第十一話
リット達が目指している本流の川は『マルヴィー川』と呼ばれ、ペングイン大陸では上から数えた方が早い大きな川だ。しかし、この川は海に流れつくことはない。
血管のようにいくつもの沢や川支流に別れ、そのどれも流末は湖や沼。時期によって枯れる河川に流れ込み、そこで水の流れが終えることもある。
その支流には、少数種族の小さな集落が点々と存在しており、独自の文化を他者に侵されることなく過ごしている。
マルヴィー川にはそういったいくつかの特徴があるが、一番の特徴は冬になると川が結氷し、厚い氷に覆われることだ。
そして、本流のマルヴィー川の川沿いには三つの都市がある。
一つ目は、上流にある『アルクバーシル』。鉱物資源が豊富なスキップ山脈に近く、それを水運するために最も河川港が発展しており、その規模は海港と見紛うほどだ。
他にも人工的に掘られた湖と、そこを閉鎖するための大きな水門が有名であり、貯水池として利用され、雪解けが遅い時や、雨で増水した時などに使い、川の水量を一定に保っていた。
二つ目は、下流にある『ハレアメド』。マルヴィー川とは別のクモォール川が注ぎ込むところに位置する都市だが、河川港はアルクバーシルほど発展しておらず、むしろ陸の港と呼ばれている。
その理由は、他国の輸出入はこの都市が中心になっており、海に流れないマルヴィー川ではここが船の終着点。ここから馬や怪鳥で海港まで運ぶ必要があるので、川よりも陸のほうが発展した。
三つ目は、その二つの都市の間にある『マージル』。川沿いであるとともに深い森に隣接しており、住民の八割はトナカイの獣人だ。この都市に河川港はなく、夏の間は孤立した都市になっているが、冬になり大地が真っ白に覆われる冬になると、結氷したマルヴィー川がアルクバーシルとハレアメドを結ぶ氷の道となり、それまで遮断されていた交通が慌ただしく動き始める。
トナカイの獣人は船の代わりに物資や人、それに森から切り出した木材を運ぶ。それは吹雪の中でも休むことはなく、真っ白な雪と、灰色の雪影の中でも互いにぶつかり事故を起こさないように、真っ赤に染めた服を着ている。
アルクバーシルに水門がある理由も、ハレアメドが陸の港として発展した理由も、マージルが冬にも運輸が滞らないようにする理由も、マルヴィー川はテスカガンドから流れてくるからだ。
三つの都市すべてが、テスカガンド城に確実に物資が届けられるように設備された都市だ。
つまり、この川はテスカガンドまで繋がっているということになる。
下流のハレアメドの看板を見たエミリアは、その安堵から今まで溜まっていた疲労に襲われ、倒れ込んでしまっていた。
「難儀な性格してんなぁ……」
リットは街の看板を足で踏み割ると、焚き火に焚べながら言った。
「いまさら強がりは言わん。思っていたよりも疲れていたようだ」
エミリアは横になったまま、揺らめく焚き火の炎を見つめる。
「そりゃそうだろ。熱もあるし、立ち上がる元気もねぇ。それで元気だって言うなら、世の中みんな健康だ。仮病以外の病気がなくなる。そうすると、すぐバレて仮病も使えなくなるな」
「私は病気ではなく、ただの疲労だ。寝ていれば治る」
「二日酔いと一緒だな。寝てりゃ治る。なんなら水でも持ってきてやろうか? 漏らすくらい水を飲むのが早く治すコツだぞ」
「遠慮しておく。この状態では、本当に漏らしてしまいそうだからな」
エミリアは寝返りを打って楽な姿勢を探すが、下が固い地面のため何度寝返りを打ってもしっくりこなかった。
「そこらに家があるってのに。なんだって外にいるんだよ。ハレアメドは都市なんだろ。どの家でも、火を起こせるくらいの暖炉があるだろ」
「皆が戻ってきたら、どこかの家を借りる。家の中より、外にいたほうが見つけやすい。ヴィコット殿の目も、だんだん見えなくなってきたと言っていたからな。一つ一つ家の中の確認をして物資を探しているのに、また一つ一つ家の確認をして私達を探すのは大変だろう」
「エミリアがぶっ倒れたのは、その気疲れが原因だと思うけどよ……どうすんだ?」
「どうするとはなんだ?」
「もうぶっ倒れたんだから、これ以上ぶっ倒れることはできねぇだろ。なんなら埋まるか? そうすりゃ、春には少しは実るだろ。心の余裕ってやつが」
