプの光で芽が生えてきたのではないかと話をした瞬間から、チルカの笑いは止むことはなかった。
「アンタねぇ……植物のことを舐めすぎよ。たしかにそのランプの光は太陽と同じよ。でも、太陽の光が当たった瞬間に発芽する植物があると思ってるわけ? そんなのがあったら今頃この世界は、その植物一色に染まってるわよ。だいたい植物ってのは、自然の複雑な気温の変化から季節を知って芽を出すのよ。愚鈍なアンタとは違って利根なの。わかる?」
「なら、闇に呑まれた中でイモが芽を伸ばした理由を教えてもらいてぇもんだ」
「そんなの私が知ってるわけないでしょ。太陽が昇らない世界なんて、私の知ってる世界じゃないんだから。不気味なカボチャみたいに、どっかの魔女が勝手に作った植物もどきなんじゃないの?」
そう言ってみたが、チルカから見てもイモはただのイモにしか見えなかった。その普通のイモが、わずか数時間だけ太陽の光を浴びたところで芽を出すのはおかしい。そう思ったので、視線をグリザベルに向けて答えを待った。
しかし、グリザベルからの答えはなかった。
というのも、グリザベルも同じような気持ちでチルカを見ていたからだ。
グリザベルの目線からも、イモは普通のイモにしか見えない。それならば、植物に詳しい妖精のチルカのほうが答えを知っていると思っているからだ。
二人は言葉のない視線を交わすだけの会話を続けていると、無言の会話に言葉が生まれた。しかし、その言葉は二人の口からではなく、ヴィコットの口から出たものだった。
「イモが腐らずに残っていたということは、少なくとも生命力は残っていたということだ。チルカが言っていただろう。森が死んでいく声が聞こえると。時間が止まっていたなら、死際の声だけではなく、当然産声も聞こえる」
「そうだとしても、死は一瞬の待ち。生は永年の待ちよ。だから生まれたら嬉しいし、死んだら悲しいの。一瞬で生まれるものがないのが自然の理なのよ。ランプの光を当てただけで、芽が出たなんて論外。だいたい芽が出た瞬間なんて見てないんでしょ?」
チルカは咎める視線をリットに投げかけた。自然界の法則を乱すなとでも言いたげな瞳だ。
「見てねぇな」とリットが最初に発見したノーラに視線を送ると、ノーラも首を横に振って見てないと主張した。
「なら、最初から芽が出た状態で時間が止まっていたと考えるのが妥当でしょ。このランプにそんな力があるなら、今頃イモに花でも咲いてるわよ。ちょっとは考えなさいよ、このバーカ」とまくしたてると、突然口角を上げて偉そうな笑みを浮かべた。「まぁ、つまりは、私の仮定は正しかったってわけね。闇に呑まれた中は、ある時期から時間が止まっているってこと」
チルカの言葉をグリザベルは鼻で笑った。バカにしたわけではなかったのだが、チルカにはバカにした笑いに思えた。
チルカはすぐさま怒りの矛先をグリザベルに向けたが、グリザベルにしては珍しく怯むことなく、冷静にチルカを落ち着かせてから、自分の意見を話し始めた。
「最初に言うておくが、我にも結論はわからぬ。だが、チルカの言っていることも一理はあると思っておる。チルカの仮定が正しいとすれば、我らが体験した出来事で考えることができる。川の水が消え、時間が止まり、ランプの光で現れる。わかりやすく言えば、消失と停止と発生だ。そして、消失と停止こそが闇に呑まれる正体とも言えよう。言葉のつながりは様々だ。人体として考えるのならば、心の消失でも、肉体消失でもかまわん。思考の停止でも、生命の停止でもかまわぬ。お主らが浮遊大陸で経験したのは、安定からの欠落による焦燥感や不安感だ」
グリザベルは浮遊大陸に行ったことのあるリットとノーラとチルカを順に見た。
「いきなり話を広げるなよ。狭い世界で生きてきたくせによ」と、リットが文句を言う途中で、グリザベルはリットの眼前に手をかざして言葉を止めさせた。
「難しく考えるではない。どうせ我にも答えはわからぬ。消失と停止と発生という言葉も、今の状況をわかりやすくするのに使った言葉なだけであり、本質は別物だ。例えば発生とは出現とも言いかえることができる。見えぬ景色を出現させる。止まっていた時間を再び発生させる。それが、お主のランプの役割ということだ。赤子にでもわかるように、もっとシンプルに説明するならば、終わらない長い夜に太陽を昇らせて、新たな一日を始めさせに我らは向かっているわけだ」