「春が訪れるようになるとよいが……。そのためには我々がテスカガンドに向かい、早々に異変を解決しなければ」
エミリアは力の入らない手で、無理やり拳を握った。
「聞いてんのか? オレの話を。テスカガンドって単語には、心の余裕なんて意味はない。早々にもだ。一旦忘れろ」
リットは焚き火で温めたお湯を一口飲むと、わかってるのかと言う代わりに、エミリアに向かって人差し指を向けた。
「そうは言うが、目的を忘れることはできない。心に余裕を作るのと、心に隙を作るのは違うことだ。リットだって無理はしているだろう?」
「そう無理でもねぇよ。太陽が昇らなけりゃ酒場もない、毎日見るのは同じ顔で、食い物はほとんどスープ。屋根裏に監禁されてるのと一緒だ。どうってことない」
「それは文句と受け取っていいのか?」
「いいや、愚痴だ。嫌味と取ってもいいし、悪口と思ってくれてもいい」
「つまり、その全部というわけだな」
「理解したなら、言い返したらどうだ? 跳ね返ってこそのコミュニケーションだ。吸収されるなら、壁とでも話してたほうがマシだ」
「愚痴はしかたないとしても、悪口は必要ないものだ」
「ごもっともだ。知ってるか? 悪口を言わない奴は、悪口を言う奴のことを悪く言う。でも、これは悪口じゃないらしいぞ」
「そうだろう。直したほうがいいという思いやりの言葉だからな。悪口とは違う。言うなれば批判だ」
「感情のある批判ってのはただの悪口で、感情のある批評ってのはただの愚痴だ。自分の意見を通すことが目的になってるからな。そして、感情のある説教とはただの意見の押しつけだ。わかるな?」
いつもの立場とは反対に、リットはエミリアに説教するように人差し指を向けた。
「わかるぞ……。私が弱ってるうちに、都合いい言質を取ろうとしているな」
人差し指を見つめていたエミリアが眉間にシワを寄せて顔を見てくると、リットは肩をすくめた。
「水をたらふく飲んで漏らしてくれりゃ、そっちで弱みを握ろうと思ったんだけどな。残念なことに、まだ頭は働いてるらしい」
エミリアは「まったく……」と、ため息をつくと、もう一度、今度は別の意味を持つため息をついた。「すまない。気を使わせている」
「もっと気にしてくれ。自分の言い訳の為じゃなく、話題をすり替えたり、忘れさせたりってのは大変なんだ。言っとくけど、これははっきりとした愚痴だからな」
「さっきまでと言っていることが違うな。私に気疲れするなと言っていたではないか」
「まだ元気があるって気付いたからだ。もっと弱らせねぇと、いつまで私生活に口を挟まれるわからねぇからな。くたばる寸前までいって、劇的に復活してくれりゃ言うことねぇよ」
「ならば」とエミリアは寝たままの姿勢で両腕を伸ばした。「早いところ元気にならなくてはな。体を休め、会話で気晴らしをしているおかげで調子がよくなってきた。これで一晩寝れば、元通りだ。リットのおかげだな」
エミリアは笑みをこぼすと、ゆっくり上半身を起こして辺りを見回した。
闇の世界に、浮かぶように家の屋根があるのが見えた。栄えていた都市も、今では使い古された鶏小屋よりも静かに佇んでいる。
闇に呑まれ切り取られたランプの明かりの中の世界では、過去の喧騒ごとすべて吸い込まれたかのような無音が耳にうるさく響いた。
目を凝らしているのか、耳をそばだてているのかわからないエミリアを見て、リットは同じように周囲を見てから、お湯の入ったコップを渡した。
「キョロキョロ見回して、また悩みのタネでも探してんのか?」
「その逆だ。心配に及ばない世界のことを考えていた。このハレアメドは闇に呑まれる前はどんな街だったのかとな」
「どんなって、闇に呑まれたのは何百年も前のことだ。古くせえ街だろうよ」
というリットの否定的な意見に、エミリアは「伝統的な趣があるというんだ」と肯定的に捉えた。
「それに酔っぱらいの笑い声に、荷物積みの怒号が響く」
「活気のある街だ」
「よくまぁ、なんでもいいように捉えられるな。見たこともねぇのに」
「想像の話だ。わざわざ否定的に捉えることもないだろう。リットも見たことはないはずだが?」
エミリアは言いながら、むずむずとお尻の位置を変えて座り直した。
「たしかに、見たことも来たこともねぇよ。でも、わかる。見ろ」
リットは自分を見ろと両手を広げた。
「ずいぶん汚れているが、洗濯なら自分でするように」
「外面じゃなくて、内面だ。見ろよこの落ち着きよう。こんな道端でも肌が合ってるってことは、ここは酔っ払いが通る道ってことだ。反対に、さっきからそわそわしてるエミリアは肌が合ってない。つまり酔っぱらいが通る道だ。結論は、ここは酔っ払いが通る道だ」
「……そういうのは暴論と言うんだ。たしかにそわそわしているが、それは皆の帰りが遅いから、心配の気持ちを持っているからだ」
「心配することねぇだろ。こっちは十代のガキじゃねぇんだぞ。いまさら二人きりになったからって、ヨダレ垂らして、目をひんむいて、爪を立てて服をひんむくような狼になるつもりもねぇよ」
「ここにいる私達のことではなく、いない者達の心配をしているんだ」
「自分の心配をしたほうがいい。よく考えてみろ。物資を探しに行ったのは、ノーラとヴィコットのコンビに、グリザベルとハスキーとチルカのトリオだ。皆エミリアを心配して、元気になってもらおうと食料を探しに行ったんだぞ。わかってんのか?」
リットはノーラ達の行動を考えて眉をしかめたが、エミリアはまた別の意味で眉をしかめた。
「もちろんわかっている。ありがたい限りだ」
「いいや、わかってねぇ。ノーラとヴィコットのお調子者コンビだぞ。後先考えずに両手いっぱいに物を持って来るに決まってる」
「いいことではないか。河川港があるといっても、使えはしない。またずっと歩くことになる。物資はあったほうがいいだろう」
「エミリアに食わせるために持ってくるんだぞ。それがなんであれ、食わねぇとまた探しに行く。でも、まだこの二人はいい。問題はグリザベルとハスキーとチルカだ。特に、友達の看病と見舞いに張り切ってるグリザベル。まともな物を探してくると思ってんのか? どう考えても、魔女薬の材料を探しに行ってるぞ。そして、アイツは魔女薬を作り慣れてない」
「グリザベルは自分で説明できないものを人には飲ませないだろう。それに、魔女薬の材料のほとんどは植物だ。闇に呑まれた中では存在しない」
「違うな。魔女薬の材料のほとんどは、乾燥した植物だ。残念ながら闇に呑まれた中でも存在する可能性はある」
リットは家の屋根を指して言った。
数百年という時間はものを風化させるには充分な時間だが、今まで立ち寄った家々も、せいぜい数十年くらいの風化具合だった。床が抜けたり、壁が崩れたりはしているが、川の水や生えている草花と違い、人工的に手を加えられたものは時間の進みが違うように感じていた。
リットは「で、ついていったハスキーは――」と言葉を続ける。「グリザベルの根拠のない自信を信じて、せっせと魔女薬の材料を探すだろよ。なんたって鼻が利くからな。まぁ、エミリアを良く思ってるチルカは、最初は止めると思うけどな、グリザベルは無意識に神経を逆なでする。逆なでされたチルカも張り合って探す。妖精ってのは植物の知識が深い。あとは簡単だ。エミリアが飲めば終わり。本当にありがてぇか?」
リットに言われ、エミリアは少し長く考え込んだ。闇に呑まれた中に入った最初の時、グリザベルが持参した魔女薬を飲んでるのを見たからだ。
効果は確かにあったが、魔女薬は元気の前借りという言葉通り、飲んだグリザベルはしばらく元気になった後、しばらく使い物にならなくなっていた。
「気持ちは……気持ちはありがたい」
「素直にありがた迷惑って言えよ」
言いながらリットが焚き火に薪を足すと、木が焼かれ弾ける音に混ざって、ここにいない人数分の足音が響いた。
リットの思った通り、ノーラとヴィコットはたくさんの食料を抱え、グリザベルとチルカとハスキーは魔女薬の材料となる植物の根や葉を持っていた。
皆、体調が良くなり上体を起こしたエミリアに一安心すると、それぞれ持ってきたもので何かを作り始めた。
「これで、まだ弱っているところに漬け込むチャンスはありそうだな」
リットが鞄に頭をあずけて横になるのを、エミリアは両眉を寄せて深いシワを作って見ていた。
「最初から気付いていて、わざと何も言わずに皆を行かせただろう……」
「オレも前向きに色々考えてるってことだ。この旅が終わった後まで抑圧されちゃ、たまったもんじゃねぇからな」