「それって辻褄わせ臭くねぇか? 飛躍しすぎて着地点が見つかってねぇぞ」
「リットには話をしただろう。闇に呑まれるとはカオスだと。混沌とした中では、辻褄合わせもできぬものだ。それができたのだ。これ以上に嬉しいことはない」
グリザベルは急にリットを抱きしめると、ノーラ、エミリア、ヴィコット、ハスキーの順に抱きしめ、最後にチルカを胸に抱いた。
そして高らかにフハハと笑い声を響かせると、「我はこれから思考に入る」と急に黙って座ってしまった。
「なんなのよ……あのテンション……」
チルカは面食らった表情のまま呟くように言った。
リットも同じ表情のまま「知るかよ。わかったらオレまで狂人だ」と答えた。
二人とは違い、エミリアは難しく眉を寄せていた。
「結局……答えらしい答えは聞けなかった気がしたが……。闇に呑まれている中は時間が止まっているということなのか?」
「停止って言葉も仮らしいぞ。考えるだけ無駄だ。考えりゃ考えるだけわかんねぇよ」
リットはお手上げだと肩をすくめると、木箱の中からイモを一つ手に取ってチルカに投げた。
急に投げられてびっくりしたチルカは、慌ててイモを体全部を使って抱えるようにして受け取ったが、イモの重さに耐えきれずゆっくりと床に落ちていった。
「……なにすんのよ」と、イモに潰されたチルカが苦しげにリットを睨んだ。
「理由は三つある。一つ目はビックリさせて思考の停止をさせてみて、グリザベルの言った意味を考えてみようとした。二つ目は食っても大丈夫か聞こうとした。三つ目はただの憂さ晴らしだ。理解したか?」
「バカの頭の中なんて理解できるわけないでしょ! 理解できないからバカって呼ばれてんのよ!」
チルカは首筋に血管を浮かせてイモを持ち上げると、目一杯リットに投げつけたが、そのスピードは軽く投げ渡された程度のものだったので、リットは軽くキャッチするだけだった。
「なら食うか。意味のわかんねぇ話をされたせいで腹が減った。おい、ヴィコット。この伸び放題の芽を取るのを手伝ってくれ」
リットの言葉にヴィコットから反応はない。
リットが何度か呼びかけると、ようやく「おぉ、どうした?」と反応をした。
「芽を取るのを手伝ってくれって言ってんだよ」
「そりゃいいな。そこの暖炉の中に入れとけば、ちょうどいい具合に焼けるだろうな」
ヴィコットは周りに食べるかどうか聞くと、適当な数のイモを木箱から取り出した。
「誘っといてなんだけどよ。具合が悪いなら寝てろよ」
リットが言うと、ヴィコットはいつもどおりガハハと笑い飛ばした。
「グリザベルの話を聞いて考え事をしていただけだ。だが――まったくわからん」
「そりゃよかったな。わからねぇってことは、まだまともってこった」
イモで小腹を満たした後は各々眠りについた。暖炉の火も消え、焚き火の音がしない家の中はとても静かだった。
ランプの火が消えぬように見守るだけの火の番はとても暇で、リットは何回目かわからないあくびを音もなく響かせていた。
暇ということもあるが、暖炉のレンガが発する予熱の優しい暖かさが眠気を誘うせいもあった。順番を代わってもらったということもあり、リットは二番目の火の番だが、最初に火の番をしていたエミリアもその心地良さから、代わってすぐに寝息を立てていた。
リットは暇つぶしにと、グリザベルの荷物から本を勝手に拝借して開いてみたが、相変わらずなにが書いてあるかわからなかった。
内容を頭に入れず、ただ文字だけを目で追って時間を潰していると、背後で誰かがむくりと起き上がるのを感じた。
「それは我の持ってきた本ではないのか?」
グリザベルは起き抜けの細い目でリットが持つ本をぼんやり見た。
「そうだぞ。鞄のなかに落ちてたから拾っただけだ。勝手に読むたびに思うんだけどよ。魔女ってのはなんで、こんなに遠回しの言葉が好きなんだ? 線とは点と点を繋いでできるものとか、その線と線を繋いでできるのが円とかよ」
「お主が読んでるのは魔法陣に関しての書物だからだ。魔法陣とは繋いで出来上がるもの。いきなり線や円は存在せぬ。筆を落とす、最初の点から始まるのが魔法陣だ」
グリザベルは目をこすりながら立ち上がると、リットから本を取り上げた。しかし、その本を鞄にしまうではなく、ページをいくらか捲ってから、再びリットに渡した。
そのページの題には過去と現在と未来と書かれていた。
「線から円にはできぬものだ。過去から現在へと繋ぎ、現在から未来へと繋ぐ。未来から過去へとは決して繋げないもの。それを繋ぐものが出てきたら魔女の歴史は幕を閉じる。それはもう魔女ではなく、神の御業だからな。だが――」
グリザベルは言葉の途中で大きくあくびをした。
「そういうのもあるってんだろ。『神の産物』ってやつだ」
リットに言いたい言葉を奪われてしまったグリザベルは、下唇を突き出してむっと口を尖らせた。
「お主は少しくらい待てぬのか……我のセリフぞ」
「なら台本にでも書いといてくれ」
「まぁ……よい。その神の産物だが、作ったのは紛れもない人だ」
グリザベルの言う『人』とは人間だけのことではなく、獣人も妖精も亜人も、種族すべてを含んだ人だ。
グリザベルがそう断言したのは、知られている神の産物のすべてが『作られた物』の形をしているからだった。
レプラコーンの持っていた瞬間移動できる笛や、ディアナにあった未来が見える大鏡。
リットが実際に目にした二つとも作られた物の形をしている。
「魔女の話がしてぇのか、神の話がしてぇのか、どっちなんだよ」
「どっちもだ。世界が闇に呑まれれば、お主のランプは神の産物と呼ばれていたかもしれぬ」
「闇に呑まれりゃ、呼ぶ奴がいなくなるだろ。生き残ったのはランプなんていらない種族だけだ」
グリザベルは「そうなるな」と気にした様子もなく話を続けた。「そしてディアドレも、神の産物と呼ばれるかもしれぬエーテルを失敗した。偉大なる魔女も、過去現在未来のすべての人を含めれば凡人ということだ」
「それが結論じゃねぇだろ。話すなら話せ」
グリザベルが急かされたいとうずうずしているのに気付いたリットは、お望み通りに続きを話すように急かした。
「消失と停止と発生とは、過去と現在と未来に置き換えることもできる。だが勘違いせぬように。他にも置き換えることができる」
「そりゃ、さっきもう聞いた。テンション上げすぎて覚えてねぇのか?」
「現在とはこのランプの光の中だけかも知れぬということだ」グリザベルはランプの火屋を軽くつついて言った。「かと言って、闇の中に入れば過去や未来に行けるわけではない。入り混じった中から、紛うことのない現在を導き出す手段がランプということかもしれぬと思ったのだ」
「消失と停止が闇に呑まれる原因で、ランプが発生って言ってたじゃねぇか。オマエの理論で言や、ランプは現在じゃなくて未来だぞ」
リットの怪訝な面持ちに、グリザベルは待ってましたと言わんばかりの笑みを口元に浮かべた。
「間違ってはおらぬ。我らが進んでいるのは、現在ではなく未来だからな」
リットは「なるほど……」と深く頷いた。「盗み聞きして、ヴィコットに影響されたわけか。過去にこだわる魔女のくせによ」
「我は過去にこだわってるわけでない。魔女の歴史を大事にしているだけだ」
「なんだっていい。要はこのランプの中は、闇に呑まれた外の世界と、なにも変わらねぇってことだろ」
「そういうことだ。お主はその凄さが理解できていないようだがな。存外、お主のようになにもわかっていないような者が、神の産物を作り出してきたのかも知れぬな。物の価値もわからぬまま」
言い終わり、グリザベルは眠そうにあくびをすると、寝なおそうとして、その場に横になろうとしたが、リットに肩を掴まれ止められてしまった。
「そうでもねぇぞ。少なくともロウソクの価値はわかってる」
リットは傍らにある火のついたロウソクに目をやった。もうほとんど溶けており、溶けた蝋溜まりに火が触れ、今にも消えそうになっていた。
これはイモと同じく川の倉庫から見つけたもので、今日はこのロウソクが一本消えるまでが火の番をする時間だった。
「我は今まで起きていたのだぞ。暇そうなお主に付き合って」
「過去のことは気にすんなよ。進むべきは未来なんだろ?」
リットは新しいロウソクをグリザベルに渡すと、暖炉により掛かるようにして目をつむった。
背中に感じる人肌のように暖かなレンガの温もりは、耳元で響くグリザベルの文句の声をすぐに遠くさせた。




